大嫌いな女と、大好きだった女の死体を埋める

いかずち木の実

大嫌いな女と、大好きだった女の死体を埋める

「知ってる? 共犯者って、この世で最も親密な関係なんだって。わたしの好きな小説に書いてあったんだけど」

 この世で最も気に入らない女は、満月を背に、どこかで聞いたことのある台詞を吐いた。

「……私が一人で埋めてるじゃない」

 だけども今ではそんな軽口さえも救いに思えてくるから、あまりの情けなさに涙さえこみ上げてくる。

 私――仲川七海(なかがわななみ)は、何故こんなことをしているのだろう。

 大好きだったあの子――葛西イツキ(かさいいつき)を、寝袋に折りたたまれた葛西イツキだったものを、息せき切って穴に埋めてるのだろうか。

「でも車と道具を用意してあげたのはわたしだよ、ナナミン?」

 女は――佐山ユカは馴れ馴れしく私を呼んで、そのまま腰を抱く。

 造作の整った小さな顔が、甘やかな芳香が、柔らかな肢体が、全て反転して私に不快感を与える。

「だいたいさあ、殺しちゃったのはナナミンなんだから、自分で埋めるのは当たり前じゃん?」

 ねっとりと耳元で囁く声に、否が応でもあのときの感触が蘇る。

 私はそれを無視するように、寒空の下でもなお湯気を放ち滴る汗を振り払い、ひたすらにスコップを動かした。だけど、佐山は続ける。

「イツキちゃん、すごくいい子だったのに、やれ痴情のもつれだの、やれ同性の恋人がだの、きっと面白おかしく報道されるんだろうねえ」

 耳を塞ぎたくなるが、両手はスコップで埋められていて。

「同性愛者に偏見なんてありませんよ? みたいな但し書きを入れてさ、コメンテーターたちが訳知り顔でしょうもないことを言うんだ。イツキちゃんのこともナナミンのこともなーんも知らないのに」

 気がつけばガタガタと震えていて、溢すまいと思っていた涙が頬を流れていた。

「……大丈夫、怯えなくていいよ。わたしがいるから」

 佐山の白魚のようなきれいな指が涙を掬い、口元へ運ぶ。同時に、私の体が優しく抱きしめられる。

 ああ、どうして、なんで。

 私はこの女のふざけた戯言に怒りを覚えるどころか、安心さえしているのか。

 他ならぬこの女が、全ての元凶なのに。

 この女がイツキを奪いさえしなければ、それも、ただ私への嫌がらせのためだけに奪いさえしなければ、こんなことにはならなかったはずなのに――

 私は安心と憎悪と後悔と憤怒でぐちゃぐちゃになった頭を振り絞って、どうしてこうなってしまったのか、空虚な回想を始めた。


 大学生になってこの街にやってきた私は、運命の出会いと呼べるものを経験した。

 ひとつは、――ひとつだったら、どれだけよかっただろうか――葛西イツキとの出会い。

 そしてもうひとつは、他ならぬ佐山ユカとの出会いだった。

 大学のクラスメイト。あまりにも真逆、しかし絶対値は同じである好悪。

 しかしそのふたつは、あまりにも不可分で、それゆえ避けようがないものだった。

 私はイツキに一目惚れした。

 そして次の瞬間、イツキに馴れ馴れしく抱きつく軽薄な女に、言うなれば一目嫌いした。

 二人は小学校からの幼馴染で、お互いに示し合わせてこの学校を受験したほどの仲だったらしい。……つまり、大親友だってことだ。

 その時の私は、イツキのあまりに良すぎる顔や王子様みたいな凛とした立ち振舞に一目惚れしただけだったけれど、中身はそれ以上に素晴らしかった。

 仲良くなって、同じランチを食べて、同じ講義をとって、同じサークルに入って、同じ飲み会に参加して、そうしてイツキの素晴らしさを知っていくのと同時――私は、佐山ユカの最低さを知っていく。

 あの女は、いつでもどこでもイツキにまとわりついていて、私とイツキを二人きりにさせてくれない。あの女は、私と同じでちんちくりんの童顔のくせに、よくよく見るとスタイルが良くて、顔だって隣に立って欲しくないくらい小さくて、まるでアイドルみたいで。私が本当なら着たいようなふりふりした服を平気で着こなして、周りの人間だってそれをちやほやして。あの女は――

 ……認めよう。これは全部、単なる嫉妬だった。

 佐山ユカと顔を合わせるたびに自分の情けなさ滑稽さ狭量さを思い知らされ、それでもなお私がイツキに会おうとすれば、必ず彼女はそこにいた。イツキの隣に立つ、あまりにもお似合いな彼女。

