おねロリは現実にやってこない
いかずち木の実
おねロリは現実にやってこない
残念なことに、現実の少女は永遠ではない。
あっという間に少女は成長してしまい、その期間は格別に短い。……特に、わたしみたいなのにとっては。
少女の定義は人によると思うけれど、わたしにとっては小学校六年生まで。そこから先はもう、大人だ。
いいや、中学生も高校生も少女かもしれないが、ここでいう少女とはすなわち――恋愛対象という意味で。
厳密には小学生と恋愛できるとは微塵も思っていないから、ストライクゾーンとでも言えばいいのか。
彼女たちは刹那のあいだに成長していって、あんなにいとけなくて可愛かった子たちが、範囲外に出ていってしまう。
わたしみたいなのの気持ち悪い視線から逃れられるわけだから、それは言祝ぐべきことなのかもしれないけど、わたしにとっては未練極まりないことで。
だからわたしは、永遠の少女を作った。
……そう言ってしまうと、なんだかすごく大層な言い回しだけど、実際はVRC用の3Dモデルを作っただけだ。
キャラクターデザインも、モデリングも、全部わたし。メチャクチャ大変だった。
そうしてわたしは、仮想空間の中で、理想の少女を演じていた。
わたしの表情の変化で、同じく表情を変える、少女の似姿。
想定身長140㎝。ちらりと顔を覗かせる八重歯。右目の下の泣きぼくろ。鳶色の瞳を包む垂れ目。もちもちぷにぷにな白いほっぺた。淡い灰色がかったショートボブ。灰色のTシャツに深緑のカーゴパンツ。そこから覗く、折れそうなくらい華奢な手足。
精いっぱい記憶から描き起こした、現実のそれに及んでいる気がしない、それでも我ながら超かわいいアバター。
主観とはまた別に、右下の小窓にはそんなわたしが映っている。
そうやって自分が可愛いと分かっているだけで、仮想のアバターでいるだけで、わたしの言葉は現実よりも跳ねるように紡がれる。
それこそ、現実の少女が薄い脂肪に包まれた細い足で跳ねるように。
『やっぱり女児は女児と恋愛するべきなんですよ! 手を出すとかありえませんって!』
まあ、語る内容は幼女と程遠いんだけど。
集会場は公園のテンプレートのようでいて、あちこちにアニメやゲームから借用された妙なオブジェがある空間。そこで、愚にもつかない井戸端会議をしている。
『そうです、そのとおりです。L○も全部女児百合だけで埋められればいいのに』
『……さ、流石にそれは言いすぎなんじゃないですかね。自分で言っておいてなんなんですけど』
わたしは目の前で僻論を語る彼女――あるいは彼に苦言を呈す。
VRゴーグル越しに目の前にいるジャグジャグさん(当然ながらハンドルネーム)は少女性のアーキタイプとでも言うべき、金髪碧眼に白いワンピース、そんな美少女の姿を取っていた。
『自分で美少女になってみて思ったんですけど、やっぱり男いりませんよ』
過激な百合厨みたいなことを言うジャグジャグさんだが、その声は少女そのものだ。
おそらくわたしのようにボイチェンを通しているのだろうが、最近の技術というものは物凄いもので、加工してしまえば性別の特定は不可能だ。ちょっと前、バ美肉なんて言葉がまだ生きていた頃は、男性が中に入ってるだけで違和感があったものだけれど。
技術は日進月歩、どこかの大学ではかなり精度の高い五感の再現にまで成功したらしいけれど、それがわたし達のところまでやってくるのは、一体いつなのだろうか。きっとそれは、私が想像するほど遠くはない。
全部この姿で完結出来たら、きっとそれは素晴らしいことだろう。
『全人類美少女になったら、戦争はなくなります絶対』
インターネット空間特有の過言。
ジャグさんがそういったところで、時間を告げるアラームが鳴った。
『……すいません、ちょっと現実に戻ってきます』
そうだ、戻らねばならない。……気が重い。本当にずっとここにいたかった。
ぴょこぴょこと手をふるジャグさんに、手を振り返してわたしは現実に戻った。
現実のわたし――矢上(やのうえ)もちよは、何とも言えない感じだった。
ぶっちゃけ割と美人ではあると思う。
職業柄、そういうのの選定はちゃんとしてる方だとは思う。自分と世界の見ているものをすり合わせる事が出来なければ、わたしは廃業なのだから。
だけど美人だろうがなんだろうが、肌も弾力や艶が衰えてきてるし、それを誤魔化すために化粧は厚めにしないといけないし、髪だってパサッパサな上に茶色に染まっている。最近疲れるのも早いし、徹夜なんてもう出来ないし、何より二十八歳だった。
「……」
鏡に映るわたしは、二十八歳女性の中央値的な服装の、量産型女子だった。
外に出るための擬態。ある意味では、これもまたアバター。本当は一生スウェットだけ着て生活したい。
わたしは覚悟を決めて仕事道具の入ったバッグを持って、アパートの玄関ドアを開けた。
「ひうっ」
そして現実世界の象徴とも言っていい少女――ここでいう少女とは、現実世界の基本における少女で、わたしのストライクゾーンを指すものではない――と出くわした。
「ご、ごめん」
ちょうど廊下の、わたしの部屋の前を渡るところだったのだろう。
彼女はすんでのところでドアとの直撃を避けて、廊下の鉄柵に身を任せていた。
それは、わたしのアバターと似ていた。
いいや、逆だ。わたしのアバターが、似ている。
