第9話 「信じろ」って? (※三人称)

 医者の言葉は、信じられない。言葉の意味も当然に分からないが、その内容が余りに酷かったからだ。心身の衰弱からなる、精神の異常。君はきっと、何か怖い物でも見たのだろう。を、日々の生活を通して、「その恐怖がゆっくりと積もって行った」に違いない。


 今回のような症状が現われた原因も、君が自分の中で感じている事、無意識の罪悪感が生み出した物だ。「君の夢に現われる」と言う、その恐ろしい少女も同じ。君が自分の意思で作った、只の幻想に違いない。彼の主治医はそう、患者の彼に話した。それが医者として、「君の病気を診た結果だ」と言う風に。


 だが、それに頷く彼ではない。医者がどんなに良い人で、その説明が分かり易かろうが、彼には今の幻こそが現実であり、また変え様のない事実だったからである。あの化け物を祓わない限り、この幻からも抜け出せない。自分は今も、その幽霊に苦しめられているのだ。医者が自分に病気の事を話している間も、ほら? あそこ、病室の隅に立っている。病室の隅に立って、自分の事を睨んでいる。「お前の事は決して、逃がさない」と言う風に、自分の事をじっと睨んでいた。

 

 少年は、その眼光に震えた。眼光の奥で光る物、その殺気にも震えた。あの目に見られ続けたらきっと、自分の心が壊れてしまう。今は辛うじて保たれている正気も、硝子ガラスの様に砕けてしまう。病室の窓硝子が割られる様に。だから、凄く怖かった。彼奴がいつ、自分に襲って来るのかも。あらゆる想像を超えて、死ぬ程怖かった。自分が彼奴に襲われたら最後、自分は決して助からない。どう考えても、八つ裂きにされる。あの夢に出て来た、自分の仲間達と同じ様に。自分もきっと、あの幽霊に捕らわれて……「嫌だ」

 

 少年は、自分の頭を叩いた。そうすれば、「この痛みから逃れられる」と信じて。彼は自分の体を叩いては、苦しげな顔で自分の幻想と戦い続けた。だが、それでも逃げられない。体の痛みで少しは誤魔化せるが、それも只の気休めでしかなく、問題の根幹を何とかする所か、その根幹が益々悪くなってしまった。


 少年は、その幻想に魘された。それが「只の幻だ」と思っても、医者が自分に話している後ろで、幽霊が自分の顔を睨んでいる光景を見ると、自分の声に落ち着く所か、反対に「うわぁ!」と叫んでしまった。「もう、許して。許して下さい! どうか!」

 

 医者は、その言葉に驚かなかった。言葉の意味は分からないが、それへの対処には動じない。彼が自分の体にしがみついた時も、(周りの看護師達に協力は頼んだが)彼の体をそっと放して、その腕に鎮静剤を打ってしまった。「大丈夫、直ぐに落ち着くから。ね?」

 

 少年は、その言葉に項垂れた。それは、自分を宥める言葉ではない。ましてや、その不安を取り除く言葉でも。少年は鎮静剤の効果にぼうっとしながらも、自分の前まで迫って来る幽霊には、今まで以上の恐怖を感じていた。「この恐怖から逃げなければ」と、だが虚しい事に……。


 そんな希望は、何処にもなかった。鎮痛剤の力で頭がぼうっとしても、自分の前には彼奴が立っている。自分の前に立って、その目をじっと睨んでいる。彼の事を決して、逃がさない様に。彼がそれに耐えかねて幽霊の顔から視線を逸らした時も、彼の視線を追い掛けて、彼がベッドの手摺りに視線を移した瞬間、その視界にスッと這入り込んで来た。


 少年は、その光景に狂った。それも、只狂っただけではなく。発狂の上に発狂を重ねて、その意識を手放してしまった。少年は医師の「しっかりしろ」も聞き取れないまま、無感動な顔でベッドの上に倒れ始めた。

 