『……ねえ、葛西さんって、誰かと付き合ってたりするの?』

 だから私は、たまりかねて佐山ユカに訊ねたのだ。

 放課後のハンバーガーショップ、イツキがトイレに立った間隙を縫って。

『なんで私に聞くの? 本人に聞けばいいじゃん』

『いや、えっと、それは、あの』

 狼狽する私に、佐山ユカは答えた。

『――いないよ』

 彼女のポテトが、私の口に運ばれる。

『イツキちゃんに彼女はいないよ。私とイツキちゃんは単なる幼馴染。だから、安心して?』

 少なくともこの日まで、私の憎悪は単なる嫉妬であり、逆恨みだった。

『……ごめん、七海。もう、付き合ってる人がいるんだ。だから七海の気持ちは受け入れられない』

『へ?』

 その相手は一体――

『……ユカだよ』

 そういったイツキの少しはにかんだような笑顔は、とても冗談を言ってるようには見えなくて。

『佐山ァ!』

 私はあの女の胸ぐらをつかみ、そのまま壁に叩きつけた。

『なんで嘘ついたのよ! あんなひどい嘘を!』

『嘘なんか、ついてないよ。少なくとも、あの一週間前の時点では、イツキちゃんは誰とも付き合ってなかったんだから』

『だったら、なんでっ!』

『なんでって、仲川さんが一週間も時間をかけたからじゃないの? わたしはあの日、仲川さんと別れた時点で告白したよ?』

『……だから、なんでっ』

 涙で視界がぼやけてくる。それでも、あの女の意地の悪い光をたたえた瞳が私を見つめていることだけは分かる。

『なんでだろうね? 人が欲しがってるのを見て初めて自分の欲望に気づいたのかな?』

『殺すっ』

 私はあの女の華奢な体を押し倒して、そのまま首を絞める。

 ひどく細くて白い首は、力を込めれば容易く折れてしまいそうで――

『何やってるんだ!』

 だけど私の殺意は、よりにもよって葛西イツキに目撃された。

 あのときの、軽蔑と怒りと恐怖の入り混じった視線に、私の殺意は完全に固定されてしまったのだと、そう思う。

 液体だったはずの、放っておけばきっと蒸発していただろう殺意は、固体として私の心を鎧い、そうして私は、正しく、一時の感情に流されず、佐山ユカを殺すことにした。

 ……なのに、現実はこうだ。

 私が用意したナイフが貫いたのはあの女ではなく、葛西イツキの心臓だった。

 あの女を庇った胸からとめどなく溢れる血液は止まることがなくて、イツキはあっという間に冷たくなって、泣き伏せる私にあの女は――佐山ユカは言ったのだ。

『早く埋めちゃおうよ、これ』


「……なんで、あなたはそんなに落ち着いていられるのよ」

 街から車で一時間半ほど走らせた距離にある山深い森。私がスコップ片手に問うと、「んー、なんでかなー」佐山ユカは小首をかしげてひとりごちる。

「……十数年来の幼馴染じゃなかったの?」

「あー、そういえばそんな設定もあったっけ」

 思わずスコップを取り落しそうになる私に、佐山ユカは続けた。

「確か二人きりになったときに言ったんだっけ。あれ、嘘だよ」

「……なんで、そんな嘘」

「だって、そのほうがナナミンが嫌そうな顔するかなって思って」

「は?」

 今度こそスコップを取り落とす。

「本当は高二の頃からクラスメイトなだけだよ」

「でも、あんなに親しそうに」

「たまたま知り合いだったしさ、初対面で顔のいい女とベタベタしてたらマウント取れるかなあって。ほら、私も可愛いし、絵になるでしょ?」

 もはや、閉口するしかない。先程までの汗が、一気に冷たいものに変わっていく。

「それに、こうやって引っかかってくれる馬鹿な子もいたし。……すごい目だったよ、私に初めて会ったときのナナミン? 思わず一目惚れしちゃうくらいに」

 言葉とともに、佐山ユカはマフラーを取り、首をなぞる。

 ……私が絞めたときに出来た、青い痣を、ひどく愛おしげに。

「……じゃあ何よ、アンタは私のこういう顔が好きだから、それで今までこうしてきたって、そういうことなの?」

「うん、そうだけど?」

 佐山ユカはにっこりと微笑んで、そのまま私の取り落したスコップをこちらに手渡す。

 私の脳裏に、この女の頭を叩き割り、イツキと一緒に埋葬する情景が浮かぶ。それと同時に、イツキの心臓を刺したときの、あのぐにゅりとした肉を裂く嫌な感触が手の平に蘇って――