しかしぷにぷにしたほっぺたは失われ、スカートから覗く足はあの頃とは比べ物にならないくらい太くなっているし、髪だって艶も柔らかさも無くなって、灰色から真っ黒になっていた。
「……」
廊下からムッとした熱気が入り込んできて、蝉ががなり立てているのが聞こえていた。
八月も半ばの昼下がり。それでも彼女が制服姿なのは、部活か登校日だからなのだろう。
確か中学二年生だったか。
あれから四年そこらで、人はここまで変わってしまうのだなあ――わたしは無常を感じながら、さっきからこちらを見つめて硬直している彼女を眺めていた。
「あの、みみみちゃん? 出られないんだけど」
「す、すいませんっ!」
みみみちゃんは顔を真赤にして、飛び跳ねるように廊下の先へ走っていった。
佐々みみみ。冗談みたいな名前だが、本名だった。
わたしの住む403号室の隣に住む、佐々一家の長女だった。
わたしは冷房のよく効いた喫茶店で、タブレットで作業をしていた。
近所の個人営業店で、通りに面している割にはいつも閑散としている店。
なのにも関わらずガンガンと冷房を効かせ、地球環境と経営を容赦なく圧迫する空間で、わたしは定位置たる隅の隅でブラックコーヒー一杯で粘り続けていた。
ガタガタ震えながら、絵描き御用達の巨大なタブレットで線画を量産し続ける。……いくらなんでも、冷房効きすぎじゃないだろうか。
レジでぼうっとしている中年の店主に話しかけるのもはばかられ、わたしは作業を続ける。こんなことなら家でやってたほうがマシだろうが、家には魔性のVRゴーグルが存在するため、作業にはおそろしく向いていなかった。
「……う」
唐突に、お腹が限界を迎える。
タブレットを乱雑にテーブルに置いて、真っ青な顔でトイレに直行した。
便座に座って落ち着いたところで、自分の迂闊さを恥じ入り、そして言い訳した。
『まあ、大丈夫でしょ。このへん治安いいし、ていうかわたし以外誰もいなかったし。……いなかったよね?』
だけど、それがすべての始まりだったのだ。
我ながら馬鹿すぎると思う。
いくら空いていたとしても、ここは自分の部屋じゃないのだ。
いくらテクノロジーが進化していたとしても、使っている人間が馬鹿ならば、何の意味もないのだ。
「……あ」
何が言いたいかといえば、わたしのタブレットは盗み見されていた。
トイレから出てきたわたしは、彼女と目があっていた。
先ほど見た制服姿、灰色から黒になってしまった、隣のあの子と。
すなわち、そこには佐々みみみがいて。
タブレットには、あられもない姿で男に組み敷かれる少女の姿が映っていた。
そうだ、わたしはいわゆるロリエロ漫画家だ。
小さな少女(に見える建前上十八歳以上の女性)と成人男性が合意非合意問わずにまぐわう漫画でご飯を食べている。
当然ながら人におおっぴらに言えるお仕事ではないし、周りにも隠している。
例えばこれが何かの間違いで近所中に言いふらされてしまったら、一体どうなるだろう。きっとすごく面倒な目に合うのだけは想像できる。具体的にどうなるかは、脳が思考を拒否しているけれど。
「……ええっと、それは、あの、あの、あのね」
舌がもつれる。
否定や言い訳の言葉が出ない。
同時に、頭の中の矜持を司る部分が、これを否定したら何もなくなるぞと言っている。
そうだ、これでも矜持はある。
自分がやってることは間違ってないと思っている。
わたしはわたしがやりたいからこうしているし、誰かに強制されたわけでも何でもない。
だけど、同時にバレたくない気持ちも同じくらい強く存在していて――
そんなわたしに、みみみちゃんの無慈悲な言葉が続いた。
「――バレたら困りますよね、これ」
小悪魔めいた表情で、八重歯をちらりとのぞかせて、こちらにタブレットを見せつける。
わたしはそこに、昔の彼女の面影を垣間見る。
「私、これでも近所付き合いはそれなりにしてる方なんですけど。もちよさんはどうです?」
「……わたしに出来ることなら、何でもするよ」
ただの侮蔑ならまだマシだ、同情なんかされた日には本当に耐えられないだろう。
頼りない預金残高を計算して、口止めと引っ越しにどれくらいまで払えるか考える。
(割と気に入ってたんだけどなあ、ここ。家賃安いし)
「……そうですか、なるほど。それじゃあ――」
そうしてみみみちゃんは、わたしに突きつけた。
「――私に、絵を教えて下さい」
「はえ?」
全く予想外の要求を。
『もちよさんって絵すごく上手いですよね。さすがエロ漫画家だけあってデッサンがしっかりしてるっていうか。ちゃんと体と体が連動してる感じがしますし、何より超かわいい。私もこういう絵が描けるようになりたいです』
まあ確かにわたしの絵はそれなりに上手いと思うけれど、にしても予想外の展開だった。
「……わー、すごい。こんなんなってるんですね」
そうして今、わたしたちはガン冷えした喫茶店から、わたしの住処である403号室に場所を移していた。
ワンエルディーケー。八畳ほどのリビングダイニング。幸いなことにVRをやる都合上、それなりにきれいにしてある。
そんな部屋で、わたしたちはちゃぶ台越しに向かい合っていた。
「あの、一応十八歳未満が読んじゃ駄目だからさ」
しげしげとわたしの単行本を読みふけるみみみちゃんをたしなめる。
「勉強です」
「犯罪者になっちゃうから、わたしが」
「にしてもびっくりするくらいロリ漫画しか描いてないですね。大福太郎先生?」
「悪い?」
