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 ピニャルナ山禁忌キンキ五箇条


 一、生キトシ生ケルモノ、全テノ殺生を固ク禁ズ。


 二、山ノ恵ミヲ口ニスルコト、持チ帰エルコト固ク禁ズ。


 三、女人禁制ナリ、祭事ヲ除イテ女人足ヲ踏ミ入レルコトヲ固ク禁ズ。


 四、濃霧ハ神ノ怒リノ前兆、先ニ進厶コトヲ固ク禁ズ。


 五、満月ノ晩ハ何人タリトモ入山スルコトヲ固ク禁ズ。


 以上、五箇条ノ禁忌ヲ破ルベカラズ。

 禁ヲ破ル者ニハ神罰ガ下ルダロウ。



        ✽✽✽



 時は深夜――こずえの隙間から子供が口遊くちずさむ童謡が聞こえてくる。


「満月の晩には気をつけろ

犯しちゃならぬ五つの禁

此処は奉ろわぬ神の土地

何処で誰が見ているやら

ほら気をつけろ

白き影が迫っているぞ

ほら気をつけろ

命が惜しくば引き返せ

ほら気をつけろ

死を恐れぬのなら歩みを進めろ

生きるか死ぬかはお前次第

だけど忘れちゃいけないよ

死はすぐ隣で待っている」


 何度も転びそうになる足をひたすら動かしていた青年は、宵闇が支配する山中をただ一人息を切らして駆けていた。


 風に流される雲の隙間から黄金こがね色の満月が顔を覗かせると、地上の一切を白光のもとに照らしだす。


 黒い影が瞬く間に青年の肩を追い越していくと、行く手を阻むように前方に立ち塞がる――自分の影さえ得体の知れない怪物に見えてしまうほど、青年の精神こころは恐怖に支配されていた。


 靴が脱げようがマメが潰れようが、小石や枝が剥き出しの裸足に突き刺さろうとも痛みを感じないほど気が動転した状態で、山の麓に向かって遁走とんそうを図っていた。


 金に物を言わせて集めた装備品の類は、結局足枷にしかならず途中で全て放り投げていた。身一つで逃げる青年は眼下に燃ゆる松明の明かりを頼りにしていた。


 ――よくあるデマだと一笑に付して聞き流していた噂話が、まさか真実だったなんて一体誰が信じてくれるだろうか。


 ピニャルナ山に伝わる禁忌を知ったの最近のことである。幼い頃は両親の言いつけすら律儀に守っていたが、いつしか禁忌は先達の忠告だということを忘れ軽んじ、忠告にも耳を傾けず勇んで山に足を踏み入れた結果がこれだ。


 降りかかる災禍を今宵初めて目の当たりにした青年は、恐怖ですくむ体を鞭打ち麓の集落を目指す。


 少しずつ大きくなる松明の灯りは、集落まで導いてくれるたった一つの道標で希望だった。


 頭上では名も知らぬ鳥が闖入者ちんにゅうしゃいななき、山道脇の下生えは風もないのに揺れて葉が擦れる。


 ただそれだけの些細な事象ですら、背後から迫るを振り切らんと駆けていた青年の心拍数をぐんと跳ね上げる。

 数刻前に徒党パーティーの仲間と犯した愚行を悔やんでも悔やみきれない。


 誰に向けていいのかわからない謝罪を何度も繰り返し走っていると、草木で隠れていた崖から足を踏み外してしまい数メートル下に落下してしまった。


 強かに腰を地面に打ち付け立ち上がろうとするも、不運は立て続けに起こるもので落下の衝撃で足首を痛めてしまった。

 その場から立ち上がるのもやっとの窮地に立たされた青年は、己の運命を悔やむ。


「くそ……いったいどうしてこんな事態ことになっちまったんだ! 俺の仲間はどこに消えちまったんだよッ」


 ピニャルナ山は数多くの行方不明者が続出していると噂されている、曰く付きの山として有名だった。


 親の脛をかじって働きもせず、冒険者の真似事をしながら何不自由なくつまらない日々を送っていた青年と仲間達は、退屈な生活に恐怖スリルを求めてピニャルナ山の禁忌を破り肝試しを計画したのがそもそもの間違いだった。


 賢しいものは自らを危険から遠ざける本能が働く。青年たちは本能を忘れて図体ばかりデカくなったガキでしかなかった。


 わざわざ物見遊山気分でピニャルナ山に訪れ、麓の村で一旦休憩を挟んでからいざ登山口に立ったときにいたはずの仲間が、今やである。


 落下した先は窪地になっていて、辺りの樹々は冬でもないのに葉を全部落として墓標のように真っ白に朽ち果てていた。

 風に揺れていた雑草も全て枯れていて、その異様な光景は青年の目に地獄の入口として写る。


「仲間なら断らないよな」


 程度の低い仲間の誘い文句を断りもせず、「軽い度胸試しだから心配するな」と親友の口車に乗せられたのが自らの運命を決定づけることになろうとは――。


「なんだ……これは?」


 山に足を踏み入れるとしばらくして、周囲に霧が立ち込め始めた。それは瞬く間に濃く深くなっていき、一人、また一人と忽然と姿を消していった。名前を連呼しても返事が返ってくることは一度もない。


 ――もし次に霧が濃くなったら。


 考えないようにしていた可能性が頭をよぎると、途端に背すじが凍りつく。

 ろくに動かない足を引きずりながら下山を試みようとしたが、最後の一人まで逃さないとでも言うように仲間たちを飲みこんでいった霧が再び辺りを覆っていった。


「嘘だ、嘘だ、嘘だ、俺はこんなとこで死ぬような男じゃないぞ、あいつらとは出来が違うんだ!」


 視界を奪う霧が体を覆い隠すころ、青年は恐怖の正体の一端に触れた。禁忌の言うとおり、愚か者は神罰から逃げきれるはずなどなかったことを。


 意識を失いその場で昏倒した青年は、誰も取ってくれない手を伸ばした。





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