15

「失礼します」


 認められた者だけが足を踏み入れることを許される聖域――黄金之里エルドラドの社長室には仕事に戻ったはずのアイリスが、居心地悪そうにソファに腰掛けていた。


「サカナシさんも呼ばれてたんですか?」


 小声で囁いてくるアイリスに首肯し、隣に腰掛けながら考える――。

 直前の行動を考えれば、自分の妻とあろうことか職場で不貞を犯した罪に対する罰を糾弾されてしかるべきだが、カップボードから琥珀色の酒とグラスを手に取ると先ずは一杯勧めてきた。


「いえ、まだ仕事があるので」


 何を混入されるかわかったものではないので、就業時間内であることを理由に固辞した。断られるもさして気分を害することなく並々と注いだグラスを呷ると、赤ら顔ではどうか平然と尋ねてきた。


 隣からアイリスの怒気を孕んだ視線が突き刺さる。


「アレは外面そとづらも悪くないし、仕事もそれなりにできる優秀な女だ。夜の方は私が興味がない分溜まりに溜まってるようだが、君が上手く発散させてくれているようで私も助かるよ、おっと……娘さんの前であることを失念していた」

「あの、なんのことだかわかりかねますが」


 無悪は平静を装いつつ否定してみせたが、内心では余計なことを口にしやがってと猛烈に毒づいていると、ライオネルは笑いながら答えた。


「別に私は妻が不貞を犯そうが構いやしない。アレはアクセサリーに等しいモノだ。モノに一々怒りを覚える人間等いないだろう? だから浮気を追求する気もなければ当事者である君を責めようとも思っていないから安心してくれたまえ。現に妻はこれまで何人もの男と体を重ねているが、一度たりとも問いただしたことはない」

「はあ……それでは何用で私を呼び出したんですか」

「おっと、つい話題が逸れてしまったね。私の悪い癖だ」


 おもむろに執務机から立ち上がると、外を眺めながら話を続けた。

 

「あのバルトの元での仕事はやりにくいだろう」

「ええまあ。ですが従業員の皆さんは良くしてくれますし、今のところ不満はありませんよ」

「それは重畳。今は事業拡大のペースに人材募集が追いついていないからね。君みたいに真面目に働いてくれている従業員には感謝してもしきれない。改善してもらいたい箇所があれば遠慮なく私に言ってくれて構わないよ」


 理解ある経営者を演じる仮面の下には、口にしたような感謝など微塵も感じていない本性が無悪にはありありと見えた。


 ライオネルを間近で見て感じで見て抱いた印象は、剛と柔――飴と鞭を要領よく使いこなすことに長けているという点。

 旅館に貢献する者には惜しみない称賛と報酬を注ぐ一方、些細なミスを繰り返したり意にそぐわない仕事をする人間には、人が変わったように淡々と解雇通知を下す。


 本人は「人が足りない」というが、大半は自らが首を切っていることが原因であると古参の従業員は語っていた。


 一流の経営者や成功者というものはすべからく庶民感覚からズレていると酷評されがちである。一廉ひとかどの人物ほど数千人規模のリストラを平然と断行することができるのは感情などという曖昧模糊あいまいもことしてものに左右されないから。


 人を支配する立場の人間をいざ調べてみるとサイコパスに該当することが多いことは周知の事実だが、だからこそその業界でのし上がることができるともいえる。


 裏社会にも通じる原理原則――頂点にのし上がるために必要なものは、どれだけの〝数字〟を叩き出せるか――それに尽きる。女将が口にしていた通り、ライオネルという男が信ずるものは〝金〟と〝数字〟のみであることはよくわかった。


「思うところですか。それではお聞きしますが、社長はこのサラマンドルの街をどうしたいのですか」


 瞬き一つせず、視線を逸らさずに尋ねると口元に微笑を浮かべて答えた。


「サカナシくん。君は人間の欲望を浅ましいと思うかい?」

「いえ、私は思いませんが。人間を人間たらしめるのは混沌とした欲望だと思ってますので」

「私も同意見だよ。人の欲に終わりはない。私はね、かつて古いだけが取り柄の小さな旅館を経営していたつまらない男だったんだよ。だけどある日、苦労ばかりかけた妻が病で床に伏せると、それまで骨を埋めるつもりで働いていたはずの従業員達は、手のひらを返して次々に辞職していったのさ」