わたしは現実でその名を呼ばれることにむずがゆさを感じながら、話題をそらすことにした。
「そんなことより、絵を描くんじゃないの?」
だいたい、かなり前に描いたやつが収録されてるからけっこう恥ずかしいのだ。
「もう少し読んでからで」
もう何を言っても聞かないだろう。
女子中学生がロリエロ漫画のページを捲る音だけが、しばらく響く。
……何だ、この空間は。
手持ち無沙汰になったわたしは、そんな彼女の横顔を一瞥する。
……客観的に見ると、みみみちゃんは美少女に成長していた。
わたしの好みは置いておくにしたって、こうして本を読んでるだけで絵になるのは素直にすごい。もとより顔が整っているのはもちろん、なんだか物憂げな鳶色の瞳に吸い込まれそうだ。デッサンしてネットに流せば、それなりに伸びそう。……読んでいるのがロリエロ漫画じゃなければ。
「……やっぱり絵、上手いですね。最初はそんなでもなかったんですけど、どんどん上手くなってる。正直ドキドキしました。それと、視覚障害者が自称二十歳の幼女に騙されて捕まるやつが切なくてお話として好きですね」
かくしてわたしの単行本二冊と幾冊かの薄い本たちを読み終えて、読者様はお褒めの言葉を述べた。
「あ、ありがとう?」
「でも、ひとつだけ疑問があるんですが、なんで女の子同士、描くのやめちゃったんですか?」
彼女はそう言って、わたしがはじめて出した単行本の一角を見せた。
お姉さんと少女が抱き合っている。
最初期の路線。今は捨てた光景だった。
「……別に、ウケが良くなかったからだよ」
「そーですか」
露骨に目をそらしたわたしに、みみみちゃんは胡散臭気な視線を注いだ。
「そ、そんなことより、絵でしょ、絵! 別にわたしの作品を読んでそれで終わりなら別にいいけど!」
「声、裏返ってますよ」
そういうわけで、わたしはみみみちゃんの画力を見るために、絵を描かせることにした。
お題は、わたしの一作目の表紙の模写。
たしかそれは、ランドセルの女の子がバストアップでこちらを見つめているというシンプルなもので。
ランドセルやら小物のディティールには当時メチャクチャこだわったが、わたしはそこまで細かい指示は与えず、ただ大まかでいいと言ったはずで。
「……ええっと、なに、これ」
しかし目の前のコピー用紙に描かれたそれは、大まかという範疇を大いに逸していた。
思わず、絵に携わるものとして他人のそれに絶対言っちゃいけないことを漏らすほどに。
幼稚園児の落書きのほうがまだマシだ。
は○だしょうことか小林○うとか、ああいう俗に言う画伯的な絵。
見られてると思うと集中できないと言われ、二十分ほど待った結果がこれだ。
「……分かってますよ、下手クソだってことくらい」
みみみちゃんは心底恥ずかしそうに顔を背けて、震える声音で呟く。
その真っ赤な頬は、ふせられた鳶色の目は、やっぱり他ならぬ佐々みみみで。
わたしはまだ四年しか経っていないことを痛感した。
ここまで言えば分かると思うけれど、わたしとみみみちゃんは一時期仲が良かった。
わたしの前に、淡い灰色の髪の、天使みたいな女の子が舞い降りた。
『……はじめまして、佐々、みみみです』
『みみみちゃん? 素敵な名前だね。わたしは矢上もちよ。もちもちな名前でしょ』
恥ずかしそうに俯いて自分の名前を小さな声で呟く、みみみちゃん。わたしは視線を彼女に合わせて、ニッコリと笑いながらその淡い灰色の頭を撫でた。
わたしがここに越してきたのが五年前。
みみみちゃんは幼い頃にお母さんを亡くしたばかりで、お父さんは忙しくて仕方がない人だった。
隣に越してきた縁もあり、みみみちゃんと仲良くなったわたしは、一人ぼっちになりがちな彼女の面倒をよく見ていた。
それだけのことだ。
知らないあいだに疎遠になっていたが、それだけのこと。
『どうやったら、絵って上手くなるんですか』
『……模写、かなあ。漫画を全コマずーっと描き写し続けるの』
わたしは幼い頃から少女漫画のたぐいの模写を趣味としていた。
当時はせっかく幼女だったのに幼女と交流することもなく、幼女ばかり描いてきたのだ。
わたしは適当にググって、上の方に出てきたやつの中で効果がありそうなものを選び、みみみちゃんに推薦した。
「……上手く、なりません」
そうして一週間後、コピー用紙には、かろうじて人の形を見せているなにかがあった。
……もう一週間が経ったのだ。
わたしが喫茶店に行くのをやめ、みみみちゃんが何故かわたしの部屋でひたすら模写を続け、図らずもわたしを監視する重要なアシスタントになってから。
「かなりうまくなったと思うよ?」
「マイナス一億がマイナス一千万になっても」
「それって十倍うまくなったってことじゃん」
「物は言いようが過ぎます。……なんでもちよさんはそんなに絵が上手いんですか。才能ですか」
「……単なる努力量の差だよ。わたしはちっちゃい頃からずっと描いてるし」
自分では自分の絵を上手いとは思っていないが、ここで彼女にそう言ったらただ喧嘩になるだけだろう。……にしたって、幼少期も含めて今のみみみちゃんほど下手だった覚えは全く無いけれど。
「そういえばネットで見たんですけど、絵描きの人って小さい頃に頭ぶつけてるらしいじゃないですか。私も今からぶつけたら上手くなりますかね?」
「怪我するだけだよ」
「もう自分のド下手な絵を見てるだけで心が大怪我ですよ。もう辛いんです、自分の絵を見続けるのが」