 ……それからどれくらい経ったのか? 彼にも正確な時間は分からなかったが、彼がベッドの上で目を覚ました時には、病室の窓から差し込む光も薄暗く、部屋の外から聞える足音も殆ど聞えなくなっていた。同じ部屋の患者達も皆、人形の様に黙っている。普段は何かしら喚いている隣の患者も、今日に限ってはずっと黙っていた。

 

 少年は、その空気に息を飲んだ。その空気はきっと、普通の空気ではない。それが醸し出す雰囲気も、普通の雰囲気と懸け離れている。現実と虚構の境界線が歪んでいる様な、そんな感じの雰囲気が漂っていた。


 少年は病室の雰囲気に震えながらも、内心では「これも夢だ、いつもの悪夢だ」と思って、その雰囲気を怖がりはしたが、それ以上に怖がる事はしなかった。「覚めろ」

 

 覚めろ、覚めろ、覚めろ。こんな夢は、今すぐに覚めるのだ。あの時と同じ、自分の周りが真っ赤になった夢なんて。「見たい」と思う方がおかしい。もし出来るなら、今すぐにでも逃げだしたかった。でも、それを許さないのが現実。現実の先に立つ、彼の仲間達である。彼の仲間達は何処か真面目な顔で、その周りをぐるりと囲んだ。「

 

 少年は、その言葉に押し黙った。それにどう返したら良いのか、その答えが分からなかったからである。仲間達が少年に「体調はどうだ?」と聞いても、それに「来るな」と返すだけで、仲間達の質問には全く答えようとしなかった。


 少年は「仲間達が自分達の事を連れに来たのでないか、『あの廃墟へと引っ張り込もう』としているのでないか?」と思って、目の前の一人にはスマホを、残りのメンバーにも様々な物を投げ付けた。「帰れ、帰れ、帰れ! 俺の前に出るな!」

 

 仲間達は、その言葉に俯いた。それはどう考えても、「反省の言葉ではない」と思った様である。彼がまた自分達に「帰れ!」と怒鳴った時も、それと同じ感情を抱いた様だった。仲間達は彼の態度に苛立つ一方で、その中に憐れみを感じたらしく、彼の怒声に眉を寄せはしたが、それをじっと見返すだけで、「彼の怒りに歯向かおう」とはしなかった。「怖がらなくて良い。俺達は、只」


 少年は、その言葉を無視した。それは「相手の事をめよう」とする常套句じょうとうく、安心の間に殺意を流す戦術だ。そんな戦術に掛かったらきっと、自分の命も只では済まない。。心霊のたぐいには無知な彼だが、そう言う勘だけは妙に鋭かった。


 。此奴等は、自分を襲いに来た亡霊だ。亡霊の言葉に従えば、そのまま向こうに飛ばされてしまう。少年は「そんなのは御免、自分は未だ死にたくない」と思って、目の前の仲間達に「消えろ!」と飛び掛かった。「俺の前に現われるな!」


 それに従う少年達、ではない様だ。その言葉にうつむきこそするが、彼の前からは消えようとしない。彼がまた自分達に罵詈雑言を浴びせても、それを只じっと聞いているだけだった。少年達は彼の怒声を暫く聞いていたが、やがて彼の顔に視線を戻した。彼の顔はいまだ、彼等への怒り(あるいは恐れ)に染まっている。


「お前が俺達の事をどう思っているかは、分からないけどさ。でも、これだけは信じて欲しい。これは、現実だ。正確? には、アヤメちゃんがお前に見せている幻だけど。幻の中に居る俺達は、本物。お前とこうして話している俺達も、同じだ。アヤメちゃんの力を借りて、お前の前に立っている。だから、これから言う事も」


「し、『信じろ』ってか? 本物かどうかも分からない奴等の言葉を?」


「……ああ、どんなに信じたくなくても。それが、俺達の本音だから。お前には、どうしても信じて欲しい。だから」


「う、五月蠅い! お前等の言う事なんて」


「『辞める』と言っても?」


「何?」


「俺達が『不良を辞める』と言っても?」

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