それは本当に言わなくていい恋
和田島イサキ
恋のクソデカマーメイド伝説
——恋っていうのは胸に秘めてこそのものじゃないかな。
そう私なんかに熱く語っちゃってる時点で、もう全然秘められてなくない? って思った。
片平くん、絶対カワウチのこと好きじゃん、って。
ショックだった。
だって、そんなの片平くんじゃない。
片平くんは頭が良くて、でも私にも優しい天使みたいな人で、それがあんなのを好きになるとか絶対おかしい。
釣り合わない。あんなぬらぬらした生臭い奴のどこがいいの、と、その私の訴えに片平くんは、
「ちっ、違うけど?」
と、ひとこと、でもその直前に見せた驚愕の表情が、はっきり「——えっ?
とても言えない。それ、もうみんな知ってると思う、なんて。
カワウチっていうのは学校の近く、大きなため池の中に住んでるなんか人魚みたいなやつだ。
下の名前は誰も知らない。カワウチというのが本当に名字なのか、そも人魚っていうのが一体なんなのかも。
ただカワウチは昔から、それこそ私が生まれる前からそこにいるみたいで、だからいまさら誰も気にしない——っていうのはさすがに言い過ぎにしても、でも慣れた。
そういうものだ。「なんだかよくわかんないもの」は結局どこまで行ってもよくわかんないものでしかないから、私たちはそれをただ受け止めていく。
十四歳の夏は短い。もっと楽しいことややるべきことは、他にいくらでも転がっているのだ。
そんな中、ひとり片平くんだけが足を止めた。
カワウチの前で。
これから迎える夏休み、毎日彼女のところに通うんだ、って。
「このことは、俺と星ちゃんだけの秘密ね」
嬉しくない。片平くんと私の初めての〝内緒〟。その実それは周知の事実で、どうせならもっと別のがよかった。
七月の半ばの帰り道、例のため池の前での立ち話。
一体こんなののどこがいいのと、そう聞いたら思いのほか単純な答えが来た。
背が高いから。確かに全長で言えば四メートルはあって、でも魚だ。青くて、腰から下が完全に魚類で、上半身の皮膚だってなんかぬらぬらしている。
なるほど。でもそんな四メートルの謎の水棲生物よりは一メートル半の人間とかの方が絶対お買い得だよと、そう彼を説得するだけの力が私にはない。
良くない。頭が。成績優秀な片平くんと違って、私はクラスでも下から数えた方が早い。
背だって低いし顔も正直「うーん」って感じで、でもそんな私でさえ知っているのだ。
価値観っていうのは人それぞれ、誰かの〝好き〟を簡単に否定しちゃいけない、って。
正しいと思う。私だって何か自分の〝好き〟を、それは必ずしも恋愛感情とは限らないけれど、とにかく横から余計なクチバシを突っ込まれたら嫌だ。
何お前ってなる。関係ないじゃんって思う。〝好き〟に必要なのは当人とその対象だけで、例えば私と片平くんがそうだとするなら、こんな変なカワウチなんか全然いなくていいのに。
「しねっ」
目の前のため池、紙パックジュースによる水質汚染攻撃を敢行して、そして片平くんに怒られた。というか、止められた。なんてことすんの星ちゃん、って。
「呪われるよ。カワウチ、
なに。ぬしって。また聞いたこともない単語が当たり前みたいな顔して出てきて、でもそんなのどうだっていい。関係ない。短い十四歳の夏に余計なこと気にしてる暇なんてなくて、それになんとなくなら想像もつく。
ヌシ。それもなんか呪ったりする系のやつ。
事実カワウチはお怒りの様子で、ざばあと水面から飛び出た上半身の、そのすごい迫力に私はちびりかける。
——でっか。
なんか上半身だけで私ひとり分くらいあって、つまり単純に生き物として大きい。ぱっと見の形こそ人間に似ているけれど、全体的な縮尺が三割増しって感じだ。
胸も大きい。ばるんばるんしている。女性の姿、というか、つまりメスなんだと思う。髪は長く、顔立ちも綺麗といえば綺麗だけれど、でも全体的に、こう——。
なんだろう。
なにか、どうしようもない違和感みたいなのを覚える。
人魚なんて呼ぶからなんか「そういうもの」って気がするけど、でも違う。
ヒトの
「ほら星ちゃん。ごめんなさいして」
そうする。片平くんがそう言うのなら。カワウチ、池の水を汚してごめんなさい。その言葉がなんの抵抗もなくスラスラ出てきたことに、きっと私自身が一番驚いていた。
もしこうして改めてカワウチの姿を見ていなかったら、きっと私は謝りもせずそっぽを向いていた気がする。
ぬうっと身を乗り出すみたいに上から見下ろす、カワウチの爛々とした大きな目。
怖いとか怖くないとか、まずそれ以前の問題だ。