「……ああ、わたしもスランプになるとそうなるなあ」
ついでに言うと、たまに鏡に映る自分を見て嫌になることもある。
「もちよさんクラスでもそうなるんですか。こっわ。絵描きってマゾの人しかいないんじゃないですか」
「まあそうかもね。創作なんて、みんなマゾの趣味だよ。……ていうか、そもそもなんで絵が上手くなりたいの?」
「……美術の授業のたびに引かれるからです。こないだなんてもう、みんなに笑われて」
その時のことを思い出したのか、みみみちゃんの顔に陰が差した。
「別にいいじゃん、自分は自分でさ。笑ってる連中だってわたしからすればゴミみたいな画力だろうし。……少なくとも、その理由で上手くなることはないんじゃないかな」
自分は自分でいい、まるでわたしそのものに説教するみたいな響きだった。
わたしはわたしが嫌いで仕方がないし、それでも二十八年なんとか生きてこれたのは、多分絵のおかげだ。絵がなかったら、収入以前の問題だったと思う。
「……好きこそもののってやつですか。じゃあ絵が下手な人は一生下手じゃないですか」
その言葉で、わたしが人生が下手くそな理由が分かった気がする。
わたしはわたしが嫌いだから、人生が下手くそなのだろう。
「そこまではいってないよ。ただ、モチベーションの問題だよ。美術の授業ってさ、つまんないじゃん? 美術の先生ってなんかわたしのこと嫌ってくるし」
「……え、もちよさんもそうなんですか」
「うん。何故か中高ともに嫌われてた。でさ、そんな場面で、ただ他人にバカにされたくないなんて理由で動いてもさ、多分うまくなるのは遅い。……だからモチベーションをプラスの要員にしようって、そういう話。好きはどこから見つけてきてもいいんだ」
わたしはただ楽しいからしていたけれど、じゃあこの子はなにが理由になるのだろう。
「……プラスのモチベーション、ですか」
みみみちゃんは少し考え込んだあと、まばゆいばかりの笑顔で続けた。
「じゃあ、褒めてください」
「はい?」
「もちよさんに褒めてもらえたら、頑張れる気がします」
そう言って、彼女はこちらに頭を差し出す。そのまま無言でキラキラした目で見られるのだから、始末におえない。
「……わかったよ、もう」
そもそも絵を教えてほしいと言ったのはみみみちゃんであって、わたしは別に下手くそでも何でも関係ないじゃないかとか、言いたいことはたくさんあったけれど。
それでもわたしは、みみみちゃんの頭を撫でた。
黒く染められた髪のさわり心地は、あの頃と比べるとあまりにゴワゴワで。
「前のは完全に邪神のたぐいだったけど、今はかろうじて人に見えないことはないよ。このペースで行けば、一年後にはわたしなんかすぐに追い越すかも」
「……前半、いりませんよ」
なんて言いながらも彼女は笑顔で、ちらりと見せた八重歯は、あまりにもまばゆかった。
……この顔だけは、あの頃と同じかもしれない。
気がつけば、秋だった。
あれから二ヶ月が経って、みみみちゃんの絵は、絵が趣味の小学校高学年の女子くらいになっていた。
上手いわけではないにせよ、もう下手だと笑われるような絵ではない。
髪を染めるのを止めたのか斑に灰色の混ざる、それはそれでオシャレなみみみちゃんが、あのキラキラした目でわたしを見ている。
絵の講評ではない。
わたしはテーブルの上に乗ったカレイのムニエルに箸を伸ばし、それを咀嚼した。
「……美味しい」
美味しかった。
「よかった」
みみみちゃんが胸をなでおろし、改めてカレイを口にした。
「うん、これはお世辞じゃない味ですね」
「お世辞なんて言わないよ」
なんて話ながら、わたしたちは食卓に並んだ味噌汁だったりサラダだったり白米だったりを、めいめいに食べ始める。
「いっつも絵に関しては言ってるじゃないですか」
「じゃあなんで喜んでるの」
「もちよさんに褒められたら何でも嬉しいんですよ」
「でも料理はお世辞嫌なの」
「もちよさん料理ドヘタじゃないですか」
そうだ、わたしは料理がドヘタだ。厳密には上手い下手ではなく、そもそも出来ない。
米の炊き方もわからないし、何なら備え付けのコンロも一度も使ったことがなかった。
だからいつもご飯はコンビニだったし、それを見かねたみみみちゃんと食卓をともにしている。……そしてここは、佐々家――404号室でもあった。
みみみちゃんの父親はいつも遅くに帰ってくるから、必然的にわたしたちだけの夕飯となる。一応ご飯代は出しているが、それもワンコイン。たったそれだけで栄養バランスが考えられた食事が出てくるなんて、こんなに素晴らしいことはなかった。
そんな生活が、かれこれ一週間近く続いている。
「もう一生みみみちゃんのお世話になっちゃおうかな」
「私も一生もちよさんに絵を習い続けたいです」
冗談めかしたわたしに彼女は返す。
「わたしなんてちょっと教えてるだけで、基本的にはみみみちゃんの努力だよ」
「それでいいんです。もちよさんが褒めてくれるだけで」
「……そっか」
言葉の意味を深く考えようとして、頭が拒否した。
「わたしもみみみちゃん無しじゃもうやってけないよ。食事もそうだけど、仕事だってみみみちゃんがいないと集中できない」
「じゃあ私がいないあいだどうしてるんですか」
基本的にみみみちゃんは放課後になるとやってきて、七時に夕飯を作り出すまで絵を描き続ける。
