第9話 神主の霊視(※三人称)

 少年と別れた場面は、覚えている。そこから祖父の家に帰って、家の母に怒られた事も覚えている。だが、それより先は覚えていない。母が自分の頬を叩いた痛みは僅かに覚えていても、風呂の湯船から立ち上る湯気に「ハッ」と驚くまでは、自分がお湯の中に浸かっていた事すら覚えていなかった。秀一は湯船の中に暫く浸かっていたが、自分の目から溢れた涙がそこに落ちると、その水音も聞かないままで、お湯の中から直ぐに出てしまった。「はぁ……」

 

 悲しい溜め息を一つ。それも、深々と付いてしまった。秀一は浴室のバスタオルに手を伸ばしたが、それで自分の身体を拭いている間は勿論、それから普段の寝間着に着替えた時も、祖父から「好きに使って良い」と言われた部屋に戻るまで、その両目から涙をずっと流し続けた。「う、ううう、うわぁあああ!」

 

 何で、どうして? 睦子がこんな目に遭わなければならないのだ? 怪異の生贄にさせられて。睦子は(少年の話が真実であるならば)多数の命を助ける代償として、怪異に自分の精神を犯されているのである。


 自分が今、彼女の不幸を嘆いている間も。彼奴に自身の精神をいじられ、食べられ、飲まれているのだ。まるで自分の衣服を脱がされる様に。彼奴に自分の全てを観られているのである。秀一は「それ」に狂って、部屋の中に置いてある物、枕や布団、その他家具類を手当たり次第に投げ始めた。「くぉおおおっ!」

 

 許さない、許さない、許さない。


「許さない!」

 

 秀一は床の上に電気スタンドを投げて、それから布団の上に座ろうとした。だが……気持ちの方がやはり、落ち着かないのだろう。最初は布団の上に目をやったが、それも直ぐに思い直して、部屋の窓に歩み寄ってしまった。


 秀一は憂鬱な顔で、窓の外を眺め始めた。窓の外には暗闇が、夜の無限が広がっている。彼の気持ちを今にも飲み込みそうな、そんな無限が広がっていた。

 

 秀一は、その無限を睨んだ。無限の先に有るかも知れない希望を信じて。夜空の月が見えなくなっても、その無限をじっと睨み続けた。


 秀一は、目の前の無限から視線を逸らした。それを睨むのに疲れた事もあったが、それよりも「何かしらの解決策を考えなければ」と思ったからである。


 秀一は窓の前から離れて、問題の解決策を考えようとした。だが、そんな妙案がそう簡単に見付かる筈はない。必ず何処かで、壁にぶつかる。最初は「行けるかも?」と思った妙案も、結局は「やっぱり駄目だ」に変わってしまった。


 秀一は己の無知さと無能さを呪ったが、「まずは、少年の話が本当かどうかを確かめる所から始めよう」と思い直して、布団の上に勢い良く寝そべった。


 

 その翌日。


 秀一は、早速動き出した。自分の力ではどうにもならない以上、自分よりも優れた人間、つまりは町の大人に頼るしかない。自分よりも(恐らくは)優れている大人に頼らない以上は、この呪い(の様な物)からも「逃げられない」と思ったからである。


 彼は朝の食事を平らげると、自分の祖父に「話がある」と言って、彼に昨日の出来事を打ち明けた。「彼奴の言っている事が『本当だ』とは、限らない。限らないけど、もし本当だったら?」

 

 祖父は、その話に押し黙った。話の内容は充分に分かっていた様だが、それでも躊躇う部分があるらしい。「彼の一言で人払いは済んでいた」と言え、その返事はやはり戸惑っている様だった。彼は自分の正面に秀一を座らせて、部屋の仏壇に視線を移した。仏壇の上には、二本の線香が立っている。彼は「それ」を暫く眺めていたが、やがて秀一の顔に視線を戻した。「言い訳するな」

 

 秀一は、その言葉に驚いた。それが意味する事にも、そして、祖父が「自分の言葉を信じていない」と言う現実にも。彼は「それ」を聞いて、思わず驚いてしまった。


「言い訳じゃない。これは」


「五月蠅い! お前、『昨日は遅くなったから』って! そんな事を」


「言ったんじゃない。現に見たんだ! あの神社に行って、あの祠から出た」


「人柱の少年? そんなモン、居る訳がないだろう? あそこに封じられているのは、文字通りの化け物だ。この町に厄災をもたらす化け物、昔の人が皆恐れた化け物。それが只、お前の事をかしただけだ! お前の同情を誘う様な手で、お前を」


