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 けたたましいクラクションの音に目覚めた無悪は、外を流れる高層ビル群と運転席でハンドルを握る伊澤を見て、しばらくの間眠りに落ちていたことを自覚した。


 生まれてこの方、風邪一つ引いたことのない頑強な身体は、酷く重怠おもだるい倦怠感に支配されていた。全身が強張り、本皮の後部座席に汗染みを残すほどの寝汗をかいている。


 ――長い夢を見ていたような気がする。


 首筋を拭いながら、頭から欠落したナニかを埋めるように夢の内容を思い出そうとするも、体が拒絶反応を示すかのように無悪のこめかみに鋭い痛みが走る。


 思わず顔を歪めて俯くと、前方に視線を向けていた伊澤が声をかけてきた。


「珍しいですね。オヤジの体調が優れないところを初めて見ましたよ」

「……少し疲れていたんだろう。アイリス、火を寄越せ」


 ラークを取り出し口に咥えると、火がないことに気が付き隣に穂先を向けて声をかけたが、そこには誰の姿もなかった。

 そもそもアイリスとは誰を差す名前なのか――。どうかしたのかと尋ねてくる伊澤になんでもないと返し、口をついて出てきた人物の名前を思い出そうとすると、やはり頭痛にはばまれてしまう。


「オヤジ、本当に大丈夫ですか? 聞き耳を立てるようで憚られたんですが、眠っている最中も私が知らない外国人の名前を呟いたり、妙に苦しそうに悶えていたりしたものですから心配していました」

「夢を見ていただけだ。それよりこの後の予定はなんだ」

「何を仰ってるんですか。前会長を殺害した犯人を監禁しているホテルに向かってるんですよ。やはり相当お疲れのようですね。この一件が片付けば晴れて本家幹部の仲間入りを果たすこと間違いないでしょうし、この機会に少し休まれてはどうですか」


 伊澤が平然の吐いた言葉に絶句し、咥えていた煙草を熱さも忘れて握りつぶす。


「……おい。今なんつった? 大鰐会長をバラした犯人を捕まえただと?」

「どうしたんですか、先程から。本宮会長からの指令で前会長を殺害した犯人を血眼になって追っていた日々を、まさかお忘れになるはずもないでしょう。何処かの組織に雇われた狙撃者ヒットマンだと思ってましたが、まさかだとは思いもしませんでしたけどね」

「犯人がガキだと?」

「ええ。警察が嗅ぎつける前になんとか物的証拠を押さえて犯人に行き着いたのですが、身を隠していたところを捕らえると『親を殺された恨みだ』と喚いていました。相当強い殺意を抱いていたようです」


 犯行時に使用された銃の出処はまだ判明していないという。恐らくは何者かに唆されて代役として引金を引かされた可能性が高い。

 今はネズミ一匹逃げ出せない部屋の中に捕らえてると説明した伊澤は、口籠りながらそのガキの扱いに困っているという。


 目覚めてからというもの、記憶の齟齬そごとは呼べないレベルの物忘れが立て続けにこうも頻発すると、脳に重大な疾患を抱えている可能性も大いに考えられる。 


 無悪は馴染みの闇医者に精密検査の予約を入れるよう伊澤に伝え、時間が空き次第人間ドックに赴こうと決意し、ガキの名前を尋ねた。


「聞いて驚かないでくださいね」

「勿体ぶるな。さっさと話せ」


 ヤクザに追い込まれて自殺を選択する軟弱者は一定数存在する。この苦界から一人、救いを求めて三途の川を渡ろうとしたところで残された者に被害が及ぶことすら考えが及ばない愚か者に、ハナから存在価値もない。


 残されたガキには泣いている暇もない。

 親の残した負債を背負って生きていかなければならず、甘い汁を吸い続けるのがヤクザという生き物――現実を変えたければ恐怖を押し殺してでも立ち向かわなければならない。


 そのガキは何者かに利用されただけかもしれないが、日本を二部する鬼道会の頂点に何度も引金を引いた覚悟の大きさは、対象が無悪の恩人でもなければ褒めてやってもいいとさえ思えた。


「前会長を殺害したガキの名前は――」


 アクセルを踏まれたベンツは国道を疾走し、スピードメーターはぐんぐん上昇していく。


桑原菫くわばらすみれ。認知されていないようですが、前会長の血を受け継いだ一人娘です」



        ✽✽✽



 青天の霹靂とは、今現在の状況をおいて他にはあるまい。鬼籍に入るまで、大鰐源三は「肉体関係を結んだ女の数は星の数にのぼる」と豪語していたことをよく覚えている。


 だが、ただの一度も血を分けた肉親がいるという話を耳にしたことは一度もなかった。今になって十年以上前に二人きりの飲みの席で、珍しく湿っぽく語っていた会話の一端を思い出した。


「俺等極道は、遅かれ早かれ地獄に堕ちる運命が予め決められている身分だ。誰を傷付けようが苦しめようが、いつか訪れる罰を覚悟の上なら構いやしない。だがな、実の子供を作るのだけは止めておけ。血を分けるというのは、自ら負うべき不幸を子胤こだねに分配することと等しい行為だからな――」


 当時は酒精が回って、舌が回りやすくなっただけかと気にも留めなかったが、改めて思い返してみると大鰐会長を殺害したガキの年齢は、似合わない忠告を伝えられた時期とちょうど重なることが判明した。


 伊澤の調べでガキの母親は蒲田かまたのスナックに勤めていた女だったという。馴れ初めまでは調べがつかなかったようだが、月に一、二度、大鰐会長が自ら足繁く通っていたことから相当な入れ込み具合であることが無悪には理解できた。


 赤信号で停車し、前方の交差点には仲睦まじく手を掴んで歩く母子の姿が通り過ぎていた。


「親を殺されたと言ってるんだよな。ということは会長は自分の妻を殺したっていうのか」

「そこまでは……。ただ、すくなくとも妊娠の兆候に気がついてからは一度も顔を見せなかったようです」


 


 


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