18
伊澤が部屋を後にすると、二人きりとなった室内には今にも壊れそうな空調の音だけが喧しく響いていた。
掛ける言葉が見つからず、テレビを点けても流れたのはよがり狂う女の映像ですぐに消した。仕方なくソファに腰掛けて煙草に火を灯すと、なかなか収まらない頭痛に堪えながらガキの体に視線を向ける。
一目見て凹凸に乏しい貧相な体つきであることを知り、今頃伊澤の手によって葬られているであろう男は相当な
無悪の視線に気が付き、意味をはき違えたガキは爪先から
唇を震わせて精一杯の
「そ、それ以上近付いたら舌を噛み切るよ。アンタたちの大事な大事な親分をゴキブリを踏み潰すように殺した犯人に自殺でもされたら、ヤクザとしての
人一人を殺したあとは、それが初めての経験であればなおさら気分の浮き沈みが激しくなるのが常である。ガキも多分に漏れず引き攣った笑顔を浮かべ、
「やれるもんならやってみろ。言っておくが舌を噛み切ったところで簡単には死ねないからな。むしろ激痛に苦しむ時間が伸びるだけで良いことなど一つもないぞ」
「もういい! お母さんの仇を取った今、楽に死ぬことだけがせめてもの救いだよ。ねえ……オジさんの持ってる拳銃って本物なんでしょ? 私があのクソ親父を殺したようにさっさと私を撃ち殺してよ。こんな貧相な体で良ければ、死んだ後なら好きにしてもらっても構わないからさ――」
ガキの言い分を聞き終えた無悪は、深く煙を吐き出して灰皿に煙草を押し当てると無言で立ち上がった。自嘲気味に吐き捨てるガキに詰め寄ると、部屋の外までこだまするほど短く乾いた音が響いた。
「――痛っ、な、なにすんのよ!」
「ギャーギャー喚くな。軽く頬を張ってやっただけで痛がってるようじゃ話にならねぇぞ」
頬を叩かれて赤く腫らせたガキは、自分の身に何が起こったのかわからない様子でキョトンとし、次第に腫れ上がる頬を押さえると甲高い声で怒りをあらわにした。
「私は一撃で殺してくれって言ってるの! どうせお仲間が戻ってきたら問答無用で殺すんでしょ。ならつべこべ言わずにさっさと済ませればいいじゃん!」
「ガキが吠えるな。いいか、殺される覚悟もなしに復讐なんてするもんじゃねぇぞ」
返す手でもう一発頬を張ると、唇を噛み締めて目尻に涙を浮かべて睨みつけてきた。
「生きていて……何一つ良いことなんてなかった……。私の人生って一体何だったの?」
悲痛な面持ちで声を振り絞るガキの様子に、無悪はまたしても原因不明の頭痛に襲われてよろめいた。
たたらを踏んでソファに体を沈めると、脳裏には
日本とはまるで違う世界で行動をともにしている夢と現実ともつかぬ映像が、ところどころ欠落してノイズ交りに再生されてゆく。
――俺は、記憶の中の少女の名を知っている。
「おい……アイリス」
「は? 私は桑原菫よ。そんな外人みたいな名前なんて知らない」
「だろうな……俺の勘違いだ。今の発言は忘れろ」
現実と虚構の区別もつかなくなるとは、すぐに精神病院に叩き込まれてヤクザを廃業せざるを得ない状況なのかもしれない。
だが、今このときばかりは、自分が抱いた気持ちに素直に従おうと覚悟を決めた。
「ここでは何人もの人間が死んでいる。人一人消息を絶ったところで誰も不審に思わない」
グロックのかわりに手を差し伸べ、無悪の顔と分厚い手のひらを交互に見返すガキに「一度だけしか聞かない」と前置きをして、二択の質問をぶつけた。
「望むのならここから逃してやるよ」
✽✽✽
無悪の指示通りに始末を終えた伊澤が、事件の首謀者である桑原菫を監禁している部屋に戻ってくると室内のどこにも二人の姿はなかった。
慌てる素振りも見せず非常階段に通じる扉の鍵を確認すると、普段は施錠されているはずが何者かに開けられた形跡が残されていた。
伊澤は無悪に何度も連絡を取ろうと試みたが一向に出る気配はなく、別の番号にすぐさまかけると報告を待ちかねていた男の声が聞こえた。
「どうした。事は済んだのか?」
「それが、始末をする前に無悪とガキに逃げられてしまいました」
「……なんだと? 貴様の計画通りに行ってないようだが、任せて大丈夫なんだろうな」
静かに怒気を孕んだ声に伊澤は淡々と返す。
「申し訳ありません。ですが計画は必ずや遂行します。無悪は前会長を殺した首謀者として私の手によって殺される――その未来に変わりはありません」
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