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 抵抗することを諦め、力なく項垂れたまま引っ張られていたアイリスを引き連れて大浴場へ到着すると、一層濃く立ち込めていた硫黄の匂いに出迎えられた。


 脱衣場を見渡すと一足先に入浴を終えたものや、これからまさに一風呂浴びようと服を脱いでるもの裸体がちらほら散見される。皆無悪の姿に気がつくと一様に怯えの色が目に浮かび、わざとらしく視線をそらす。


「見ちゃだめだ見ちゃだめだ見ちゃだめだ……」


 なにやらぶつぶつと独り言を呟いているアイリスを放っておいて無悪も横で裸になると、周囲から無遠慮な視線を集めていることに気が付いてようやく全身の刺青もんもんの存在を思い出した。


 膝上からから首の根元までびっしりと肌を埋める紋様は、皮膚の下深くに専門の職人が手作業で針を突き刺して染料で着色しているため、タトゥーのようなファッション感覚のそれとは完成までに要する時間も、伴う痛みも段違いである。


 根気のない若い衆のなかには苦痛のあまり途中で挫折するものもいるくらいだ。


 背中に背負った大火炎の中で腰を下ろすのは三鈷剣さんこけんを携えてまなじりを吊り上げる不動明王。

 若い頃に大鰐会長の真似をして彫らせたこの世に二つとない出来の刺青を目にして、まず怯えない堅気はいない。そもそも公衆の場で人目に晒す機会もないが。


 その場にいた客どもは異世界の神の一柱を前に息を呑み、示し合わしたかのように気配を殺す。

 ただ一人――呑気なガキが近寄ってくると「変な絵」と指差して笑い、顔を青褪めさせた父親がすっ飛んできて頭を下げた。


「なんで父ちゃんが謝るの?」

「いいからお前も頭を下げろッ!」

「良いじゃねぇか。所詮ガキの言ってることだろ」


 屈んでガキの目線に合わせた無悪は、突然叱られてわけも分からずに涙ぐむ子供の頭に手を置くと、父親に向かって口を開いた。


「それより、親がガキの前で簡単に頭を下げるな。テメエの息子に情けない父親だと思われたいのか」


 大袈裟に首を横に振る父親に興味をなくし、「またね」と手を振るガキを見送る。

 既に日本を離れて二年以上経過するが、本来いた世界では公衆の場でのタトゥーや刺青を彫った人間の立ち入りは、一切認められていなかった。


 なかには日焼けを嫌う主婦よろしく、素肌を隠して海水浴に出掛けるような矜持プライドがないヤクザもいたが、そのような軟弱な人間はヤクザ以前に、男として認めない。


 全裸で肩にタオルを乗せて浴場へと向かう。ここは異世界――トライバル模様に近いデザインのタトゥーはたびたび見かけることはあっても、無悪のような本格的な和彫りの刺青の文化はそもそも浸透していないので、誰に注意されるわけでもなく堂々としていられる状況が新鮮だった。


 過半数の客が怯える中で、ちらちらと物珍しさと畏怖が混じり合った好奇の視線を向けてくる愚か者もいたが、格の差を思い知って大人しくている人間より自分だけは安全圏にいると勘違いしている人間クズの方が何倍も気に食わない。

 鋭利な視線を失礼な輩に向ける。


「テメェよ、さっき人のことジロジロ見過ぎじゃねぇか? そんなに刺青が気になるんだったら、もっと近くで見せてやるよ」

「え? い、いや、結構ですっ」

「遠慮するなよ。オラ、目をそらすんじゃねぇ」


 まさか絡まれるとは思ってなかった中年男性は、顔を引きつらせたまま後退る。


 醜く弛んだ体とは比較にならない無悪の引き締まった肉体と、数えきれない程の女を責め抜いてきた大蛇のようなイチモツを堂々と晒しながら詰め寄る。


 せっかく温泉に浸かって温まっただろうに、粗末なモノを蚯蚓ミミズサイズに縮こまらせて着替えもそこそこに慌てて脱衣場から出ていった。


 他の客もわかりやすく視線をそらして出ていき、気付けば無悪とアイリスのみとなっていた。


「ちょうどよかったな。俺たちだけで露天風呂が貸し切りだ。お前もさっさと早く来い」

「は、はい……わかりました……」


 隅っこで未だに服すら脱いでいないアイリスに声をかけた無悪は、先に大浴場へと体を沈めた。


「ああ……久しぶりの温泉は体に染みるな」


 足を伸ばせる風呂に浸かるのは、妖精姫の自宅で借りた浴槽以来のことだった。全身の筋繊維という筋繊維がほどけるような心地よさに目を瞑り湯の中で揺蕩っていると、しばらくしてようやく扉が開かれる音がした。


「随分とおそかったじゃねぇか……どうしたんだ、その格好は」


 振り返ると旅番組のようにバスタオルで全身を隠したアイリスが顔を真っ赤にさせて立っていた。タオルがずり落ちないように必死に片手で抑え、もう片方の手で下から見えないように記事を伸ばしながら言い訳がましく口を開く。


「ちょ、ちょっと裸を見られるのは覚悟がいるといるか……ほら、この世界ではお風呂なんて贅沢品ですし、いざ一緒に入るとなると恥ずかしいので」

「だからってお前、胸までタオルで隠さなくてもいいだろ。女じゃあるまいし」


 男同士で何を意識してるんだと、再び目を閉じながら肩まで浸かっていると、今度はアイリスの悲鳴が聞こえたと同時に盛大に水飛沫が上がった。


 即座に立ち上がった無悪はタオルの中に忍ばせていたグロックを手に取ると臨戦態勢に入る。


「ゲホッ、ゴホッ、お湯飲んじゃいました――あれ?」


 どうやら床で足を滑らせたアイリスが宙を舞って温泉の中に着水しただけのようで、咳き込みながら慌てて水面から顔を出す。


「あ……」


 飛び込んだ勢いで巻いていたタオルが外れ、プカプカと水面を漂っているのを見て言葉を失っていた。急襲に備えていた無悪の下半身も、同様にあられもない姿を晒している。


「……ふぅ」

「おい、溺れるぞ」


 無悪の下半身を見て立ったまま気を失ったアイリスを抱きかかえると、慎ましいとはいえ膨らみのある胸と、男にあるべきはずのものがないことに気が付いた無悪は、ようやく自分がとんでもない誤解をし続けていたことを悟った。


「アイリス……お前、女だったのか?」

 

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