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「アンタ達もしつこいな。何度も頭を下げたところで海竜船に乗せるつもりはねえよ。とっとと帰んな」
否定の言葉とともに、剣呑な眼差しが四方から心地よく突き刺さる。船乗り共が集まる飲み屋に訪れた二人と一匹を、屈強な男どもが囲んでいた。
ただ一人――テーブルの上に足を乗せながら蝿を追い払うかのような仕草で、ミトスは来客である自分達の相手もろくにしようとしなかった。
「ややこしくなるだけだから」と、直前になって口を挟まないよう咎められた無悪は、頭を下げ続けるアイリスの後ろでことの成り行きを眺めていた。
ユースタスの知人と聞いていたので同年代の若僧であることは想像していたが、ミトスは船員の半分以下にも満たないような華奢な身体つきで、そばかすばかり目立つ顔をしていた。
天然パーマの短い赤毛は荒波のようにうねり、腕っ節が取り柄の船乗りを束ねていけるような才覚があるとは、海に関して無知な無悪にはとても思えない。
「残念だが船長が下した決定が覆ることはない。セルヴィスに向かうのであれば、遠回りだが安全な航路も存在する。ここで無為に時間を潰す必要もなかろう」
ミトスの横に立っていた男、二メートルに迫る体躯の副船長のノーマンが、後を引き継いで口を開く。ミトスの人を小馬鹿にするような口調とは対称的に、抑揚がなく落ち着き払っていたが、両眼にはミトス以上に余所者を拒絶する排他的な空気が滲んでいる。
「副船長の言う通りだ。アンタ達に出来ることは、回れ右して変えることだけだよ」
ミトスは腰に提げていたナイフの
一触即発の空気にアイリスの肩は震え、ポチは耳は垂れさせて弱々しく鳴く。残念だが、アイリスのそれは
✽✽✽
無悪が盃をもらう直前の頃、当時の兄貴分に連れられ、実地訓練と称して借金の取り立てを任されたことがある。
相手は相当な狸親父――闇金が無免許営業であること、出資法違反を犯していること、利息制限法に違反していること、全てを熟知した上で最初から踏み倒すつもりで借り入れていた。
――きっちり、取り立ててきます。
その場には無悪の他にもう一人、取り立てを成功させようと息巻いていた準構成員も参加していたのだが、好きなようにやってみろと告げられて率先して自宅の扉を叩いたのだが――結果はまるで役に立たなかった。
――自宅まで来やがって。警察に訴えるぞ!
――な、なんだとっ、テメエ! 訴えるんなら訴えてみろやっ! こっちは泣く子も黙る鬼道会だぞ!
男はすぐに伝家の宝刀を引き抜いた。今であれば代紋を振りかざした瞬間、一発で通報ものである恫喝にも狸親父は態度を変えることはなく、むしろ居直って対応しているように見えた。
――ヤクザがなんぼのもんじゃい! あんたらの違法ずくめな実態を、警察にタレこんでもいいんだぞ!
――このヤロウ、舐めてんのかっ!? 鬼道会相手に吐いた唾は呑めねえぞ! わかってのかっ、ああっ!?
顔を真っ赤に紅潮させ、裏返った声を撒き散らす情けない男を押し退けた無悪は、狸親父の前で仁王立ちすると黒目が揺れ動く瞬間を見逃さなかった。
人間には、脅しに屈するタイプと屈しないタイプの二通りが存在する。脅しに屈しないタイプには、暴力に屈するタイプと屈しないタイプの二通りが存在する。
狸親父は脅しにも暴力にも屈しないタイプだと無悪は認めたが、どんな頑固な人間でも自分の命は大事である。
相手を殺してもいい覚悟がないものには、肚を決めた人間を服従させることはできない。
――な、なんだよ、あんたも脅したって無駄だぞ!
――そのつもりはない。
――へ?
予告もなく顔面に拳を叩きつけ、ゴミが散乱する玄関に尻餅をついた狸親父の胸倉を掴んで立ち上がらせると、林檎も易々と潰す握力で喉を掴んだ。
頸動脈を締め、赤らんでいく顔には困惑と恐怖がブレンドされた表情が張り付いていた。
――刑務所に放り込まれるのは本望じゃねえが、俺に逆らうやつが存在するのは、もっと我慢ならない。お前が首を縦に振るまで手を離すつもりはないが、冗談だと思うなら黙秘したままでも構わない。
兄貴分は無悪の鬼気迫る演技だと解釈していたようだが、決して芝居などではなかった。逆らうものは誰であろうが許さない。狸親父が屈しなければ、本気で殺すつもりだった。
ようやく命の危機に瀕していることを悟った親父は、必死に首を縦に振って膨らんだ利息分ごと支払う約束をした。
✽✽✽
「おいガキ。誰の前でふんぞり返ってる」
「な、なにするつもりだよ」
ミトスに近づこうと歩みを進めた無悪の前に、割って入ろうとしたノーマンの鳩尾に拳をねじ込むと膝から崩れ落ちて嘔吐した。
一番の巨漢が、たったの一撃で無力化されたことで張り詰めていた空気が、瞬く間に萎縮していく。
「さあ、お前を守ってくれる忠犬はいないぞ。言っておくが、俺は生意気なガキに向ける情など持ち合わせていないからな。海竜船を動かすと約束しない限り、手を離すつもりはない」
あの日のように、目を白黒させていたミトスを片手で首を掴んで持ち上げると、足をバタつかせて藻掻いていた。
「はな……しやがれ……」
「なら、とっとと頷け。そうすれば離してやる」
静まり返る室内に、酸素を求めて悶えるミトスの荒々しい息だけが響いた。無悪を止める者は誰もいなく、アイリスの溜息が背中に刺さった。
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