推しを食む

いかずち木の実

推しを食む

 天音沙耶には、推しがいた。

 それは星野鞠花というアイドルであり、沙耶は古臭い表現でいえば追っかけであり、月並みにいえば大ファンだった。

 その程度といえば鞠花の髪型をそのまま真似るなんて序の口で、彼女がインスタにあげたファッションを真似するどころか、化粧品やシャンプー・リンスを特定して同じものを使い、さらには彼女が出演する番組をもれなくチェックし、そこで好きだと言った漫画から食べ物までの諸物をもれなく摂取した。

 しかしいくら真似をしたところで沙耶は鞠花に全く似ても似つかなかったし、150㎝と小柄な鞠花のために誂えたファッションは、身長175㎝の沙耶にはやはり無理があった。

 それでも、沙耶は満足だった。

 推しと同じ格好をして、推しと同じものを摂取して、ほんの少しでも推しに近づけた気になれたら、それで満足だった。

 だから鞠花が芸能活動を休止すると聞いた時、沙耶は本気の本気で落ち込み、一週間ほど人間として活動の休止を余儀なくされた。

 それでも沙耶が生きていけたのはあくまでそれが“活動休止”だったから。引退ではなかったから。

 それから一年後、星野鞠花はついに活動を再開し、天音沙耶は一年ぶりのライブに情緒をぐちゃぐちゃに破壊された。

 そうして地元開催のライブの帰り道、彼女と出会ったのである。

「落としましたよ?」

 目の前を歩いていた、黒いキャスケット帽を被った女性に声をかける。本来彼女はこんなに社交的な質ではない。それでもこんな行為に出たのは、そのハンカチが推しのグッズであったのと、推しのライブの後で妙にテンションが上がっていたからだろう。

「あ、ありがとうございます」

 そうしてハンカチを受け取った彼女は、星野鞠花にそっくりだった。


 星野鞠花は、可愛い。

 アイドルなんだから可愛くて当然なのだけど、星野鞠花はその中でもとびきりだ。推し補正抜きにしたって、初めてテレビで見たときから可愛かったんだから、それはもう可愛いオブ可愛いに決まっている――天音沙耶は、そう考えていた。

 それこそ今は珍しい(というかほぼ絶滅した)グループではなく個人のアイドルであり、それでいて武道館を満員にしたという実績からも、そのビジュアルには太鼓判を押せるだろう。

 初めて参加したサイン会であの大きな瞳に見つめられたとき、沙耶は過呼吸になってしまった。顔だって脳が入るのかってくらいに小さいし、スタイルだって華奢で小柄なのに腰の位置が沙耶と大差ないように見えた。……それは気のせいだろうが。

「……あえ?」

 あらゆる意味でアニメから抜け出して来たような唯一無二の容貌を誇るはずの星野鞠花そっくりな彼女に、沙耶は思わず言葉を失った。

 眼鏡越しに彼女の大きな瞳が困惑を帯びて沙耶を見つめている。そして沙耶は、こんな言葉を続けていた。

「もしかして、まりポンの双子の妹さんですか?」

 最近はあまり言わなくなったが、彼女は活動初期に言っていた。自分にはそっくりな双子の妹がいると。

「……ぷっ」

 大真面目な顔で問いかけた沙耶に、彼女は思わず吹き出していた。

 そしてそのまま、心底おかしそうに腹を抱えて笑った。

「あはははっ、双子って、双子って、それマジで言ってるの!? はひひひひひっ、ひひっ」

 これが、鞠花とは程遠い、アイドルにあるまじき奇矯な笑い声を放つ彼女――月島カナと天音沙耶の出会いであり、すべての始まりだった。


「よく似てるって言われるのは本当で、あんまりに言われるもんだから曲を聴いてみたらファンになっちゃったんだ。……あ、この眼鏡は、一応目立たないようにって掛けといた伊達なんだけど」

 カナと沙耶は、近くの喫茶店でお茶をすることになった。

 何度も言うが、沙耶は決して社交的ではない。それでもこんな事になったのはライブ終わりの興奮と、何よりも鞠花そっくりな外見がゆえだった。

 カナは自分を近所の大学に通う学生だと自己紹介し、鞠花の曲がいかに音楽理論的に優れたものかを語ったが、そういった素養が皆無の沙耶にはちんぷんかんぷんだった。それでも鞠花によく似た顔で楽しげに語るのを見ているだけで眼福だったから、とりあえずうんうんと頷いておく。

(……ああでも、たしかに双子ってほどは似てないな。可愛いけど)