見ればわかる。こんなのを相手に意地を張る、あるいは嫉妬したりましてやライバル視する、そんなことには何の意味もないや、と。
人じゃない。
自然のもの。ぱっと見は人間のように見えるし、なまじ似た形をしているからついそれらしさを見出したくなる部分もあるけど、でもそこにはきっと何の意思も考えもない。
魚だ。所詮。
頭のよくない私が言えたことでもないけど、きっと知性や知能という点においては、どうやら〝こっち〟よりも〝あっち〟の方に近い生き物。
人は〝こっち〟。犬とか猫とかはだいぶ〝こっち〟寄り。
魚や虫、あと山とか海とか森とか池とか。大体そういうのが〝あっち〟側だ。
その、おっきな〝あっち〟の塊が。
上から私をじっと見るから、負けじと私も見つめ返す。
——綺麗だなあ、と思う。
綺麗だとは思う。思うだけだ。他はない。ただ綺麗だという、それ以上のものは、何も。
——例えばなにか、共感や意思の疎通の、成立しそうな余地みたいなものとかも。
「カワウチ、こうして見ると結構整ってるね。顔とか」
私の感想に、片平くんが満足気に頷く。彼の目には一体なにが見えているのだろう。
綺麗なカワウチ。大きく、美しく、どこまでも自然の生き物で、でもどうしても
彼は言った。最初こそ誤魔化そうとしたけど、でも「カワウチが好きだ」って、最後には、結局。
十四歳の夏の始まり、ふたりで眺めるため池の前で、出てくる「好き」はまず
——それって本当に恋ですか、なんて言えない。
言ったら負けだ。人の〝好き〟の中身を勝手に判定するのは、ましてや自分の都合のいいように
異質なものに魅せられ、惹きつけられて。きっとそういうのを昔の人は、ときに呪いと呼んだのだと思う。
いまの私たちはそれを恋と名付けた。
彼が恋をしているなら私もそうで、彼が呪われているのだとすれば私だって同じだ。
どうしよう。どうしていいかわからない。誰にも、言えない。別に言ってもいいけど不可能というか、そもうまく言葉にできない呪いや狂気の類を、どうして誰かに伝えられるだろう?
「カワウチー。おやつだぞー」
片平くんが大声を出す。同時に放り投げられたのは、なんかチキンみたいなやつ。骨つきの。ここにくる途中、私が紙パックのジュースを買ったコンビニで、片平くんが買っていたもの。
ずるい。私だって奢ってもらったことのないそれを、カワウチが口で受け止める。
瞬間、ぐわっと開いた口から歯が見えた。ギザギザで、まるで細かい鋸のようで、しかもそれが二重に並んでいる。なるほど、骨ごといけるわけだ。
ぼりん、ばりん、と、咀嚼のたびに顎が動く。その動きが明らかに人のそれとは違って、いちいち首元のエラがぱくぱくするのが気になる。
片平くんが言う。うっとりしながら「綺麗だね」って、その感想にはまあ同意してもいいけど、でもその綺麗な女の人みたいな姿は私の推察する限り、たぶんきみをあの骨つきチキンのようにするためのものじゃないかな、って思う。
人でもないくせして人の形をした何か、そういうのをあんまり構っちゃいけない。別に法律や校則で禁じられてるわけじゃないけど、好きになっちゃったりしたらいろいろ大変なことになるから。
内緒だよって片平くんは言う。「こんなの変だし、きっと怒られるから誰にも言えない」なんて、仕方がないから私は答える。
たぶん、私も似たようなものだと思う、と。
もしこれが恋だとするなら、私と片平くんはいつまで恋する人でいられるだろう?
知ってる。きっと、いつか夢から覚める日が来るって。
十四の夏は一瞬で、その夢から覚めたら私たちは大人で、だからいま私たちはきっと、大人の世界にないものを見てる。
人魚の池。ここにいる限り子供でいられて、でもそれはずっとそうし続けるのなら、いずれチキンと同じ運命を辿るってこと。
感情のない瞳でばりばりぼりぼり、得体の知れないでっかい変な生き物の血肉になって、恋する片平くんにとってはそれで本望かもしれないけれど、じゃあ私は一体どうしたらいい?
答えは出ない。わかんない。頭が良くないせいもあるのだと思う。
でも結局、こういうのに答えなんか最初からなくて、つまり「好きになっちゃったもの負け」なのだ。
「カワウチー。俺のことどう思う?」
無邪気な言葉。うっとりと、どこまでも平和なその横顔。
答えはない。
黙れ人間、きみには手近な一メートル半のやつが分相応だと思うギョー、って。
〈それは本当に言わなくていい恋 了〉
それは本当に言わなくていい恋 和田島イサキ @wdzm
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