8

 夜も深まり、無悪は一人女将に勧められた混浴風呂で羽根を伸ばしていた。


 鹿威ししおどしが邪魔にならない程度に控え目な音を響かせ、湯煙が立ち上る岩風呂で湯をすくい顔にかけながら仰ぎ見た夜空には、化石燃料に害されることなく澄みきった空気のおかげで、ダイヤを散りばめたような満天の星々が浮かんでいた。


「露天風呂より景色がいいから」と女将に勧められ足を伸ばしたのだが、その言葉に嘘偽りはなかったようだ。時間が時間だからか、無悪の他に客の姿は見受けられない。


 光の軌跡を描いて流れていく流星を独り占めしながら、アイリスのことをぼんやりと考えていた。


 今頃部屋でぐっすり寝ているアイリスにこの夜景を見せたら、きっと目を輝かせて感動するんだろうな――柄にもなく思いを馳せていると、背後で何者かが濡れた石畳を歩く気配がした。


 隙のない歩行に一瞬身構えたが、鼻歌交じりで湯に浸かってる様子に、ただの呑気な客かと身を隠しながら警戒を緩める。

 どうやら客は女のようで、体の芯から温まると我慢出来ないといった具合で溜息を吐く。


 女は無悪が背もたれ代わりにしていた岩のちょうど裏側に移動してくると、背中合わせのような形で再び呑気に鼻歌を歌いながら寛いでいる。


 どうやら先客がいることに気づいていないようだったが、残念なことに間近で鼻歌を耳にした無悪の脳裏には一人の森妖精オンナの姿が浮かんでいた。それだけで膨らんでいた妄想も下半身も、途端に興味を失う。


「おい、そこにいんのは……まさか妖精姫じゃねぇよな」

「だ、誰かいるんですか!?」


 立ち上がり岩陰から姿を現すと、湯気で朧気ではあったものの生まれたままの姿の妖精姫と視線が重なる。


 泳いでいた目が徐々に下に下がっていき、刺青の主張が強い上半身からさらに下ると――恐らく見たこともないような大きさの局部に悲鳴を上げて顔を掌で覆い隠すと、一メートルほどの間近から無詠唱で水刃ウォータースラッシュを放ってきた。


 極限に魔素が圧縮された水の刃に死を予感した無悪は、なんとか薄皮一枚で避けたものの体を隠すほどの大きさの岩はバターを切るように切断され、背後に立つ太い樹木も轟音を響かせて倒壊した。


 目隠し用の竹垣も文字通り木っ端微塵となり、騒音を耳にして走ってきた仲居に対して、ひたすら頭を下げる姿は滑稽そのものだった。


「まったく……誰かと思ったらサカナシさんじゃないですか。せっかく誰もいないと思って入りましたのに、いるならいるとすぐに教えてください」


 高潔で純潔を尊ぶ森妖精が、間違っても人間族の男と裸の付き合いをするなどありえないことは世間の常識である。


 再び地雷を踏まないよう元の位置に戻ると、妖精姫の方から水面が波立つ気配を感じた。貞操を脅かす危険な存在から自分の身を護るように緊張していることは明らかだった。


 鼻歌を歌っていたときとは態度が違うことを告げると、「忘れなければ記憶を消します」というなんともドスの利いた返事が返ってくる。妖精姫ならやりかねないのが恐ろしい。


「いちいた生娘みたいな反応しやがって。いったい自分が幾つだと思ってんだ」

「本当に貴方は失礼な人ですね。人間の年齢に照らし合わせれば、私なんてまだまだお肌ピチピチの乙女ですよ」

「なに言ってやがる。ちっと男の裸を目にしたくらいで気紛れに人を殺めようとする乙女がいてたまるかよ。そもそもだ、どうしてリステンブールのギルドで仕事に忙殺されてるはずのあんたがサラマンドルにいるんだ」


 岩越しに問い掛けると、言い訳がましい答えが返ってくる。


「それは、あの泣き虫ガランドが有給を取ってまでアイリスの様子を見にいくと五月蝿いので、付き添いとして仕方なくですよ。別に放っておいても良かったんですが、身体が不自由なガランドにはどうしても理解ある介助が必要ですしね。エレーナに頼むのは心許なかったので、他に頼めるような人もいませんでしたし消去法で仕方なく。まあ……介護と思っていただいて構いません」