「おえええええええっ」

 私は嘔吐していた。

「えー、きったないなあ」

 渡しそこねたスコップで佐山ユカは吐瀉物にまみれた土を掘り、そのままイツキが眠る穴へ捨てていく。

 それを尻目に私は、もはや胃液だけになったそれを吐き続ける。

 喉が焼けるように痛い。

 先程枯れきったと思った涙が、未だに流れ続けている。

「ねー、早くしないと日が明けちゃうよ。冬だって言ってもモタモタしてるとまずいよ?」

 そんな私の顔を、佐山ユカは覗き込んでくる。

 そこには死体遺棄をしているような感慨や、殺人犯と一緒にいるという気負いは一切感じられず、ただ夏休みの宿題が終わらない友人を急かすように彼女は言った。

「自分のしでかしたことの重さを反芻してるのかな? そういうのは家に帰ってからにしようよ、ね?」

 その小さな手が、小さいけれど細くて長い指が、私の頭を撫でる。

「……無理、出来ない」

「そっか、出来ないか。しょうがないなあ、ナナミンは」

 ちらりと、八重歯が満月にまばゆく照らされる。

 小さな子供のわがままを聞き入れるように笑って、あの女は私の代わりにイツキを埋め始めた。

「……なんで、なんで」

 私には、出来ない。なぜか、出来ない。どうしてか、出来ない。

 その無防備な背中を押せば、それだけで動きを封じれるのに。

 一緒にスコップを奪えば、そのまま生き埋めに出来るのに。

 だけど私には、それが出来なかった。

 佐山ユカを殺そうと思うだけで、同時にあのときの、嫌な感触が蘇ってきて。

 私の体は吐き気と硬直と後悔に支配されてしまう。

「……なんで、出来ないのよぉ、なんでえええええっ!」

 その慟哭は、過ってイツキを殺してしまったときよりも大きく、激しく、日が登ろうとしている森の中に響き渡った。


 私がまだ私だった頃。

 私の殺意が正しくカタチを保っていた頃。

 冷気が肌に突き刺さる、深夜の公園――思えば、どうしてこんなところにあの女がノコノコやってきたかをちゃんと考えるべきだった――に狭山ユカを呼び出した私は、一切の弁明を認めずに出刃包丁片手に彼女に襲いかかった。

 月光りを反射した刃に、鋭い意思に満ちた私の瞳が映る。最期の灯火が、私の体を突き動かす。そのまま、刃はあの女の心臓を貫くはずで――

「――ユカっ」

 だけど私を、傍らに隠れていたイツキが遮る。

(……二人きりで会おうって言ったのに)

 私じゃなくてあの女の名前を呼んだ彼女と私はそのまま揉み合いになって、

「……あ」

 気がつけば、出刃包丁は彼女の心臓に突き刺さっていた。

 忘れもしない感触、ぐにゃりとした反発の中、粘液に満たされたボールを突き進んでいくような不愉快さ。

「イツキっ、イツキっ」

 そして、私の手の中でイツキはどんどん冷たくなっていく。

 私の大好きだった人が、ただのものに成り果てていく感触。

「起きてよ、イツキ、イツキ、イツキっ! イツキ――」

 そこで私は、夢から覚めた。

 時刻は午後五時、カーテンが締め切られた部屋には、時刻を確認するためのスマートフォン以外に光源は見当たら無かった。

「……夢、か」

 だけど夢だったらどれだけよかっただろう。

 柑橘類っぽいことを考えながら、私はここ一週間の習慣であるニュースサイトの巡回を始める。特にそれらしい事件は見当たらなくて、ほっと胸をなでおろした。

 ……そうだ、すでに一週間。

 私がイツキを殺し、山に埋めてからそれだけの時間が経っていた。

 幸いなことに、未だに事件は露見していない。

 あるいは、本当にすべてが夢だったではないかと言うほどに、世間は何も変わらず動き続けている。

「――ひいっ」

 唐突なインターフォンに、私の肩が跳ねた。心臓はそれ以上に跳ねて、口から逃げ出そうとする。

 警察だ。きっと警察が来たのだ。本当はイツキの死体はとっくに見つけられていて、警察が逮捕しに来たのだ。

「嫌だ、嫌だ、嫌だ、私は悪くない、悪くないのっ」

 あれは事故だったのだ。そもそも佐山ユカがいなければ、誰も血を流さずに済んだのだ。だから本当に逮捕するべきは私ではなくてあの女であって私には微塵の過失もなくてでも私がイツキを殺したのは紛れもない事実であいつは何もしていなくてだけどやっぱり悪いのは私ではなくて――