 それこそアイドルグループのセンターでもおかしくはない。あるいはテレビでそっくりさんと紹介されるくらい。

「でも双子の妹なんているんだね、知らなかった」

 しかしカナが音楽理論の話を止めて、そんなことをのたまうと、沙耶はやっと自分が語れることが来たと言わんばかりに鞠花の妹について話をした。

 かなり前にラジオなどで語られただけの、ちょっとググったくらいじゃ知り得ないエピソード。

 はっきりいえばマウントを取るのに最適な話であり、沙耶はろくでなしのクソオタクだったので、こういう話をするのが大好きだった。

「へえ、全然知らなかった。ウィキペディアにも書いてないし」

「へ?」

 手元のスマホを見て語る彼女に、思わず怪訝な声が出た。

 見てみると、ウィキには双子の妹についての記載がなかった。……個々のエピソードならばまだしも、“いる”という事実さえも、である。

「……おかしいな」

 昔仔細に書きすぎて怒られたことがあるのだが、その時は書いてあったはずだ。編集合戦で消すような事柄にも思えない。

 しかしそんな疑問は、カナの次の言葉で吹き飛んだ。

「最近好きになったばっかりだから、ここに書いてある以上の情報はないんだ。もっと教えてよ」

 オタクのマウントに辟易するどころか目を輝かせてそんな事を言うものだから、沙耶は早口に語った。

 そしてそれは気がつけば単なる“ここすき”語りになり、呼応するようにカナも“ここすき”を語るのだった。

 こうして二人は意気投合し、地元が近いこともあって頻繁に会うようになった。


 月島カナは、深く知れば知るほど見てくれ以外は鞠花とは真逆の女だと分かった。

 例えば、食性。

「……え、カナちゃんってお肉食べられないの」

「うん」

 カラオケにて。沙耶は信じられないものを見る目で、サラダを小さな口に運ぶカナを見やった。

「体質ってやつなのかな。肉を食べると気持ち悪くなっちゃうんだ。……あの、そういう目で見るのやめてくれない?」

「いやいや、違うの。別に肉が食べられないなんて、人生の九割損してるとかそういう安っぽいことが言いたいわけじゃなくて」

 それもまごうことなき感想のひとつなのだが、問題はそこではない。

「ただ、カナちゃんはまりポンとは違うんだなって」

 なんて言いながら、沙耶はハンバーグを口に運んだ。

 ……とても、美味しい。溢れ出る肉汁が、幸せな気持ちにさせてくれる。まりポンの次に好きなものを挙げろと言われたら、きっと肉が出てくる。

 これで気持ち悪くなるとか意味不明だ。最初にこの情報だけ渡されていたら、絶対友達になんてなれなかっただろう。

「そういえば、まりポンはお肉が大好きだったね」

 それこそが、沙耶と鞠花を繋ぐ、数少ない類似点であった。

 鞠花は大の肉好きを公言しており、あの細い体のどこに入るのか、かつてはバラエティの大食い企画で肉料理を山ほど食べていた。

 沙耶はそれを知って余計に肉が好きになり、そうして食べていくうちに身長が5㎝ほど伸びていたのである。

「あれでも、復帰してからは大食いやってないね」

「あんまり無理しないようにしてるんじゃないの?」

「病気だったんだっけ」

 活動休止の理由は明らかになっていない。しかし復帰してから半年が経って、そういった企画に参加していないことから、ファンの間では公然の事実となっていた。

「本当によかったよ、ちゃんと帰ってきてくれて」

 沙耶はしみじみと呟く。カナもそれに、心底同意するように首肯した。

「……ていうかさ、そんなに似てるかな、私とまりポン」

「うん」

 迷いなく頷き、そのまま続ける。

「なんか声も似てるよね。やっぱり骨格が似てるからかな。……そういえば、ここに来てから私ばっか歌ってるね、ごめん」

 そう言って沙耶は傍らのマイクを渡す。

「いや、いいよ、私は――」

「音楽にも詳しいみたいだし、私聴いてみたい」

「いや、いいって」

「大丈夫だって、流石にまりポンほど上手いのは期待してないから」

 そうして聴いた彼女の歌は、星野鞠花のデビューシングルは、かなり音痴だった。

 これもまた、鞠花とカナの相違点のひとつだった。

「……その、えっと、あの、楽器は出来る、から」


 そしてさらに、相違点を知る。

 それは偶然、カナの通う大学の近くを所用で通ったときのことだった。