「とか言いつつ、付き添いを口実に自分も息抜きがしたかっただけだろ」


 わかりやすい言い訳に突っ込むと、逆に「何がいけないんだ」と開き直った妖精姫の残した仕事を、エレーナが泣きながら処理している光景が容易に想像できる。

 ついでにギルドで働き始めたフィーヤも同行していると聞いて、いよいよ上司に恵まれない奴だとほんの僅かだが同情した。


「なあ、アイリスが女だったことをお前は知っていたか?」


 ちょうど良い機会だと、アイリスが隠していた性別について尋ねると呆れた声が返ってきた。


「当たり前じゃないですか。公言されなくてもすぐにわかりましたよ」

「なんだと?」

「本人に黙ってくれと口止めされていたのでサカナシさんには教えませんでしたが、ずっと側にいて気が付かなかったサカナシさんの感覚がおかしいですよ。よく考えてみてください――あんなに可愛いらしい男の子がこの世にいるとお思いですか?」


 そう言われると返す言葉もないのだが、思い込みというのは容易に人間の思考を凝り固まらせてしまう。それは人間を毛嫌いする森妖精エルフも人のことは言えないだろうと皮肉を込めて返すと、鼻を鳴らしてお湯をかけてきた。


 風呂上がりに二人で特製のカフェオレを飲みながら、事の経緯を説明した無悪に念を押すように妖精姫は問いかけた。


で性別を知ったことはガランドに秘密にするとして……とうとうアイリスちゃんの出生の秘密も知ったんですね」

「ああ。夕食前に本人から聞かされたよ。一時は奴隷に落ちていたガキが、まさか王族の血を引いてるとは思いもしなかったがな」

「私もガリエロ王子に子供がいたという噂話を聞いたことがありますが、まさか実の娘がいたとは思いもしませんでしたよ」


 サカナシがガランドとアイリスを引き連れて初めてギルドにやって来たときに、二人の間に血の繋がりがないことはすぐにわかったと妖精姫は語る。


「何故だ。確かに顔は全く似てないが、そんな親子は珍しくないだろ」

「なにも外見で判断したわけではないんです。私達森妖精は、感覚的に相手に森妖精の血が流れているかを判別できるんです。アイリスちゃんには僅かではありますが、森妖精の血が流れています」


 妖精姫曰く、王族は人間族こそ至高の存在と位置づけているため、異種間で子を授かることは決してないという。


 つまり――アイリスの母親の家系に森妖精の血が流れていたことが導き出される。また、完全なる人間族では無かったからこそ森妖精の対魔族用の封魔魔法も未完全ながら体得することが出来たらしい。


 長い歴史の中でも、森妖精と人間族の二つの血を持つ存在は珍しいようで、時代が時代であれば双方から忌み嫌われる過酷な人生が待っていたと、カフェオレを飲み干した妖精姫は悲痛な面持ちで語っていた。


「追われる身であるあの子を、まさか二度も捨てるなんて真似はしませんよね?」


 試すような視線を向けてくる妖精姫に、無悪は「当たり前だ」と答えた。


「誰が来ようが、俺の縄張りを荒らす奴は容赦しない。それがたとえ一国の王だろうがな」

「それが聞けてよかったです。もし日和った答えを口にしたら、アイリスちゃんは私の庇護のもとで暮らしてもらうつもりでした」


 ホッとしたような顔で妖精姫は微笑むと、ドタドタとスリッパの底を鳴らして駆けてくる喧しい足音が近づいてきた。


「あら、アイリスちゃんじゃない。こんな夜分遅くに迷惑をかけては駄目よ」

「あ、申し訳ありません……って、どうして妖精姫様がこんなところにいらっしゃるんですか? っていうか、僕を残してこんな時間に二人してなにやってたのか、教えてください」


 眠気も吹っ飛んで駆けてきたアイリスは、随分と慌ただしく無悪と妖精姫の前で立ち止まると疑わしい目を向けてきた。


 まさか混浴風呂に偶然とはいえ、一緒に入っていたと馬鹿正直に伝えるのは憚られたので――内緒にしとけ――と隣にアイコンタクトで調子を合わさせ、有耶無耶にしたまま何があったのか尋ねると今にも泣きそうな顔で左手をかざしてきた。


「盗まれたんです! サカナシさんから頂いた僕の指輪が!」

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