「エンジンだよエンジン。みみみちゃんがきてやっと本調子になるみたいな。それにわたし、みみみちゃん以外現実に友達いないし」
VRCに最近ログインしてないのも、みみみちゃんのせいだろう。
「……そーですか」
彼女は一瞬だけさみしげな顔をした後、笑顔で続けた。
やっぱり、その輝く八重歯はたまらなく魅力的だった。
「じゃあ、最低でも、私の絵がもちよさんを超えるまでは付き合ってくださいね?」
最近、とみにあの頃のことを思い出す。
あの頃のわたしたちも、今のわたしたちも、同じくらい仲良しだったと思う。
『……あのね、裕太くんがわたしの髪変だって言うの』
『そんなことないよ、全然。わたしは、すごく、すごく素敵だと思う』
絹のように柔らかく艶めいた、少女特有の髪をなでてわたしは言う。
『それに、ママとおそろいなんでしょ? だったら、悪く言う方が変なんだよ。みんな真っ黒で海苔の食べ過ぎかっての』
『あははは』
わたしがおどけると、みみみちゃんは喜んだ。
そうやって笑うあの子は、本当に天使みたいだった。
別にわたしは、あの子に好かれるのに特別な努力を要したわけではない。
母親をなくし、父親が多忙で、その見た目や名前で孤立しがちな少女に嫌われるなんて、そっちのほうが難しいと思う。
わたしはただ、みみみちゃんが望んでいるだろうことを言っただけだ。
あの子の幼さと孤独に付け込んで、甘い言葉をささやき続けただけだ。
ただそれだけで、みみみちゃんは、わたしが注いだ好意以上の好意を返してくれた。
……でもそれって、今の関係となにが違うのだろうか。
わたしには、まるでわからなかった。
わたしみたいな生活力がないロリコンのろくでなしに、どうして構ってくれるのか。
十歳そこらの女の子が相手ならばまだしも、ある程度の分別がつくだろう中学二年生が。
黒くなってしまった佐々みみみが。
……それとも、中学生なんて、みんなこんなものなのだろうか。
もう年を越して、バレンタインも近かった。
わたしたちは同じこたつに入って、のんびりと作業している。
絵を習いはじめて、すでに半年近い。
みみみちゃんの絵は停滞期に突入していて、それでもわたしが高校生くらいで達した境地にやってきている。模写に関してはほぼ完璧、自分の絵を描くフェーズにあった。
……教材がわたしだけだから、その絵はわたしそっくりで、だけどみみみちゃんの個性と言ってもいい部分がにじみ出ている。
「……ううむ、どうしたらいいと思います?」
その頃には、みみみちゃんの髪は灰色に完全に戻っていた。
そもそも何で染めていたのかは分からないけれど、なにか思うところがあったのだろう。
「そうだねえ。こういうときはひたすらに描くんだよ。それで、これだっていう奇跡の一枚が出来たら、それの再現に務める。一度出来たんだから二度出来ないはずがない」
「なるほど、奇跡の状態を常にしろってことですね」
技術論と言うほど立派ではないわたしの言葉に、みみみちゃんはうなずく。
「……それにしても、本当にうまくなったね」
「もちよさんのほうがずっとですよ」
「そりゃあそうだけど。……でも案外、本当にあと半年もしないうちにどっちがうまいとか言ってられなくなるんじゃないかな」
わたしたちの描いているいわゆる美少女イラストは、最終的には単なる見るものの好みにまで達する。
そんなところに、みみみちゃんはあと少しで達してしまうように見えた。
「ぶっちゃけ、もうわたしが教えることなんてほとんどないよ。わざわざこなくたって――」
「――こっちのほうが集中できますから。……もちよさんもそうでしょ?」
「……まあ、そうだけど」
わたしは少し逡巡してから、続けた。
「でも、そろそろ中三だし、いい加減勉強もちゃんとしたほうがいいんじゃない?」
柄にもない説教。彼女が家に入り浸る時間はどんどん増えていっていて、これじゃあ勉強してる暇もないように見えた。
「……わかりました。それじゃあ、ここで勉強もしますね」
それに対するみみみちゃんの返答はある意味では想像通りだったけれど、少し恐ろしくもあった。
……一体自分が何を何を恐れているかは、自分でもよくわからなかった。
あれは確か、みみみちゃんの十歳の誕生日のことだった。
そのときは流石にお父さんも早く帰ってきていて、わたしたちは三人でケーキを食べた。
『いつもみみみがお世話になっています』
みみみちゃんのお父さんはしきりにわたしにペコペコしていて、痩せ気味の白髪交じりの中年男性はとても子供に『みみみ』なんてつけるようには見えなかった(亡くなったお母さんがつけたらしいが、母国では何らかの意味があったのかもしれない)。
わたしはみみみちゃんに、髪飾りをプレゼントした。チョコレートみたいな、ばってんの髪飾り。本当はもっと高くて良い物――例えばブランド物のとびきりに可愛い子供服とか――を貢ぎたかったが、親戚でも何でもないのだからこれが限界だったと思う。
『ありがとう、もちよさん!』
本当に大したものじゃなかったけれど、みみみちゃんは飛び跳ねんばかりに喜んだ。というか実際飛び跳ねていた。
わたしも飛び跳ねたいくらいに、よく似合っていた。
佐々みみみは、本当に天使だった。
淡い灰色の髪は光を受けて微かに発光しているし、白くてすべらかな肌は生まれて一度も日を浴びたことがないみたいだったし、華奢ながらも薄い脂肪に覆われた手足はそれ以降の世代がどうやっても手に入らない一瞬の奇跡だった。
