第五章

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 リステンブールを離れ、無悪一同を乗せた馬車には剣呑な空気が漂っていた。

 対面トイメンに座る三つ首竜ヒュドラの面々――特に次男のザインは、因縁の相手とも呼べる無悪を前に忘れがたき屈辱きおくを回想しているのか、醜い顔をさらに醜く歪ませていた。


 耳障りの悪いしゃがれた声で、しきりに何かを訴えてきてはいたが、あいにく不明瞭声のせいで聞き取ることは叶わなかった。己に向けられる憎悪だけは小気味よく感じていると、リーダーで長男でもあるユースタスが代弁した。


「ザインはな、あんたのせいで二度とまともに声も出せなくなったんだよ」

「ほお。己の分もわきまえず、虎の尾に食ってかかってきた鼠が何処のどいつだか、もう忘れたっていうのなら思い出させてやろうか」


 かつて、リステンブールのギルドで絡んできた鼠を踏み潰したことがあった。

 ザインは無悪の爪先蹴りトーキックで喉仏を声帯ごと潰され、今ではその後遺症で満足に言葉も話せないらしいが、そのような話を聞かされても良心の呵責を感じることなど微塵もない。


 むしろ命が助かっただけ良かったじゃないかと――血走った目で俺を睨み続けるザインに告げると拳を怒りで震わせながら荒々しく立ち上がった。


 何をするのかと静観していると、腰から提げた二本の短刀の柄を掴んで鞘から放とうとしたところで、抜きん出た巨体の三男――ロンドレットが手首を掴んで首を横に振った。


「サカナシさん。いくらなんでも大人げないですよ」

「ザ、ザイン兄ちゃんも、おおお落ち着くんだな。こここれはギルドマスターからの依頼クエストななんだから」


 弟になだめられているザインに、薄ら笑いを浮かべて挑発するような態度を取っていた無悪をアイリスが怒った顔で制する。


 足を下段蹴りローキックで折って顔面を踏み潰してやった三男のロンドレットが、吃音きつおんを挟みながら仲裁に入ったのは意外だった。


 激昂して暴力に訴えようとしたザインを宥めたのは好判断だと言っていい。もしも抜刀していたら――その時は三つ首竜の名前を変更せざるを得ない事態になっていたことは間違いなかった。


「ふん。しかし……どうして貴様らのような雑魚が俺達の護衛を任されたんだろうな。そんなもん邪魔なだけで必要ないというのに」

「だから言ってるじゃないか。普通子供を連れて二人だけで旅をする奴なんて、この世にはいないんだよ。アンタは確かにそこらへんの不良ゴロツキ程度なら気にも留めないだろうが、余計なトラブルを招かないようにと妖精姫ババアがわざわざ俺達を護衛につかせたんだ。言ってみれば道中のお守りだよ」

「そそ、それに、こここれから向かうヴィムルには、ユースタス兄ちゃんのし、しし知り合いがいるんだよ」

「知り合いですか?」

「ああ、昔一緒につるんでた仲間だよ」


 アイリスが小首を傾げて尋ねると、その仕草を目にしたユースタスは、あろうことか頬を褒めて目を逸らしながら答えた。


 アイリスの一人称は慣れ親しんだ〝僕〟」のままだが、男の振りを続けることをやめて女であることを包み隠さずに暮らすようになっていた。


 結果、男連中からよこしまな視線を集めるようになってしまい、その都度俺が護衛ボディガードよろしく寄ってくる蝿を追い払う役割を担っていた。


 かつて数えきれない女を地獄に叩き落してきた自分が言うのはなんだが、この男もそのうちの愚かな一人かと認識すると――御者に鞭打たれる馬が怯えて暴れるほどの殺気が漏れ出てしまった。


 わざとらしく咳払いをしたユースタスは、当面の目的地であるセルヴィスと崩海域について講釈を始める。


「セルヴィスは陸地を急峻な山脈という天然の砦に守られているが、海は海で崩海域メイルシュトロームという複雑怪奇な海流に守られてるんだよ。崩海域の知識くらい異国人でも知ってるだろ」

