20

 誰かが執拗に自分の名を連呼していることに気が付いた無悪は、重い瞼を開けると菫と瓜二つのアイリスと視線が交わった。


 意識を失っている間に膝枕をされていたようで、きつく手を握られていた。

 そこは廃ビルなどではなく、黄金之里エルドラドの社長室――部屋の隅でライオネルが白目を剝いて斃れていた。


「良かった……もう二度と目覚めないかと思いました」


 よほど安堵したのか、震える声で無悪を見下ろすアイリスの瞳から、一粒の涙がこぼれ落ちて無悪の頬で弾けた。


「いやあ、素晴らしいものを見せてもらいました。私が思い描いていた未来図とは異なる結末エンディングでしたが、まあこれも一興ということにしておきましょう」

「……お前の魔法によるものだったのか」


 シワの寄ったスーツを手で払いながら起き上がると、拍手をして褒めそやすマモンと視線が重なった。


「御名答。咎の証明フェアダムニスは永遠に抜け出せない無限牢獄――のはずだったのですが、まさか自力で目覚める人間が存在するとは思いもしませんでしたよ。同等の実力を有する魔族ならいざ知らず、矮小な人間に破られるとは謳い文句も取り下げなければなりませんね」

「俺が見ていたのは、いや……見せられていたのは幻だったんだな」

「私は強欲を司る魔族ですからね。対象が望む幻術の世界に閉じ込めることで、内に秘めている美しい欲望をさらけ出すお手伝いをしてさしあげてるのです。ところが蓋を開けてみたらどうですか! 恩人を殺害した仇敵をあろうことか守るとは、数千年人間の本性を覗き見てきましたが、貴方みたいな方は初めてですよ。それにあろうことか、〝異世界人〟だとは――これもなにかの巡り合わせでしょうか」

「なあ、一つ聞いてもいいか」


 顎に手を当て、思案げな顔で余裕すら見せるマモンに尋ねる。


「菫は無事だったのか」

「……はい? ですから貴方が見ていたのは幻だと、説明したばかりじゃないですか。無事も何もあの世界に登場した人間に命なんてありませんよ」


 怯えて震えていた菫の顔を今一度思い出し、蝿皇ベルゼヴルほふった際の一撃に匹敵する魔素をグロックに込めた。


 守備の構えも取らないマモンに向けて至近距離から放たれた弾丸は爆発的な推進力で対象物に向かう。


 触れるもの全てを粉砕する威力をほこっていたはずなのだが――まるで透明の壁にでも阻まれるかのように空中で止まると、推進力を失った銃弾は虚しい音を立てて床に落下した。


「随分と異様な形状をした魔法武器のようですが……その程度の魔素を込めた攻撃では私に傷を負わせることは永劫不可能ですよ」

「はは、貴様のような強者が、まだこの世には存在するのか」

「口を慎みなさい。貴方程度の実力、魔界では特別でも何でもありません。さて、残念ながら望んだ魂の味を堪能できそうにはありませんが、そろそろ終幕フィナーレとまいりましょうか」


 それまで飄々としていた態度のマモンは、片手を上げるとスイッチを切り替えたように殺気を漏らした。無悪とともに修羅場を潜り抜けてきたアイリスですら、圧倒的なプレッシャーに小さな声で悲鳴を上げて後退った。


 無悪自身も、底が見えないマモンの戦闘力に背中から汗が伝い落ち、アイリスをいかにして守るか頭をフル回転させていると背後からアイリスが呟く声が聞こえた。


「同じ七大魔族で、こうも実力が違うなんて……」

「……そこの娘、今なんと言いましたか」

「なにって、〝同じ魔族でこうも違うなんて〟と言いましたが」

「ふむ……。まるで同僚と拳を交えたような物言いですね。色欲アスモデウス嫉妬レヴィアタンはまだ顕現には遠いですし、怠惰ベルフェゴール憤怒サタンも滅多なことでは人前に姿を現さないという意味では一緒です。傲慢ルシファーはそもそも音信不通ですが……となると消去法で暴食ベルゼヴルと邂逅したことになりますが、何故五体満足でお二人は生きてるのでしょうか。あの単細胞バカ相手に逃げおおせることができる人間など、この世にはいないはずです」


 どういう風の吹き回しか、とどめを刺そうと構えた手を下げたマモンは、アイリスに理解ができないと言った様子で尋ねてきた。


「そんなこと聞かれても知りませんよ。確かなことは、不完全な顕現をした蝿皇はここにいるサカナシさんが倒したということです」

「貴方が、暴食ベルゼヴルを倒したですって?」


 初めて驚いた顔を見せたマモンは、何が面白いのか腹を抱えてくつくつと笑いだすとそれまで放っていた殺気を霧散させて、窓の外を見やった。


「そうか、あの御方のも完璧ではないということか――」

「あの御方だと? そいつは一体誰だ」

「それは言えません。知ったところでどうしようもないでしょう」


 無悪の問いに答えることはなく、二人の間を悠然と通り過ぎると扉の前で立ち止まって振り返る。


「今回は私の気まぐれで見逃してあげることに致しましょう。そのほうがなにかと未来が見れるかもしれませんし」


 そう言い残すと、扉を潜り抜けたマモンの姿は足元から霧となって視界から消えた。姿は見えずとも声だけが頭の中で聞こえる。


「もしも救われた命をドブに捨てたいのであれば、海賊が支配する国セルヴィスに向かうといいですよ。貴方達が知りたい情報の一つや二つ手に入るかもしれません」


 そう言い残すと、今度こそマモンの気配がその場から消えた。

 存在そのものが幻であったとでもいうように――。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る