それこそ、本当に天使の輪っかを幻視してしまいそうなほどに、それはまばゆくて。
輝く八重歯の笑顔を前に、わたしは誇張抜きに昇天しかけた。
もしかしたら、わたしはこの瞬間のためだけに生きてきたんじゃないかってくらいに。
『……どしたの、もちよさん?』
そんなわたしを、みみみちゃんは訝しげに見上げていた。
『ううん、何でもないよ。喜んでくれてうれしいって、それだけ』
彼女は心底その髪飾りを気に入ったみたいで、付けたままお風呂に入ろうとしていたほどで――
「これ、覚えてますか?」
六月も半ば、梅雨に入ってジメジメとした日々が続いている。
もうすでに絵を教えはじめて十ヶ月が経つ、絵と勉強の配分が半々になってきた、そんなある日。
みみみちゃんは、あの日にプレゼントした髪飾りをつけていた。
もう彼女の年代では若干浮いてしまう、今見ると子供っぽいデザインのそれ。
「ちょうど五年前の今日に貰ったやつです」
「……ごめん、忘れてた」
そうか、今日でもう十五歳なのか。……道理で大人っぽくなったわけだ。わたしから見ると、すでに成人女性と何も変わらないくらいに。
「覚えてますか? ……あれから、もちよさんの態度がどんどんそっけなくなったの」
「……」
「厳密には、あの日の翌日から、ですかね。私はあの日、もちよさんとお風呂に入りたがった。以前から何度も誘って、何度もかわされていたことでした。だけど、その日もちよさんは折れて、一緒にお風呂に入った。……それから、もちよさんは妙によそよそしくなって、気がついたら疎遠になっていた」
ああ、もう思い出している。
都合よく忘れていた事実を、今はちゃんと思い出している。
「私から見ると、ただお風呂を一緒しただけだったんですがね。……それがちょうど五年前で、もちよさんが最後におねロリ漫画を描いたのも、ほとんど同時期。私の十歳の誕生日のほんの数日前です」
嫌な汗が、だらだらと流れていた。
今まで見ないようにしていた、しかし言うまでもなく明白な事実を指摘されている。
「それで、何で描かなくなったんです、おねロリ?」
「……」
吐きそうだ。こんなに詰められたのは、持ち込み時代以来かもしれない。
だけどわたしは、これ以上逃げるのも無意味に思えたので、みみみちゃんに明白な真相を告げることにした。
「……わたしはさ、ロリコンなんだよ。知ってると思うけど。でも、あの頃は現実の女の子に手なんか絶対出さないと思ってたし、出してたまるかと思ってた。信じてくれないと思うけれど、わたしはあの頃のみみみちゃんに邪な気持ちは抱いたことがなかったんだよ、いや本当に。嘘じゃなかったんだよ、あの日まではさ」
言うまでもなくそれは、一緒にお風呂に入ったときのことで。
記憶が蘇るにつれて、鮮烈に思い出すことができた。
みみみちゃん十歳の裸体を、まばゆいばかりの白を、浮き上がったアバラを、少しぷっくり膨らんだ胃下垂を、南天の実みたいな色素の薄い乳首を、二次元じみたすじを。
何度も繰り返すが、わたしはロリコンだ。
あまりにしつこいみみみちゃんを前に屈したが――いいや、この言い方は卑怯だ。わたしが屈したのは自分の欲望にでしかない――、本当はあの場に決しているべきではない存在だったのだ。
「……もうだめだと思った。このままじゃ犯罪者になるって本気で思った。みみみちゃんを傷つけると思った。怖くて怖くて仕方なかった。……だから、わたしはあなたと距離を取るようになったんだ。自分の理性が信じられなくてさ。笑えるよね、漫画みたいに鼻血たらしてたんだよ、あのときのわたし?」
だけど、これはまだ質問の答えにはなっていない。
「わたしにとって、漫画はありえないから良かったんだよ。ありえないよね、小さい子が未成熟な性器で感じるわけないもん、乱れるわけないもん。そもそも、小さい子がわたしみたいなろくでなしのロリコンを好きになってくれるはずもないから。
ありえないから、現実の切り離されてるから、わたしはのびのびと描ける。その時のわたしにとっては、おねロリもそれ以外も、単なるファンタジーだったんだよ。……でも、状況が揃ってしまえば、おねロリはわたしにとって現実になりかねないって、そうわかってから。描けなくなったんだ」
おねロリは現実にはやってきてはいけないのだ。……特に、わたしみたいなのにとっては。
「……ひどいですね、もちよさんは」
全くもってそのとおりだ。みみみちゃんが言ってることは全面的に正しい。
勝手に劣情を催し、勝手に距離を取る。
あるいは母親のようにさえ思っていた女性にそんなことをされたら、幼い心はどれほどに傷つくだろうか。
わたしはわたしのやったことから目を背け、ただ空想の少女を犯したり、空想の少女になりきっていたのだ。現実の少女を放って。
「……私はきっと、もちよさんにあの時求められていたら、その気持ちに応じていたと思います」
「でも、それは」
それは単なる錯覚だ。
傲慢かもしれないが、幼く孤独な少女の思いなど、その程度だと言い切れる。
あるいはこの傲慢さこそが、わたしをロリコンたらしめてるのかもしれない。
自分に自信がないから、一人前の相手と接することができない。大人が怖くて怖くて仕方がない。
心のどこかで、わたしは少女を見下しているのだろうか。
「……あの頃だけなら間違いだったかもしれないですけど、十五歳の今も同じだったら、どうでしょうか」
