13
ライオネルの一言が余程堪えたのか、無悪やその他の従業員に押し付けていた雑務を不自由な片手を
その間に妖精姫は、エレーナに仕事を任せっきりにすることもできず先に帰っていった。
「あ、サカナシさん。お疲れ様です」
「おお、お疲れ。仲居の真似事はどうだ」
その日に訪れる客がチェックインを済ませる前に割り振られた仕事を全て終え、柄にもなく真面目に労働に従事していたせいで凝った肩をを揉みほぐしていると、これまで下ろしていた金髪を頭の上で一纏めにした着物姿のアイリスが休憩室にやってきた。
無悪の姿を見つけるなり隣に腰掛けると、大きく溜息を吐いて慣れない仕事の愚痴を漏らす。
「いやあ、慣れない仕事ばかりで疲れました。サカナシさんの方こそお仕事には慣れましたか?」
「大体の流れは覚えたが、バルトが監視の目を光らせているせいで自由に動けない。お前の方でなにか新しい
「それが、ライオネルさんの元で長く働いている方がおっしゃっていたんですが、昔は今ほど事業拡大に興味があったわけではなかったらしいです。どちらかというと昔ながらの伝統を重んじる性格で、特に野心を持ち合わせていたわけでもないみたいです。それが、前の奥さんを亡くして人が変わったみたいに観光地に続々と新店舗を出店するようになったと聞きました」
「十年前に突然経営方針が180度変わる……まあ、それだけならおかしな話ではないがな」
無悪とアイリスはそれぞれ二手に分かれ、当初の目論見通り黄金之里へ潜入することに成功した。表向きは田舎から親子で出稼ぎに訪れた一従業員として、卒なく従事しつつ無知を装い経営の実態を探っていた。
勤務年数が長い奴ほど内部事情に精通しているもので、酒と女に目がない料理人には口が緩むまで飲ませ、風俗街で女をあてがい知り得る全てを吐かせたが、これといって目ぼしい情報は入手できていない。
「なかなか思うようにはいきませんね」
口をとがらせて不満を漏らすアイリスに、そろそろ着物姿が様になってきたじゃないかと伝えてやると、顔を赤くして照れながら「着付けも自分でできるようになったんですよ」と自慢げに答えた。
最初は帯が苦しいと言って仕事にもならなかったが、献身的に働く様に早くも味方を多く作っているようで怪しまれる様子は微塵もない。
「そういえば、ニホンの女性は成人を迎える年に、綺麗な着物を着てお祝いをするんですよね?」
「ああ。美醜問わずキャバ嬢みたいな髪型でな」
「キャバ嬢というのは知りませんが、そんな祝い事があって羨ましいです。僕も綺麗な着物を一度でいいから着てみたいです」
以前浴衣の着方を教えてやった際に、無悪は日本の成人式について教えてやったことがあった。ガキでも一端に着飾りたい気持ちがあるのかと、夢想に耽る横顔を見つめていた無悪はふと――二十歳になったアイリスの姿を思い浮かべていた。
日本人にはない天然の
「アイリスさん。小休憩にしては些か油を売り過ぎなのでは?」
「す、すみません……今すぐ戻ります」
女将とはいえ、年齢は三十路に届くか届かないといったところ。その若さで計百名を超える仲居を束ねていたのだが、実は六十近いライオネルの後妻だということを知っている従業員どもは親子以上に離れている夫婦の年齢差を揶揄して、面白おかしく噂話を
女将はアイリスが去っていく後ろ姿を確認すると、妖艶な笑みを浮かべて休憩室の扉を後ろ手で閉める。椅子に腰掛けていた無悪に摺り寄ると、膝の上に小さな腰を乗せて
「おい。誰かに見られでもしたら、どう言い訳をするつもりだ」
「誰も近くにはいないことは確認してあるわよ。あと、『おい』じゃなくて、ちゃんと名前で呼んでって言ってるじゃない」
「はあ……カタリア。アイリスを追い払ってまで二人きりになろうと画策しているお前こそ、こんなところで油を売ってていいのかよ」
着物越しに小振りな尻を罰として強引に鷲掴みにすると、女将は耳元で甘ったるい吐息を吐きながら自らの手を無悪の下腹部に伸ばす――。
いつ誰が訪れるかもわからない休憩室でおっ始めるつもりのなかった無悪は、女将の手首を掴むと代わりに口を塞いで黙らせた。
ライオネルの妻であれば、高利貸しとの関係を示す証拠の一つや二つは知っているだろうと近寄ったのだが、これが見事なまでに当てが外れた。
よほど夜の営みがなかったからなのか、その日のうちに陥落した貞操観念の緩いカタリアは無悪の都合を考えず、暇を見つけては持て余す欲求を無悪に求めてくるようになった。
流石に無尽蔵な体力を誇る無悪であっても、妖精姫からの依頼に繋がらないうえに日に何度も求められてはリスクはあってもメリットはない。
事実、バルトには疑われている節があった。万が一、ライオネルに不貞を犯していることが発覚すれば潜入捜査どころではなくなってしまう。なによりもアイリスにバレる事態だけは避けたかった。
あの……ガランドに向けられた虫ケラを見下すような視線を向けられた日には、精神的に耐え難いダメージを受けかねない気がしてならない。
早々に終わらせようと舌技でカタリアの欲求を幾らか満たしてやり、唾液で濡れる唇を離すもまだ名残惜しそうな顔のカタリアは、そっと折り畳まれた一枚の紙切れを差し出した。
「そうそう。アナタがやたらと知りたがっていた夫と高利貸しの関係だけど、残念ながら妻の私にも全然教えてくれないの」
「ふん。使えない女だな」
紙切れを受け取るとカタリアは話を続ける。
「あの人も私と結婚する前は優しかったんだけどね……。今では人が変わったみたいに誰も信用していないの。だから妻である私にも隠し事ばかりだし大したことは教えてあげられないけど……一つだけ気になることがあるから教えてあげるわ」
広げるた紙切れには、聞いたことのない名前が記されている。
「社長室で夫がその人物と話している会話を何度か聞いたことがあるの。度々黄金之里に訪れてたみたいだけど、声の感じからして歳はそれなりにいってそうね」
「その会話の内容を覚えていないのか」
「さあ? 何を話していたのか知りたいのなら、今夜もとことん相手してちょうだい」
「……今すぐ離れろ」
猫撫で声の女将を膝の上から突き落とすと同時に扉が開かれ、今度はライオネルが姿を見せた。
「なんだ、ここにいたのか。サカナシくんに少し話があるんだが、ちょっと社長室まで来てもらっていいかな?」
顔が上気させ、着物の着付けが乱れた自分の妻が床に転倒しているというのに、ライオネルは理由を尋ねるどころか一瞥もくれずに要件だけ伝えると、そのまま扉を閉めて仕事に戻っていった。
「ほらね、アタシになんて興味がないのよ」
自嘲気味に呟くカタリアを残して、無悪は指示通りに社長室へと向かった。
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