「騙したのかも知れない。でも」


「も、糞もない。あそこに居るのは、化け物。それ以上でも、それ以下でもないんだ。人間のお前を唆す様な……兎に角、お前も神主さんの所に行くぞ! お前の前に現われたのなら、お前も其奴に憑かれた可能性がある。直ぐにて貰わなきゃならん!」


「僕よりも、睦子の事が先でしょう? 睦子は!」


 祖父は、その言葉に無視した。その言葉自体は聞えていても、「今は、神主に秀一の事を診て貰わなければ」と思ったのだろう。秀一が彼にまた「今も苦しんでいる。僕よりも睦子の方が先じゃないか!」と言った時も、それに「五月蠅い!」と怒鳴って、神主の所に秀一を連れて行ってしまった。


 祖父は神主に秀一の話を聞かせて、神主の顔をじっと見始めた。そうする事で、神主の指示を仰ぐ様に。「まさか、秀一にまで及ぶとは。本当に面倒な少年だよ。秀一の事を誑かすなんて。こんなのは、今までになかった事だ」

 

 神主も、その言葉に頷いた。神主は秀一の顔に視線を移して、その身体をじっくりと見始めた。身体の表面に付いている邪気、その気配を探しているかも知れない。秀一が彼の検査(らしき物)に「そんな事をしている場合じゃない!」と言っている間も、その言葉をすっかり聞き流して、彼の身体を黙々と調べていた。

 

 神主は、彼の身体から視線を逸らした。傍目からは分からないが、その霊視がどうやら終ったらしい。神主は自分の頭を何度か掻くと、気まずそうな顔で秀一の祖父に目をやった。


「気配は、確かに有ります。『秀一君の気配』とは違う、何か不思議な気配が。でも」


「何だね? それが、何か?」


「はい、おかしいんです。言葉ではこう、表しにくいのですが。『悲しみ』の様な物を感じる。自身の不幸と、そして、多くの命を嘆く様な。そんな気配が秀一君の魂と重なって、私の感覚に伝わって来るんです。まるでこう、何かを訴えるかの様に」


「訴えの内容は、分からないのか?」


 その返事は、「分からない」だった。神主は秀一の霊視をもう一度試みたが、その結果はどうやら同じだったらしく、秀一の祖父が彼に「どうだ?」と訊いた時も、気まずそうな顔でその質問に首を降った。「やっぱり分からない。彼の身体に何か、もやの様な物は見えますが。それが何なのかが分からないんです。靄の正体が一体なんなのか、も。私には、それが……」

 

 秀一の祖父は、その言葉に俯いた。心霊の専門家がそう言っている以上、彼も只「そうか」と落ち込むしかない。神主の「すいません」を聞いても、それに「ああ」と応えるだけだった。彼は「せめてもの抵抗」として、神主に「除霊は、出来るか?」と訊いた。「靄の正体は、分からなくても良い。だがせめて、秀一に憑いた此は」


 神主はまた、彼の言葉に首を振った。「その言葉には、応えたい。でも、自分には『それ』が出来ない」と言う風に。神主は目の前の男に頭を下げて、彼に自分の非力を謝り始めた。「すいません。私も、祓いたいのは山々ですが。この靄が余りに強過ぎて、私の手には余る」


 秀一の祖父は、その言葉を遮った。遮った上に「もう良い!」と怒鳴った。彼は秀一の手を掴んで、神主の前から歩き出した。


「お前さんを頼った自分が馬鹿だった。秀一は、別の奴に診て貰う」


「ちょっ、ちょっと待って下さい! 別の霊能者に頼んでも!」


 相手は、その言葉を無視した。「此奴では、自分の孫を助けられない」と分かった以上、その言葉を聞いても「無意味」と思ったのだろう。神主が彼に「きっと同じ結果になります。秀一君と睦子ちゃんに憑いている霊は、普通の霊じゃない!」と叫んだ時も、それに「五月蠅い、役立たずが!」と返しただけで、神主の制止を聞く所か、神社の中から出て行ってしまった。

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