あと一年で、法的には結婚できる少女が言う。
あと三年しないと、性交したら捕まる少女が言う。
「私はずっと、もちよさんを想い続けていました。……あの日の喫茶店で出会ったのは偶然じゃないんです。後ろを勝手についていっただけなんです。壁に耳を澄まして、あなたがネットの誰かと話しているのだって、いつも聴いてました」
みみみちゃんが、ちゃぶ台から身を乗り出して、そう言った。
顔が近い。今にも触れてしまいそうなほどに。
大人びた顔が、揺れる鳶色の瞳が、天使の残滓が、わたしを見つめている。
どう反応すればいいか、わからなかった。
「……好きなんですよ、もう六年も。嘘でも気の迷いでもないんです。人生の三分の一好きなんです。だから、だからっ――」
想いが爆発して、わたしの唇に触れた。
世間一般が言うところの、大人びた美少女の薄い唇が、わたしの唇に触れていた。
……だけど、どうだろう。
「……ごめん」
わたしの胸は微塵も高鳴らなかったし、頬を真っ赤に染めて今にも泣き出しそうなみみみちゃんとは、ある意味真逆の表情しか浮かべられない。
体が、震えている。
きっとそれは、恐怖だ。
わたしは大人が怖くて怖くて仕方なくて。
小さい子以外には全くときめかなくて。
「わたし、やっぱりロリコンみたい」
わたしの言葉に、みみみちゃんはちゃぶ台に顔を伏せた。
十五歳は世間一般ではロリ扱いされるし、わたしはどちらかと言えばアリスコンプレックスなんだろうけど、それはどうでもいいことだった。
何にせよわたしはみみみちゃんを受け入れられなくて、みみみちゃんはあの日以来わたしのところへ来ていない。
こんなざまだから、たとい十歳のときに結ばれていたとしても、破滅は決定的だったと思う。大人になっても好きなんて、そんな綺麗事は言えない。
ロリコンは少女とさえ恋愛できないのだ。少女にはあまりにも短い期限があるから。
別に恋愛は性愛だけでやるものじゃないかもしれないけれど、大人が怖いわたしにはそれも難しいことだ。
中高で嫌なことがたくさんあって、だからわたしはこうなってしまったわけだし。
名前で馬鹿にされたり、絵で馬鹿にされたり、あるいは人格の問題で馬鹿にされたり。
それでも、あの子と一緒にいられたのは、天使の残滓があったおかげだろう。
……あるいは、似た者同士だったからか。
何にせよ、やはり今回も、わたしのやったことは五年前と大差ないのかもしれない。
わたしは今も昔も最低で、最低なわたしは、逃げるように再びVRCにのめり込むようになった。
やはり技術は日進月歩で、進化した触覚デバイスや小さなマスクによる嗅覚再現のデバイスが市販されるようになっていた。
やっぱり少女になるのは楽しい。
柔らかい感覚といい匂いだけがある世界は楽しい。
少女のままならば、きっとすごく生きるのが楽だったんだろう。
それも、もちよなんてふざけた実名じゃなくて、天使みたいに可愛い女の子だったならば。
だけどよく見ると、一年近くアップデートしていないわたしの姿は二重の意味合いで解像度が低くて。
みんな体を構成するポリゴンが増えていたし、それ以上に、わたしの記憶の中でより鮮明になった天使の姿と、今のわたしは程遠かった。
わたしはややこしいモデリングの勉強を再開して、自身をアップデートしていく。
だけど、記憶のあの子にはどうやっても届かなくて。
たくさん撮影したはずの写真は、何もかも嫌になって消していて。
わたしはすでに、天使を再現する術を、失っていた。
気がつけば、わたしが必死で作ったモデルを素人が片手間で作れるようになったくらいに技術は進歩していた。
わたしは相変わらず403号室に住んでいたし、年々厳しくなる規制の中で細々とロリエロ漫画を描き続けていたけれど、VRCからは距離を取っていた。
上手くいかないのは辛いことだ。
いつぞやみみみちゃんが言っていたことで、それは半ば真理めいている。
そんな彼女と言えば知らぬ間に大学に進学していて、隣にはもうくたびれたおっさんしか住んでいなかった。
あの子は今頃、どうしているんだろうか。
何の勉強をしているんだろうか、絵はまだ描いているんだろうか、彼氏がいたりするんだろうか。
……何にせよ、わたしのことなんかとっくに忘れているに違いない。
それこそ、とっくの昔に、わたしへの想いなんてただの気の迷いで、もっと素晴らしい人間は世界中にあふれていると、そんな当たり前のことに気づいているのだろう。
そんな事を考えながら原稿に向かっていると、玄関のインターホンが鳴った。
「頼んだっけ、なんか」
一人暮らしをしていると独り言が増えてかなわない。それも三十代も半ばの独身女性にもなると。
「……は?」
そうして届けられた、そこそこの重さのダンボールはアマゾンでも何でもなくて、わたしはその送り主を見て、思わず目を見張り、ついで擦った。
しかし、それは見間違いでも何でもないみたいで。
「……何が入ってるんだろう」
恐る恐る、わたしはダンボールのガムテープを剥がし始める。
その送り主の名は、他ならぬ佐々みみみだった。
私――佐々みみみは、大人になりたくなかった。
だって、お父さんはいつも忙しそうに遅くまで残業していたし、だいたいこの変な名前じゃ就職できるかすら怪しい。
じゃあ子供のままがいいのかといえば、それもそれで嫌だった。