 私が毛布の中でガタガタと震えていると、インターフォンから声が聞こえる。

「おーい、ナナミン~」

 それは他ならぬ、あの女の声だった。

 思わずホッとした自分を、私は思い切り殴りつけた。


「いやあ、一週間も大学来なかったから心配してたんだよ? そろそろ期末だし、試験範囲も出てるし、ちゃんと来なきゃだよ」

 鳴り止まぬインターフォンに根負けして、私は絶対に入れたくなかった相手を家に招き入れた。すると佐山ユカは勝手に明かりと暖房をつけて、リビングに着席する。

 そこで私は、一週間ぶりに自分の顔を姿見に発見した。

「顔色すっごい悪いし、目の隈もすごいね。ちゃんと食べてる?」

 食べてるはずがないだろう、あんな事があったのにまともに食事など取れるはずがない。 ……鏡の中の頬は、ひどく痩けている。そして先程の自傷行為のせいで、青あざが出来ていた。

「ほら、これノートのコピー。せっかく講義出てたのにテスト駄目で落単とか嫌でしょ?」

 どうしてこの女は、まるで何もなかったかのように振る舞えるのだろうか。

 あるいは、本当に夢だったのだろうか。

「ねえ、佐山さん」

「何、ナナミン?」

 その大きな瞳に見つめられると、何も言えなくなる。代わりに、口から出るのはなんとも無難な言葉だけだ。

「……みんな、私が来ないことについて、何か言ってた」

「みんな案外心配はしてなかったよ。だってほら、イツキちゃんも一週間大学来てないから、一緒に旅行でも行ったんだろうってさ。ひどいよねー、それが本当だったらわたしだけハブられてるじゃん」

「……イツキも、大学きてないんだ」

「うん」

「……なんでかしら」

「そりゃあナナミンが殺して埋めたからでしょ。死んだ人間は生き返らないからね」

 それもそうだ。

 私が何も言えずにいると、佐山ユカはカバンからエプロンを取り出していた。見やれば、ホコリまみれのテーブルには買い物袋と思しきものが置いてある。

「最近何も食べてないんでしょ? なにか作るよ」

 私の意見も聞かずに、佐山ユカはキッチンを勝手に占領し、料理を始めた。


「どうしたの、冷めちゃうよ?」

 佐山ユカが調理したのは、ハンバーグだった。彩り豊かな副菜とともに、油がきらりと輝くデミグラスソースをまとった暖かなそれが湯気を放っている。

 この部屋で唯一色彩があるように見えるそれを前に、私は動かない。

「好きでしょ、ハンバーグ。いっつも学食で食べてたじゃん」

 ……なんで私がアンタの作ったものを食べなきゃいけないの。

 そんなふうに言うのも億劫で、私は空腹に素直にフォークを伸ばす。

「どう、美味しい?」

「……普通」

 嘘だ。味すら感じない。消しゴムを噛んでるような気持ちだ。

 それでも体は栄養を求めているみたいで、フォークは止まらない。

「そっか、なら良かった」

 佐山ユカはそのまま私がハンバーグを平らげるまで、無言でニヤニヤとこちらを見つめていて――

「――ああそれ、イツキちゃんの肉だよ」

「げほっ」

 私はその言葉にむせ返った。

「普通山の中に死体なんか埋めたらすぐに野犬が掘り起こしちゃうからね。それにいくら冬だからってこれだけ放置したら死体は腐っちゃうし、臭いで誰かが気づくかも」

「ごほっ、ごほっ」

 私がむせているのを尻目に、佐山ユカは語り続ける。

「だからさ、死体なんか埋めたって手間に対して結果は報われないんだよね。ナナミンも捕まりたくなさそうだし、何よりイツキちゃんのことが大好きみたいだったから。だからこうやって死体を――」