 初めて聞かされる過去を無悪は黙って聞いていたが、ライオネルの顔に悲壮感めいた表情は窺えなかった。むしろ失敗の過去を嬉々として語っているようにすら思えた。


「当時の私はざる勘定の極みでね。客が喜ぶのなら赤字に落ち込むことすら厭わなかった。妻はそんな私と旅館を影から支えていたんだが、治療費が高額なあまり、まともに医者にも診てもらえないまま事切れる寸前、私に対する呪詛を残して亡くなったんだよ。そして気付いた――。「人情」だとか「愛」だとか、耳障りのいいだけの単語などいざという時に糞の役にも立たないとね。そこから私は変わった。いや、変えてもらったといったほうが正しいかな」 

「いやはや、当たり前の真理に気付かない人間の何たる多いことか。まことに嘆かわしいですな」


 突然背後から聞こえた第三者の声に身構えて振り返ると、今の今まで存在を感知しなかった初老の男が扉の前で大袈裟にしかめっ面を作りながら立っていた。


 余程の手練でなければ無悪が背後を取られることなどあり得ず、臨戦態勢を整えて剣呑な眼差しを向けているとライオネルは正体不明の男の紹介をした。


「驚かせて済まないね。彼は私の良き理解者パートナーであるユンゲルだ。私が前妻を喪って途方に暮れている頃に出会った優秀な男だよ」

「これはこれは、大事なお話のところ腰を折ってしまい申し訳ありません。只今ご紹介に預かりました私めは、事業再生アドバイザーのユンゲルと申します。どうぞよしなに」


 ライオネルの紹介で慇懃に頭を下げたユンゲルとやらは、畏まった口調とは裏腹に爬虫類じみた視線の中に、目の前の人間が益となるか不利益となるか値踏みをするような視線が混じっていた。


 とくにこれと言って武器を携えている気配はなく、暗器の類も装備しているようには見受けられない。立ち居振る舞いは怪しげな投資家ハゲタカのようで、無悪の背後を気取られずに取るほどの手練には見えない。


 背後を取られたのは偶然かと結論づけると、ユンゲルは唐突に尋ねてきた。


「失礼ですが、貴殿とはどこかでお会いしたことはありませんかな?」

「は? いえ、そのような機会はなかったかと。恐らく似た風貌の男と勘違いでもされてるのではないでしょうか」

「ふむ……。そうですか」

「よし、話はそこまでだ」


 ユンゲルと無悪の会話を断ち切るようにライオネルは手を叩いた。


「サカナシくん。君は確か出稼ぎでやってきたと言っていたよね」

「はい。それがなにか」

「ちょっと気になる話をバルトから耳にしてね。実は君の正体は望郷ノスタルジアから送り込まれた間諜スパイではないかと進言があったんだ。そこで妻に問い質したところ口を割ったよ。なにやら望郷が背負った借金について調べているみたいじゃないか」

「はて、なんのことでしょう」


 惚けても無駄であることを知りつつ誤魔化す。


「私の庭を荒らそうとする奴の情報は事前に報告が上がる手筈となっているんだよ。例えば、酒と女が趣味の出入り業者とかね」

「なんだ、思ったよりバレるのが遅かったな」


 あっさり正体をバラすも、ライオネルは怒りすら抱いていないようだった。


「そもそも奴隷の首輪をしている時点で怪しんではいたが、二人は家族でもなんでもないんだろ? まさか遠くリステンブールから妖精姫を連れ立って旅行にやってきたと聞かされたときは驚いたよ。流石にかのギルドマスターを相手取るのは遠慮したいところだからね」


 それまでの窮屈な姿勢を崩すと、足を組んでソファにもたれた無悪はオロオロとするばかりのアイリスの頭に手を置いて口を開く。


「御名答。アンタの言う通り、俺はサラマンドル中の旅館を食い物にしている高利貸しと、黄金之里エルドラドの関係を調べに潜り込んだ。当然結婚もしてなけりゃガキだっていない。コイツは旅のお供ってところだ」

「ほう。正体が発覚しても微塵も揺るがないか。その意気に免じて真相を教えてやらんでもない」


 その言葉に反応を示したのはユンゲルだった。


「社長、自ら白状してもよろしいんですか?」

「なに、構わんよ。知られたところでどうなるわけでもない」


 余裕の笑みを浮かべてライオネルは語りだした。



 

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