19

 無悪と菫は監禁されていたホテルから脱出すると、タクシーに乗りこみビルのオーナー以外は誰も無悪が借りていることを知らない雑居ビルの一室に身を寄せていた。


 以前入居していた会社は不況の煽りをもろに食らって連鎖倒産し、億単位の借金を背負って精神的に病んだ社長が首を括った事故物件である。


 金目になるもの以外は夜逃げ同然に雑然と放置され、今も当時の名残りを残すスチールデスクや椅子がホコリを被り時が止まっている。


 ただでさえ曰く付きの物件だといいうのに、繁華街から離れた立地も決して良い条件とは言えず、手放そうにもビルそのものの築年数が数十年にもなり、買い手も見つからなかったようだ。


 ビルを所有するオーナーに相談を持ちかけられた無悪は、利用価値ゼロに等しい物件をの事態に備えて借りていた。資金繰りに困っているオーナーも少しでも家賃収入が入ればと、目的も聞かずにその日のうちに鍵を手渡した。


 十数年振りに一人で立ち寄ったコンビニで購入したお握りをビニール袋ごと手渡すと、いそいそと包装を開けて菫は小さな口で頬張る。


 よほど腹を空かせていたのか、一つ目をペロリと平らげると、すぐさま二つ目に手を伸ばしてホットスナックも口に突っ込んで空腹を満たしていた。


 口に出来るものであればなんでも良かったようで、喉を詰まらせながら一緒にカゴに入れたジュースで流し込む。


「ねえ……さっき私の事をアイリスって呼んでたけど、その子っておじさんの娘だったりするの?」

「馬鹿言うな。俺はガキなんて作らねえよ」


 この勢いだと自分の分は残りそうにないと諦め、アルバイトの小僧に震える手でレジを打たせて手に入れたラークを咥えた。

 火災報知器の設備も整っていない欠陥ビルなので気兼ねなく紫煙を燻らせていると、菫は腰掛けていた椅子を回転させながら独り言のように口にした。


「ふーん。そっか」

「何か気になることでもあるのか」

「おじさんの声でアイリスって呼ばれたときね、昔見た夢を思い出したの。その世界で私はアイリスって呼ばれていて、何処かの国の元お姫様だったみたい。隣にはいつも私を守ってくれる口の悪い男の人がいて、何度も命を助けられた。顔はよく覚えていないんだけど、ちょうどおじさんと背格好が似ている気がするんだ」

「……ふん。そいつはお前にとって白馬の王子様ってわけか」

「それにしては態度が悪かったけどね」


 そう告げた菫は初めて頬を緩めて微笑んだ。この笑顔を曇らせたくない――ふと、そんなことを願ってしまった無悪は微かな異音を聞き取りり、視線を扉に向けるとハンドシグナルで「黙れ」と菫に伝えた。


「な、なに?」

「……シッ。いいから黙っとけ」


 家賃の安さ故に、六階建ての雑居ビルの一室を借りているテナントは複数存在するが、四階より上を借りている会社は把握している限りゼロのはず。


 無悪たちが身を隠しているのは最上階の六階――即ち訪れる者は本来皆無でなければおかしいのだが、扉の向こうから複数の殺気が近づいていた。


「おい。そこらへんのスチールデスクの裏に隠れておけ」

「ちょっと、なにがいったいどうしたっていうの?」

「……どうやら招かれざる客が来たようだ」


 ――思い返せば、全て自分を嵌める為に仕組まれた計画だったのではないか。


 伊澤が自分に罪を被せて首級を上げれば本家に成果が認められる。そして大鰐会長に気に入られていた自分が消えれば喜ぶ人間など山程いる。


 下剋上が当たり前の極道の世界では親を消す子がいたとしても何らおかしくない。


 グロックを引き抜いた無悪は、この絵を描いた黒幕の存在を一旦忘れて全神経を唯一の出入り口である扉に向けた。


 それから時間を置かずに荒々しく開かれた扉から雪崩込んできたのは、全員が全員目出し帽を着用した集団だった。その数四人――全員の手にハンドガンが握られている。


「死ねっ! 無悪!」


 先頭にいた男は自らを鼓舞するように吠え立てたが、構えるより先に無悪は銃弾を発砲していた。引金を引く前に右目を射抜かれ崩れ落ちた男の姿に、背後の男が怯んだ隙を見逃さず今度は確実に眉間を撃ち抜いた。


 人間は心臓を撃ち抜けば即死に至ると思いがちだが、実際は心臓を撃たれても数秒、あるいは十数秒間地獄のような息苦しさのなか息が続く。


 とくに多対一の場合、死んだと思った相手に反撃でもされればひとたまりもないので、人間の生命を司る部位が集中する頭部を狙うのは至極当然のこと。


 瞬く間に二人を殺された目出し帽男は、二人揃って銃弾を全て使い切るつもりで乱射してきた。咄嗟に横に一飛びして菫が隠れているデスクの物陰に隠れる。

 菫は両耳を塞いで怯えていた。


 頭上を弾丸が飛び交い、窓ガラスが粉々に砕け散る中で無悪の脳裏には欠けていた記憶が蘇る。


 ――あれは夢じゃない。実際に体験した出来事で、この世界こそ夢だったんだ。


 そして、自らにたてた誓いを今更ながら思い出す。


「安心しろ。お前のことは俺が守ってやる」


 壁や天井に撃発音が反響し、菫の耳に無悪の言葉が届くことはなかった。

 ヤクザが正義のヒーローよろしく、本人に気持ちを伝える訳にはいかない。だが、たとえこの世界が幻だとしてもオレの隣におアイリスがいる限り――俺は何度だって助けてやる。


 階下では数台のワゴン車が急停車するブレーキ音が聴こえ、六階にいても十分届いてくる怒号が、エレベーターを待たずに階下から迫り上がってきた。


 守勢に回っている場合ではない。

 隠れていたスチールデスクを飛び越えて、狂気とは違う感情に身を委ねた無悪は、すぐに二人を殺害すると落ちていた拳銃を拾い上げて生存確率ゼロパーセントに等しい闘いに挑んだ。


 全ては大事なモノを守るために――。

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