「おえ、おえええええええっ」

 一週間ぶりの嘔吐。この女と会う度に、私は嘔吐してる気がする。

「大丈夫?」

「大丈夫なわけ、ないでしょう!?」

 こちらの顔を覗き込む佐山ユカを睨み返す。そのまま立ち上がると同時に胸ぐらを掴むと、あの女は言った。

「大丈夫だよ、それ普通の合い挽き肉だから」

「……は?」

「ちょっとからかったらこの過剰反応。超ウケるよね。わたしのこと、何だと思ってるのかな?」

「……化け物」

「そっか、化け物かぁ」

 やはりこの女はあのとき殺すべきだったと、そう思う。

「人殺しに化け物扱いされても困るなあ。なんか元気なさそうだから、ちょっとした冗談を言ってあげただけなのに。ああ、そういえばずっと気になってたんだけど――」

 佐山ユカは続ける。

「――人を殺すって、どんな感じなのかな?」

「やっぱりナナミンみたいな人でなしには気持ちいいわけ?」

「今もさっきのハンバーグがイツキちゃんじゃなくて本当はがっかりしてたり?」

「ねえ、聞いてる?」

「……帰りなさい」

 私はなぜかこみ上げてくる涙をこらえて、呟く。

 けれどもそれは室外機の唸りに掻き消されて。

「――帰りなさいっ!」

 私は、再び佐山ユカの胸ぐらを掴み叫んだ。

「おー、怖い怖い。すぐに暴力に訴えるの、よしたほうがいいよ、ナナミン。そんなんだから人殺しになっちゃうんだよ?」

「……二人目の犠牲者になりたくないなら、さっさと帰りなさい」

「うん、そうするよ。でも良かった。ナナミンが元気になったみたいで」

 私が手を離すと、佐山ユカは軽やかな足取りでステップを踏む。

 そして振り返り際に、私に言った。

「ちゃんと大学には来たほうがいいよ。人を殺しても人生は続くんだから、そんなふうにふさぎ込んでてもどうにもならないしさ。そうだな、殺したイツキちゃんのぶんまで――ああ、もう、そんな怖い顔しないでよ」

 手を振って、そのまま玄関に消えていく後ろ姿に、ほっと胸をなでおろす。

 ……ああ、やっといなくなった。

 そう思ったのも束の間、あの女は顔をにゅっとこちらに出して、

「そういえばナナミン、ノーメイクでも結構可愛いね?」

 余計な一言を添えてから、今度こそ消えた。

 ……一体、あの女は何がしたかったのか。

 テーブルに放置されている、丸みがかっているが整った字が踊るノートを見遣る。

 あの女の言葉はたしかに正しくて、ここでいくら引きこもっていても、現状は何も変わらない。……悔しいけれど、それだけは本当だ。

 私は自分の吐瀉物を処理しながら、決めた。

 ……明日から、ちゃんと学校に行こう。


 あと一つ試験をこなせば、春休みになる。

 私は何とか試験期間をこなし、最後の試験のために大学へ向かっていた。

 道行く人々の声が私への嘲笑に聞こえようと、実は全てが水面下で進んでいて、警察は私が尻尾を出すのを待っているだけなのではないかという疑念が日に日に強くなっていこうと、私は日常へ埋没しようとする。

「――殺人事件がさ」

「ひっ」

 思わず振り返ると、後ろを歩いていた二人組が怪訝そうな顔でこちらを見て、そのまま早足で私を追い越していく。

 ……おそらく、テレビや小説の話でもしていたのだろう。私の自意識過剰だ。気を抜けば周囲のすべてが敵に見えてくる、あまりにひどい精神状態。

 それでも日常が私をギリギリのところで正気の淵にいさせてくれてる。

 テキストに目を通してる間は、この事を考えずに済む。

 勉強している間だけは、普通の大学生でいられる。

「――やあ、ナナミン。奇遇だね」

 そして、……認めたくないが、佐山ユカが話しかけてくるときだけは。

「奇遇もなにもないでしょ」

 この女はふざけたことに私のとっている講義すべてに顔を出しているのだから。

「今日のテスト自信ある? もし落としちゃったら来年一緒に受けられる講義減っちゃうよね。がんばらなきゃ」

「そういえば、春休みの予定って何か決まってる? 一緒に旅行なんか行けたらいいかなって思ってるんだけど」

「ほら見て、この宿安いんだ。金沢なんだけど、女子割が効いてさ、このグレードでこのお値段」

 まるで普通の大学生みたいに、佐山ユカが語る。

 同じ講義はおろか、旅行など間違いなく論外であるが、しかしこの女は放っておけば何をしでかすかも分からない。だからといってすぐに頷けるはずもなく、私は女の声を意識的に無意味な雑音として締め出す。

 佐山ユカは人語によく似た何かを操る化け物であり、決して人ではない。人でない言葉を無意味に解釈したところで、体力を消費するだけだ。

 私は今更にそんな事に気づき、この女を日常の単なる一風景として――

「――ところでさ、イツキちゃん、どこに行ったんだろうね」

「ひっ」

 だけれど、雑音はあっという間に言葉に巻き戻る。

「ねえ、ちゃんと聞いてた? どこに旅行いくかって話してたんだけど」

「……そ、そうね。イツキのこと、心配よね」

「金沢もいいけどさ、京都とかもよくない? いっそ北海道とかさ」

「もういなくなってから二週間は過ぎたもんね。いくら大学生だっていっても心配よね」

「わたし、カニは好きなんだけど味噌は無理なんだよねー。なんかグロくない?」

「だけどイツキだし、きっとしれっと戻ってくるよ。あのイツキに限って、もしもなんてこと――」

 あれ、なんでこんな話しているんだろう?