「さあ、聞いたこともないな」


 素直に答えると、信じられないといった様子で兄弟揃って人を馬鹿にするような視線を寄越してきた。


「本当かよ……。今更だが、アンタってどれだけ遠くの異国からやってきたんだよ」

「ま、まあそれは置いといて、実は僕も詳しく知らないんですよね。良かったら教えてもらえませんか?」


 俺が異世界からやってきたことを知っているのは、今のところ妖精姫とアイリス――それに思い出すのも業腹だが七大魔族の一人、マモンだけだった。余計な波風を立てないように三つ首竜にも教えるつもりはなく、誤魔化すように会話に割って入ったアイリスが話を逸した。


「アイリスちゃんの頼みなら仕方ない。それなら、この僕が懇切丁寧に教えてあげよう」

「なにが〝僕〟だ。この軟派野郎が。いいから要点だけまとめてさっさと教えやがれ」


 点数稼ぎをしようという魂胆が見え見えなユースタスに釘を刺す。


「そう焦るなって。崩海域というのは常人には予測不可能な潮流の海域で、その激流は熟練の航海士ですら恐れをなして近寄らないことで有名なんだ。たまに勇気と蛮勇を履き違えて侵入を試みた船が、四方八方から絶えず押し寄せる荒波にあっと言う間に船体ごと呑まれて難破してしまう事例もある。何故そのような特異な現象が起こるのか原因は定かではないが、遥か昔に神々によって封じられた大海の悪魔のせいだとも言われている。さすがに突飛な話で誰も信じてはいないけどな」

「つまり遠回りをするしかないってことか」

「真っ当な思考の持ち主であればな。ただし崩海域は広いうえに、潮の流れを避けてギリギリを迂回していると突如範囲を拡大して巻き込まれてしまう恐れもある。迂回するにも相当遠回りしなくちゃいけないうえに、かなり時間がかかると見た方がいい。もしもヴィルムから最短距離でセルヴィスに向かおうとすると、とうしても崩海域を突っ切らなければならないんだよ」


 ユースタスの話を聞いた無悪は、悩む素振りも見せずに「崩海域を直進する術はないのか」問い出した。


 もたもたと時間を掛けるのは趣味ではない。なにより障害物を避けるという発想が許せない無悪の脳裏には、迂回の二文字など最初から浮かんでいなかった。


 ハナから答えを予想していたのか――溜息を吐いて首を横に振ったユースタスは「そう言うだろうと思った」と、呆れにも似た声色で呟く。


「あるにはある。普通の帆船では不可能だが、海竜シーサーペントに船を曳航えいこうさせる海竜船であれば、崩海域を通り抜けることも可能だ。ヴィルムに住んでいる親友が海竜船の船長をしてるんだよ」


 海竜は全長二十メートルほどの竜族に分類される種族で、海中の覇権争いではピラミッドの上位に君臨する存在だという。


 知能が高く俊敏性も高い。戦闘能力も高いうえに気性も荒いため、海上を航行する冒険者にとっては最も遭遇したくないモンスターの一つらしいのだが、いにしえよりその海竜を手懐けて他のモンスター除けに利用し、船を曳航させていたのが九龍クーロン船団という会社らしい。


「わかりました! そのお友達に頼めば船を出してくれるんですね」

「流石に無料タダというわけにはいかないだろうけど、少しは安く見積もってくれるだろう。ちなみに旅銀はどの程度持ち合わせているんだ?」

「金の心配はない。昔、妖精姫から貰いそこねた分の報酬を足して懐はそれなりに潤っているからな」


 二年前――アイリスを置いて去ったあの晩、妖精姫から受け取らなかった大金貨七枚は保管プールされていたようで今回の旅の餞別として、手渡されていた。


 当面は不自由な生活を送らなくて済みそうではあったが、アイリスを可愛がっている妖精姫から『魔法鞄マジックポーチ』という鞄も、大金貨と併せて授かっていた。


 なんでも相当値の張る一品のようで、鞄の中には異空間へとつながる複雑な術式が組み込まれていた。大量のアイテムを詰め込むことができる冒険者垂涎すいぜんのマジックアイテムだと、ユースタスは物欲しそうな目で見ていた。


 持ち運びに苦労する神狼フェンリルの魔石の一部も保管してあり、今ではアイリスの腰から下げられている。


「そういえば、冒険らしい冒険ってこれが初めてですね」

「そう言われると、そうかもしれないな」


 アイリスに指摘されて振り返ると、この世界に訪れて何かと災難トラブルに巻き込まれてばかりで旅らしい旅をしたことがなかった。


 幌から見上げた空には、二人の出発を祝うかのように高く澄んだ青空に虹が掛かっていた。


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