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 頭上には雲ひとつない紺碧の空。欄干にもたれかかっていた無悪の真上を、餌を求めて海鳥が滑空している。


 海上のうねりは沖から吹く風の影響で、甲板に立っていると多少上下に揺れる程度だった。大鰐会長が無茶な速度で操舵するクルーザー船の乗り心地と比べれば、たとえ時化シケだろうが凪に等しい穏やかさだった。


「サカナシさん。ソーマくんには軽い回復魔法をかけておきました」


 客室から戻ってきた声に振り返ると、風にたなびく髪を押さえながら歩み寄ってきたアイリスが、無悪の隣に立って同じように海鳥を眺める。


 ポチも足元にやってくると、くっつくようにして大きく口を開けて欠伸をしていた。


「回復魔法ってのは、船酔いにも効くもんなのか」

「まあ、気持ち程度ですけどね。それでもないよりはマシです」


 ヴィルムの港が水平線の向こうに消え、海竜船はセルヴィスに向かって順調に走っていた。ただ、一緒についてくと言って聞かなかった獅子連隊ビースターズの面々は、手すりに手をついて大海原を眺めているモニカを除いた全員が酷い船酔いに陥ってダウンしていた。


 獅子連隊の中で控えめな立ち位置のソーマは一番症状が酷いようで、客室で横になって起き上がることができないでいる。

 マルコとルキナはソーマほど酷くないとはいえ、欄干らんかんから身を乗り出して魚に定期的に餌を撒いていた。乗船前のはしゃぎっぷりが嘘のようである。


「おいおい、大丈夫か? 今日は年に数回あるかないかの〝凪〟の日だぞ。今からそんな様子で、無事に崩海域メイルシュトロームを抜けられるとは思えないがな」


 息も絶え絶えの二人に、ミトスの右腕であるノーマンが腕組をしながら難しい顔で尋ると、リーダーであるマルコは今まさに吐瀉物を撒き散らしていた口許を拭いながら、泣きそうな顔でノーマンに視線を向けた。


「こ、これが凪!?」

「そんな、神は私に死ねと言うの……」

「二人とも安心して。人間は船酔いでは死なないから」

「「安心できるかっ!!」」


 調子に乗りがちなルキナも、素っ頓狂な声を上げてフォローになっていないモニカに顔面を蒼白にして叫ぶ。その様子を見ていた乗組員からの嘲笑が飛んできた。


「ちなみに、崩海域はこの何倍辛いですか……?」


 怖怖と尋ねたマルコに、乗組員達はニヤニヤと笑いながら、各々の仕事へと戻っていった。ノーマンはしばし目を閉じ、マルコとルキナは固唾を飲んで次の言葉を待っている――。


「そうだな。単純に何倍と表現するのは難しい。崩海域は全方位から高波が押し寄せ、荒ぶる潮流は舵を安定させるのも至難の業の魔の海域だからな。海竜船で揉まれた船員でなければ立っていることさえままならない。そういう意味では、この程度で酔ってるようじゃ文字通り屍になることは間違いないな」

「そ、そんな……」

「アイリスさん。事前に回復魔法を強めにかけといてもらえませんか?」


 結局、アイリスは二人に回復魔法をかけてやり、あとは天に任せることにした。そもそも回復魔法を使える冒険者の絶対数は少なく、回復用のポーションは高値ということもあり、徒党パーティーに一人いると珍重されていた。


 そのため、敢えてどこの徒党にも組みせず金の多寡で冒険をともにするフリーの者もいる。にも関わらず、アイリスはガキどもから金を徴収するつもりなど微塵もない様子だった。


 今に始まったことではないし、言ってどうなるとも思えない甘さがいつか命取りにならなければいいと思う。


 そんな益体もない考えを巡らせていた無悪は、一人海を眺め続けていたモニカの横顔に目がとまった。愁いを帯びた顔で、視線は遠くの水平線の先を眺めているようにも見える。


 風向きが変わった拍子に、小さな口から童話のような――しかし子供ガキが口ずさむような親しみが沸く歌詞ではない歌が聴こえた。


 どことなく悲哀エレジーにも聴こえるが、無悪の他に気がついている人間はいない。兄のマルコとは似ても似つかない妹の歌声は、波間に消えて沈んでいった。



        ✽✽✽



 半日寝たきりだったソーマの顔色は、相変わらず真っ青ではあったが、どうにか起き上がれるまでに回復を見せた。


 夕食時になると魔法鞄マジックポーチに食事を予め詰め込んできた無悪一行とは対象的に、海竜船の乗組員どもは異世界の船旅では定番の、岩の如き硬度の黒パンをスープに浸しながら食べていた。


 歯をたてながら黒パンを噛みちぎっていた船長のミトスから、「セルヴィスに到着するのは二日後になる」と告げられると、残りのパンを口に放り込んでガキどもは死刑宣告受けたように顔面を蒼白にさせていた。


「今日のは予行演習にのうちにもならないぞ。明日はかなり荒れそうだから、覚悟しておくんだな」

「荒れそうって、いつも荒れてるんじゃないんですか?」


 半ば諦めの境地に達した虚ろな目でマルコが返すと、ミトスは真面目な顔でかぶりを振った。


「いや、風の流れがどうにもおかしい。海鳥も先の海域をやけに警戒してるし、普段は強気な海竜も今からピリピリして、気が昂ぶってるんだよ」



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