 気がつけば私たちは校門近くにまで差し掛かっていて、

「お願いします。私の娘を知りませんか」

 私の足取りは、そこで完全に止まった。

「どうしたの、ナナミン?」

 見やればそこには、葛西イツキの親類たちが立っていて、彼女の目撃情報を募るチラシを配っていた。

 チラシのイツキは満面の笑顔で、彼女の家族はとても悲痛な表情をしていて――私の全身が、ガタガタと震えて来るのを感じる。そのまま立っていられなくて、平衡感覚を失った体はゼリーみたいな地面に膝をつく。

 それと同時に、あの感触が、とっくに忘れ去ったと信じていたあれが手の平に蘇った。

「……嫌だ、嫌だ」

「ナナミン? 大丈夫? 体調悪い?」

 佐山ユカが、あの女が、私の肩を抱き、耳元で白々しく囁く。

「……私は、私はやってない」

 そうして気がつけば私は立ち上がり、踵を返していた。

「おえええええええっ」

 手近なコンビニのトイレに駆け込んで、そのまま嘔吐しようとする。

 けれども便座の蓋を開こうとした手は滑り、私のそれは蓋にどぼどぼと落ちた。

 それでも嘔吐は止められずに、汚らわしいそれがトイレを汚していく。

「あー、もう。すごいことになってるよ」

 吐くものも吐いてそのままえずいている背中に、あの女の声が聞こえてくる。……そうか、ドアを閉め忘れたのか。

「あれっぽっちのことでこんなになってたら、これから持たないよ」

 そのまま佐山ユカはトイレの鍵を締めて、何の躊躇いもなくトイレットペーパーを手に私の吐瀉物を処理し始めた。

「……うあ」

「ナナミン、ゲロするの好きだよね。癖になってんの?」

 テキパキと処理されていくそれを尻目に、私は動くことが出来ない。

「はい、終わり」

 そのまま手を洗うと、私を壁際まで追い詰め、右手をついて、囁きかけた。

「――ねえ、今まで、一度も考えたことなかったの?」

 今にも触れてしまいそうな距離、ひどく長いまつげから、冷たい瞳が私を射抜く。

「……何、を」

「イツキちゃんの親御さんが、あんなふうに辛い気持ちになっていること」

 再び吐きそうになるのを、必死でこらえる。

「駄目だよ、吐いちゃ? そうやってつらい気持ちも一緒に吐き出そうとしてるんだか、それともそうやって辛い思いをして自罰してるんだか知らないけれど、そんなことしたってなーんの足しにもならない」

 嫌だ、なんで私が、こんな目に。

「悲しそうな顔してたねえ、イツキちゃんのお母さん。そりゃそうだよねえ。家族が行方不明になったんだもん。一人暮らしだったらもうちょっと時間を稼げたかもだけど。……きっと、警察にも届けが出てるね」

「……嫌」

「何が? 警察に捕まることが? あの人たちを悲しませてることが? それとも、両方?」

 紛れもなく、両方だった。

 だけど、このふたつの思いは、ひどく矛盾していて。

「ねえ、ナナミン? ナナミンはどうしたいのかな?」

「……どう、したい?」

「罪を償いたいのか、それともこのまま逃げ続けたいのか」

 答えは、とっくに出ていた。

 ただ言わないだけで、それでも示されている。

 本当に償いたいなら、今ごろ私は、ここにいない。

「そうだよね。ナナミンは、逃げ切りたいと思ってるよね? そうじゃなかったら、こんな恥知らずな真似するはずがないもん」

 少し前の私なら、この女がいなければ、この女が死体を埋めるなんて言い出さなければ、きっと私は自首していたし、そもそもこんな目に遭ってなどいなかった――そんなふうに、怒り狂っただろう。