友達はいないし、みんな私の髪と名前と絵をからかってくるし、甘えられる親も名付けについて文句を言える親も、もういないのだから。
『……はじめまして、佐々、みみみです』
『みみみちゃん? 素敵な名前だね。わたしは矢上もちよ。もちもちな名前でしょ』
そんな、大人にはなりたくないけれど、子供のままも嫌な私が出会ったのが、矢上もちよさんだった。
素敵な名前なんて、見え透いたお世辞にしか感じられなかったけれど、でも、もちよさんだけは違う気がした。だって、変な名前だったから。
もちもちな名前は、よく食べ物扱いされる私に通じるところもあったし、どこか浮世離れした雰囲気も好きだった。
職業不詳で、いつも家にいる。お父さんとは真逆の大人。かと言って無職というわけではなさそうで、夏休みなんかに遊びに行くと、仕事をしているから今は無理だと断られたりもする。でもそれだってすぐに切り上げて、私と遊んでくれた。……今思えば、きっと無理してたんだろうけど。
何にせよ、私はそんな彼女のゆるい雰囲気が、好きだった。
私も、もちよさんみたいな大人にならば、なってもいいかと思えたのだ。
それに、もちよさんは私の話をちゃんと聞いてくれたし、私のことをちゃんと見ていてくれた。
たったそれだけのことが、私の孤独な心にはありがたくて。
気がつけば、私の好きは、大好きにまでなっていた。
……だけど、結果はこれだ。
私は子供だったせいでもちよさんに拒絶され、大人になってしまったせいで再び拒絶された。
やっぱり私は、子供のままでも、大人になるべきでもなかったのだと、心底思う。
きっと、もちよさんの言うことは正しい。
私の想いは幼く孤独な魂が見た錯覚なのかもしれない。
だけど私は、愚かしくもその錯覚を抱え続けた。
もう二十歳をとっくに超えて、もちよさんの対象外も対象外の年齢になってまで。
あらゆることを勉強して、血反吐を吐きながら、努力に努力を重ねて、ただもちよさんを目指し続けた。
そして今、私の努力は、結実しようとしていた――
ダンボールの中には、最新鋭のVR機器が詰まっていた。
触覚再現も兼ねたモーションキャプチャ用のトラッカーを全身にまとい、昔と比べるとだいぶ軽く小さくなったゴーグルに、味覚と嗅覚を再現するマスクを付ける。
そして、スマホ大の端末を起動し、そこにインストールされていたアプリを起動すると、わたしはそこに降り立った。
そこは、ポリゴンで再現された、わたしの部屋にそっくりな空間だった。やたら細かく再現されたそれは、厳密には数年前のわたしの部屋にそっくりだった。同じような部屋から部屋へ移動する感覚は、なんだか妙な気持ちにさせられる。
そこでのわたしは、小さな女の子だった。
可愛らしい美少女。栗色の髪に、くりくりした瞳のそれは、今のわたしを美化してそのまま小さくしたかのようで、何よりその外見はまるでわたしがデザインしたかのような、そんな癖が見受けられた。
……当然ながら、わたしはこんなのをデザインしていないし、モデリングだってしていない。正直、同じのを作れって言われても困るくらいに、それはよくできていた。まるで、生きてるかのように細部の動作が作り込まれている。それと関係しているか定かですらないが、ほっぺたを突いたら、明らかに自分のそれじゃない柔らかい感触が帰ってきた。……どうなってるんだろう、これ。まるで本物じゃないか。
いったい、どこの誰が作ったのか。
わたしの目の前に、答えはあった。
「……みみみ、ちゃん?」
そこには、天使がいた。
あの日たしかにわたしが見た、天使が。
光沢を帯びて輝く、淡い灰色の髪。
優しげな垂れ目にくるまれた、鳶色の瞳。
白くて華奢な、それでいて黄金比めいた絶妙な脂肪に覆われた手足。
その身を包むのは、長袖紺色のセーラーワンピース――有名な子供服ブランドの、いつか着せたいとわたしが夢想したそれだ。
わたしが夢に見続け、しかし実現に至らなかった天使。
けれどもそれは、決して天使ではなく、天が遣わせた、神のごとき御業ではなくて。
「――はい、みみみです」
ひとりの少女が、少女だったあの子が、ひたすらの努力の末に勝ち取ったものだった。
努力の末に形作られた笑顔は、怖いくらいによく再現されていた。
……八年前、幼稚園児以下の画力だった人間が、何をどうしたらここまで到れるのだろうか。それも、絵だけならばまだしも、モデリングまで。いいや、それだけじゃない。これだけの最新の技術のために、彼女はいったいどれだけの努力をしたんだろう。
わたしが一生のうちにした努力を、遥かに超えているのではないか。
「……才能の無駄遣いって、昔のスラングにあったけどさ」
だったらこれは、超弩級の才能の無駄遣いだろう。……努力する才能を、間違って使っている。
たかが、わたしのために、ここまでするか?
「無駄じゃないですよ。もちよさんが言ったんじゃないですか。好きこそものの上手なれって」
みみみちゃんはそう言って、わたしを抱きしめた。
「だったら、好きすぎてこうなるのも自然なことです」
それは、十二年前にわたしが感じた、あの柔らかさと匂いをたしかに持っていて。
間違いなくそれは、正真正銘の本物で。
わたしたちは、電子空間で結ばれた。
おねロリは現実にやってこない いかずち木の実 @223ikazuchikonomi
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