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 手足の拘束を外され、ベンツの後部座席に乗せられた無悪は大鰐の隣で海まで車を走らせていた。てっきり近場の東京湾で魚の餌にでもなるのかと想像していたが、首都高へ合流すると神奈川方面へとひた走っていた。


 息が詰まるような空気が車中を支配する。道中は渋滞にも阻まれ、揺られること約二時間――辿り着いたのは静岡の熱海だった。


 何故熱海なのかと邪推していた無悪の視界に、吹き荒ぶ風によって白波が立つ相模湾が広がる。沖合に浮かぶゴマ粒大の漁船を眺めていると、隣で大鰐が口を開いた。


「俺は熱海で生まれたんだ。お袋は俺を産んですぐに亡くなったもんで、顔も知らねえ。漁師をやっていた親父に十五まで育てられた」


 それまで一度も口を開かなかった大鰐の突然の告白に、ハンドルを握る護衛が返事をしないことから自分に向けられた会話であることに、遅れて気がついた。


「漁のことしか頭にないような頑固一徹な人間でな、『勉強など糞の役にも立たない』と公言する愚かな人間だった。そのくせ酒が入ると頭に血が上るもんだから、ガキの頃は気に入らないことがあればすぐに殴られて顔を腫らせていた。幼心に、いつか殺してやると本気で思っていたよ」


 何を伝えたいのか、意図が掴めない独白を黙って聞いていた。


「腕っぷしだけは強い親父だったからな、抵抗するために自然と喧嘩ゴロは強くなった。中学卒業と同時期に、数人の不良仲間と結託して家を出ると決めた晩――安いばかりで旨くもなんともない焼酎で顔を赤らめて、屁をこきながらテレビを眺めていた親父を散々なじった。『こんな湿気た町で一生を終えるアンタは、そのまま勝手に死んでいけばいい』とな」

「それで、なんて言われたんだ」

「俺を一瞥すると、『出て行きたきゃ出ていけばいい』だとよ。罵倒もなければ勘当もない。うんともすんとも言わずにテレビに夢中だった。それが今生の別れだな」

「今生って、その親父はもう生きていないのか?」


 風に揺れる椰子やしの木が並ぶ海岸線を走り抜け、急勾配の坂道を駆け上っていくと海を見晴らせる墓地へと辿り着いた。


「少し歩こうか」


 無悪を車外へと誘うと、拳銃チャカを懐に呑んでるわけでもないのに護衛もつけずに先を歩きはじめた。


 茫洋と広がる海から伝わる潮風が鼻を突く。苔生した墓石の前で立ち止まった大鰐の背後で、無悪も習って立ち止まると両手を合わせて祈りを捧げた。


 数十秒はそうしていただろうか――合わせていた手のひらを下ろすと、一本の煙草に火を灯して線香台へと置いた。


「実家を飛び出して数年後に、親父が末期の肝臓癌で亡くなったと風の噂で耳にした。誰にも看取られず、寂れた病院の一室で苦しみながら一人亡くなったと聞いても、なんの感慨もわかなかった。今日が初めての墓参りだが、どうやら訪れてくれる身内は誰一人いなかったみたいだな」


 頭上でカモメが鳴いていた。共鳴するように大鰐の肩が震えて見えたのは錯覚か。


「無悪。お前は放っておけば、俺が手をくださずとも勝手に野垂れ死ぬ人間だ。とてもじゃないが、表の社会で生きていけるような人間じゃない。だから、今日をもってお前は俺の子だ」

「……は? なんでそうなる」

「俺と盃を交わすんだ。ヤクザでいう親子関係となるんだ。実の血縁関係より濃い血の絆は、一度結べば断ち切ることができやしない。その代わり、俺はお前の為すことを誰かが否定しても、その全て許して受け入れてやる。だから、子として俺の片腕になれ」


 家族――そんな陳腐な言葉に憧れていた自分は、物心つく前に死んでいる。今日初めて会った人間が、何を血迷った事を言ってると思った反面、大鰐の誘いに自然と肯いている自分がいた。


 心というものを持ち得ない自分を、世間から排除された自分を必要とする人間がいる。自分一人で持て余していた力を、初めて他人のために振るってもいいかもしれないと決意した瞬間だった。

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