 だけど今の私には、何も言えることはなくて。

「いいもの見せてあげようか?」

 佐山ユカが、懐からスマートフォンを取り出す。

「ちょうど出かける直前に流れた速報なんだけどさ――」

 液晶には、ニュースの映像が――意図的に見るのをやめていたそれが流れていて。

『――S県M市の山中にて、女性の遺体が発見されました。S県警の発表によると、遺体の年齢は10代後半から30代と推定されており――』

 そこで私の意識は、断絶した。


「――違うの、私じゃないの、悪いのは私じゃなくて!」

 いつもより少し柔らかいベッドから跳ね起きる。

 そのまま私を出迎えるのは見覚えのない天井だったけれど、それに気づく余裕もなく私はただ喚いていた。

「私は誰も傷つけたくなんかなくて、佐山が、あの女が余計なことをしなかったらこんなことには絶対なってなくて――」

「……」

 そこで私は、私を見つめる冷たい視線に気づいた。

 小さなテーブルに横付けされた座椅子に座り、こちらを見る佐山ユカ。

 見やれば天井だけではない、ありとあらゆる調度品に見覚えがなかった。外はすっかり日が落ちていて、私が数時間をこの部屋で過ごしていたことを示している。

「やっと起きたんだ。いきなり気絶するからびっくりしたよ。そんなにショックだったのかな?」

 趣味の悪いぬいぐるみを背にして、佐山ユカがにこりと微笑んだ。

 状況にあまりにそぐわないそれに、背筋がゾクリとする。

「……なんであんたは、そんなに落ち着いてるのよ。もうおしまいなのよ、私たち。あっという間に遺体の身元が割れて、私たちは警察に捕まるの。警察が調べれば、私たちの不審な行動なんて簡単にバレるに決まってるわ。あんたは単なる死体遺棄かも知れないけれど、私は殺人犯。もう人生終わりよ、何もかも終わりだわ」

