12
「オラッ! もっと気持ち込めて誠心誠意磨けないのか!」
「……チッ」
「オイ、今舌打ちしなかったか?」
「いえいえ、気の所為ではありませんか?」
今すぐ握りしめたデッキブラシで空っぽな頭を叩き割りたい衝動に駆られた無悪だったが、深く深呼吸をして自らを宥め怒りを床の汚れにぶつけた。
「舐めても問題ないくらいに綺麗にしろ」という部屋住みの頃の便所掃除を思い出させる理不尽極まりない条件をクリアしない限りは、次の作業に移ることができない。
この無悪斬人に、下っ端に任せるような清掃作業を割り振る眼の前の男は、ことが済み次第滑りだらけの床を存分に舐めさせてやる――そう誓いながらブラシの柄を握りしめると、大浴場に通じる扉が開かれバリトンボイスの声が四方の壁に反響した。
「おはよう、バルトくん。掃除は順調に進んでるかな?」
「社長、おはようございます! 勿論順調でございます! 朝からこちらに来られるなんて珍しいですね」
後ろ手に組み、指導兼監視役のバルトに話しかけたのは、
人に好かれそうな笑顔で語りかけてはいるが、そいつこそサラマンドルの地に次々と系列の旅館をオープンさせ、売上が軒並み低下している
「ははは、現場に顔を出さないトップなんてお飾りに過ぎないだろ。それに、新しい社員を一度この目で見ておきたくてね」
「さすが社長。おかげさまで現場の士気も上がるってもんですよ。ですが……この新入りは社長御自ら視察に来られるような大層な社員ではないですよ。図体ばかりデカくて、油断していたとはいえこの私に負傷を負わせる程度には腕が立つようですが、この私がついていないとてんで使い物にもなりませんわ。ワッハッハ」
肩の怪我はバルトが初対面で生意気な口を利いたことに対する制裁だったのだが、油断してようがしてまいが結果は変わらない。
他人を扱き下ろして少しでも自分を大きく見せようという浅ましさには反吐が出そうになるが、ヤクザの世界も部下にばかり危ない橋を渡らせ、自分は口八丁で上層部に
社長の腰巾着であるバルトの発言に、ライオネルはそれまでの笑顔を引っ込めると冷淡な顔つきに変わった。
「バルトくん。君はいつから自分を棚に上げて私に口出しできるようになったのかな?」
「……へ?」
「おや、質問の意味がわからないのかい? ならもう一度言おう。私は彼に期待をしているからこそ直接仕事ぶりを見に来たんだよ。それなのに君ときたら、無茶な指示ばかりで自分は働こうともしないじゃないか」
どうやら一部始終を目にしていたようで、そのことを悟ったバルトの顔はみるみるうちに青褪めていった。腰巾着が最も恐れるのは、宿主から切り捨てられる事態に陥ること。
「サカナシくんといったかね」
「はい」
「始めは強面のおっかない社員がウチに来たと聞いていたけど、なかなか仕事ぶりは様になってるじゃないか。以前も何処の旅館に勤めていたりしたのかい?」
「まあ、そんなところです」
無茶振りはガキの頃からさんざん兄貴分に当たる連中に叩き込まれていたので、要領だけは悪くはなかったと自負している。
そのことを評価し褒め称えるライオネルは、無悪の肩を叩くと「その調子で引き続き頑張ってくれ」と、朗らかに笑って去っていった。
評価がダダ下がりのバルトが面白くないのは当然のことで、その日の仕事はいつにも増して多忙を極めた。
✽✽✽
アイリスの指輪を盗んだ窃盗犯が女将であることを知り、望郷が恒常的な借金体質であることが発覚した。
女将は「高利貸しに嵌められた」と憤り、妖精姫からは「問題となっている高利貸しの背後を調べろ」と、半ば強制的に依頼を受託させられた無悪とアイリスは売上で一人勝ち状態の旅館――黄金之里へ浴衣からスーツに着替え足を運んでいた。
最大の目的は
であれば、敵の本丸――即ち懐に潜り込む手段を取らざるを得ない。
幸いにも黄金之里は経営拡大に伴う人員の採用が遅れているため、慢性的な人手不足であった。つまり、親子ほど年の離れている男女が職を求めて訪れたとしても、無下には扱われることはないということ。
「ふ〜ん。親子にしては随分似てないが、旅館での接客業は経験あるの?」
バルトと名乗る男は面接に訪れた二人に茶の一つも出すことなく、足を組んで横柄な態度を取りながらアイリスに下卑た視線を送っていた。
本人も気がついているようで、居心地の悪さを無悪のスーツの裾を掴むことで訴えていた。
「経験はないが、体力なら問題ない。娘も手先は器用だから細々とした仕事は向いている」
「まあ、ウチは万年人手不足だから来るものは拒まないけれど、それは経験者であることが前提条件の話だ。ただでさえ忙しいのに初心者の面倒なんて見てられるかってんだ」
そう言うとバルトは、アイリスの爪先から頭の天辺まで舐め回すように視線を這わせると口を開いた。
「でも、君だけなら構わないよ。よく見ると整った顔をしてるしスタイルは……まあ好みではないけど俺のアシスタントとしててててててっ!」
娘の設定として横に座るアイリスに、欲望を隠さず伸ばした腕を掴んで捻り上げると、悲鳴を上げて汚い言葉を吐いて拘束を解くよう叫んだ。
怒りが一瞬にして体を支配し、妖精姫の依頼のことなど頭から抜け落ちていた無悪はバルトの手をテーブルに押し付けると、近くに転がっていた筆記具を手の甲に振り下ろした。
「ぎゃあああああ!」
先端が皮膚を突き破り鮮血が派手に吹きでる。何度も振り下ろされた傷跡からは骨が覗き、飛び散った血でテーブルは塗れバルトの顔は涙と鼻水でグシャグシャに崩れていた。
「俺の前でフザけた真似してみろ。次はこんな軽い怪我じゃすまねぇぞ」
「ひゃ、ひゃい……」
「ああ、それと二人の面接は合格ってことでいいよな。もちろん怪我のことを誰かに話しらどうなるか、わかっているよな」
「も、ももももちろんです」
首を縦に振って快く受け入れてくれた。
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