 言葉を紡ぐほどに、先程の震えが帰ってくる。

 ここ数日、あえて思考の隅に追いやってたそれが、私の頭の中を占領していく。

「ううん、大丈夫だよ」

 だけれど、佐山ユカは笑顔を崩さずに、私を抱きしめた。

「……だってほら、犯人はもう捕まってるもの」

「え?」

 スマホを取り出し、先程のニュースの続報を見せる。

『S県警は、報道を見て出頭してきたM市在住の無職・高山宗則(29)を死体遺棄の容疑で捜査しており――』

「ここは確かにS県だけど、わたしたちは隣の県にイツキちゃんを埋めたんだよ、忘れた?」

 ……忘れたも何も、私が運転したわけではない。

「これはたまたま近所で起きた死体遺棄事件。わたしたちが起こしたものじゃない」

 私は思わず、安堵でへたり込んだ。

「まあでも、それはそれとしてさっき匿名で通報しといたんだけどね」

「……は?」

 幻聴だろうか。

「安心して? ちゃんと公衆電話から、イツキちゃんの死体が埋まってる場所を教えただけだからさ。いたずらだと思われてなければいいんだけど」

 こいつの言ってることが、ひとかけらも理解できない。

「もちろん、遺体の身元は教えておいたけど、犯人は伏せてあるよ。仲川七海が葛西イツキを殺したのは“まだ”わたしとナナミンだけの秘密だよ」

 私とこいつの使っている言語が同一だとしたら、その意味はおそらく――

「おーい、聞いてる? どうせ見つかるならなるべく早いほうがいいだろって思ったんだけど――」

「――殺すっ!」

 わたしを殺してと、そういう意味なのだろう。

 かつての再現。

 私は佐山ユカに馬乗りになり、その首を絞めていた。

 細く華奢な白い首に、思い切り力を込める。

 佐山ユカの顔が、普段は涼しげにニヤついているあの顔が、徐々に苦悶に染まり、紫色になっていく。美しい顔が、無残に歪んでいく。

 ばたばたと暴れているが、私を振り払うにはあまりに力不足だ。

 私を手の平の上で弄んでいたはずのあの女の命が、今は私の手の平の上にある。

 どうして最初から、こうしてしまわなかったのだろう? こんなにかんたんなことだったのに――

「……ナナミン」

 しかしそれでも、佐山ユカは、微笑む。

 まるですべてを受け止める聖女のように。

「気に入らないっ、あんたのそういうところが、一番!」

 そうだ、ずっと気に入らなかったのだ。

 どうして私ばかり、追い詰められなければならないのだ。

 この女だって間違いなく、私と共犯者なのに。

 死体を遺棄しただけじゃない、それを提案し、道具まで提供しておいて、どうしてそこまで涼しい顔をし続けられるのか。

 なのにどうして、私ばかり。

 私ばかり苦しんで、この女は普通に過ごしているのだ。

 涙がボロボロと、佐山ユカの顔にかかる。

 相変わらず、微笑み続けている、真っ青な顔に。

 お前が何もかも悪いのに。お前が私の気持ちを弄ばなければ、絶対にこんなことにはならなかったのに。

「……殺す、ころす、ころす」

 だけど、どうしよう、どうしようもなく手が震えていた。

 そのまま、徐々に力が抜けていく。

 脳裏に、イツキの死に顔が、蘇る。

「……そんなこと、出来ないくせに」

「う、あ」

 気がつけば、手が離れていた。

 そのままゲホゲホと咽る佐山ユカを尻目に、へなへなと床に腰を落とす。

 私は、何をしているのだろう。

 呆然と、先程まで命を奪おうとしていた手の平を見つめる。

「……ナナミンは人殺しなんか出来ないって、知ってたよ。あのときだって、わたしの首を絞めたけれど、全然力が入ってなかった。包丁で襲いかかって来たときだって、そう。殺意なんか、無かったよね?」

 私の殺意は、少なくともあのときは、本当だったはずだ。

 そうやって何もかも分かったようにしてるところが、本当に気に入らない。

「だからさ、ナナミンはとっても優しい子だって、わたしは知ってるよ?」

 いいながら、テレビのリモコンをつける。

 そのままチャンネルを変えて、夜の報道番組で止まる。

 そこでは、S県M市在住の女子大生――葛西イツキの遺体が、隣県の山中で見つかったという報道が行われていた。

 ……ああそうか、何もかも、おしまいなのか。

 すべて、私が悪いのだろう。

 私の殺意が半端だったから、最初に首を絞めた時に佐山ユカを殺せなかった。

 私の殺意が半端だったから、佐山ユカをいっしょに山に埋められなかった。

 私の殺意が半端だったから、こうして罪が露見している。

 私の殺意が半端だったから、今もなお佐山ユカは息をしている。

「……ねえ、佐山、私はどうすればいいと思う?」

 あなたを殺せない私は、どうすればいいのか。

 それでもあなたを許せない私は、どうすればいいのか。

 私が自首できないのは、この女が、私より重い罪に問われることが無いからだ。

 だけど私には、この女を断じることさえ出来なくて。

「自分で決めなよ、そんなこと」

 そうだ、私はいつも、この女に選択を委ねてきた。

 イツキに告白するのを決めたのだって、イツキを埋めるのを決めたのだって、大学に行くのを決めたのだって、何もかも、佐山ユカに操られていたからだ。

 ……私が自分で決めたことは、この女を殺そうとしたことだけで、それは今もなお、成されていない。

(そうだ、私の殺意は、殺意だけは、本当だ)

 たとえ今は半端で何事も成せなくても、この殺意だけは。

「……私、あなたを殺したい。あなたを殺して、イツキの仇を、私の仇を、取りたい」

「出来ないくせに?」

「うん、今は出来ない。今はあなたを殺せない。でも、いつか殺す。絶対に」

 私は、佐山ユカに手を伸ばす。

「――だから、いっしょに来て。あなたを私が殺せるまで、いっしょに」

「そんな日が来るとは思えないけど」

「私たちが捕まるのと、私があなたを殺すまで、どちらが早いか」

「いいよ、勝負だね。もし殺せなかったら、わたしはあなたに脅されていたって言うけど」

 私の手を取り、佐山ユカは首の痣を撫でる。

「いいわよ、死人に口なし。あなたには私を脅して逃避行に付き合わせたことになってもらうから」

 だから私も、その手をしっかり握り返して、宣言する。

 腕にまだ残る、あの生々しい感触を我慢して、震えそうになるのを必死で抑えながら。

「じゃあどこ行く? わたしカニ食べたいな」

「好きにしていいわよ。今から警察に通報したっていい。私があなたを殺せるくらい憎しみを抱けるなら、何をしたっていいわ」

「えー、流石にそれはフェアじゃなくない? せっかくナナミンと旅行に行けるのに」

「旅行じゃないから。逃避行だから」

「じゃあさ、じゃあさ。カップルって設定で行こうか。で、貸切温泉付きの宿行こう」

「……いいわね、それ。想像するだけで殺したくなるもの」

「それでさ、手つないだり、キスとか、いっぱいしよ? 他にも、あんなことや、こんなことを……」

「もう殺していいかしら?」

「どうせ出来ないし、今は準備のほうが先決でしょ?」

 佐山ユカが荷物の整理を始める。

 私はその無防備な後頭部に向かって目覚まし時計を振りかぶろうとしたけれど、

「ん? どうしたの? ナナミンも用意しに行ったほうがいいよ?」

 私たちの逃避行、最初の一撃は不発に終わった。

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大嫌いな女と、大好きだった女の死体を埋める いかずち木の実 @223ikazuchikonomi

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