 沙耶は道端に設置された喫煙所で、タバコをふかすカナを見てしまった。

 カナは二十歳を過ぎていたし、そもそも喫煙所で吸っているわけだから、何ら問題などないはずだ。

 しかしそれでも。

 ベンチに腰掛け、心底うまそうに有害物質を垂れ流す、推しそっくりの女。

 そんな光景は、沙耶にとってショッキングな絵面となった。とりわけ嫌煙家である沙耶にとっては。

 そして、かつて取り合わなかった噂のひとつを思い出す。

 それは他人のゴシップで飯を食っておきながら無駄に高級ヅラしている雑誌に載った与太記事で、ちょうど鞠花が活動を休止していたときのものだった。

「カナちゃん」

 気がつけば、ベンチに座るカナに向かって歩き出していた。煙たいのも気にせずに、つかつかと。

「あ、沙耶ちゃ――」

「――人前で煙草吸うの、やめて」

 その記事は、鞠花の喫煙を報道したもので。

 当時すでに鞠花は成人しており、活動休止中だったことも相まって大した話題にならなかった。しかし、それでも。

(煙草なんて、まりポンが吸うはずがないよ)

「まりポンが誤解されたら、困る」

 かつて報道されたのはきっと、カナなのだろう。沙耶は確信して、そう言った。


「ねえカナちゃん。カナちゃんの服って地味だよね」

 ある日のこと、沙耶は自分の見てくれを棚に上げて、そんな事を言った。

 これもまた、鞠花とカナの相違点。カナの服は理系大学生のごとく地味であり、基本的に暗めの色のパーカーとジーンズだった。化粧も薄いが、そちらは素材の良さで補って余りある。

「せっかく可愛いんだからさ、ちゃんとお洒落しなきゃ」

 その一言から二人はショッピングモールを回り、沙耶はカナに服を見繕った。

「可愛い、可愛いよ、カナちゃん!」

 試着室から出たカナを前に、興奮した様子で言う。

 バシバシと壁を叩くその姿は推しに遭遇したオタクそのものだった。

「ねえ、写真撮っていい、写真!」

「……いいけど」

「ありがとっ」

 パシャパシャとスマホを振りかざす沙耶に、どこか不満げなカナが問う。

「……ねえ、この服ってさ――」

「――うん、鞠花ちゃんのコーデを真似たんだよ! やっぱり似合うね!」

 その瞳には悪気などなく、ただそこには、推しそっくりな女をよりそっくりに改造して喜ぶオタクがいた。

「安心して、私が買うからさ!」


 どこか不機嫌そうに紙袋を両手に提げているカナと、ニヤニヤしながらスマホを見ている沙耶。そんな二人が、ショッピングモールの通路を歩いている。

「あ、そうだ」

 唐突に、沙耶が口を開いた。

「カラオケ、行かない?」

「嫌だよ。私下手くそなの知ってるでしょ」

 即答するカナに、しかし沙耶が続ける。

「大丈夫、上手くなる方法調べてきたから。カナちゃんは楽器は得意なんでしょ? じゃあリズム感はあるってことだし、すぐ上手くなるよ」

 その言葉に、カナが苦々しげに顔を歪めるが、沙耶は気づかず続ける。

「ああそれとさ、禁煙パッチ買ってきたよ。やっぱり健康に悪いと思うしさ。きっと煙草吸うと繊細な味もわからなくなって――」

「――沙耶ちゃん!」

 気がつけば、カナは叫んでいた。そのまま、紙袋を床に叩きつる。

 周囲の視線が、一瞬彼女に集中した。

「……服も、歌も、煙草も、私は頼んでない」

 そして、静かな声で、床に散乱した洋服を見つめながら続ける。

「それも、余計なお世話なんて可愛いもんじゃないよね。私のためなんかじゃない。……沙耶ちゃんは、ただ、お手軽なまりポンの代わりが欲しいだけ」

「……カナちゃん」

「そうだよ、私はカナだよ。月島カナなんだ。星野鞠花じゃない。服もダサいし歌も下手だし煙草も吸うし肉だって食べられない。何より、あんなにキラキラしてないんだよ!」

 そうだ、結局のところ月島カナも星野鞠花のいちファンであり、一番のわだかまりはそこにあった。カナは沙耶を睨めつけて続ける。

「私なんかで代わりができるなんて思うだけで、沙耶ちゃんはファン失格だよ。上辺しか見てない、一番薄っぺらいファンだ」

「……代わりに出来るなんて、思ってないよ」

 その言葉に、沙耶は静かに、しかし重々しく反駁した。

「私だって分かってるんだ。カナちゃんはカナちゃんで、まりポンなんかじゃないって。でもさ、ムカつくんだよ。だってズルいよ、カナちゃんは」

「……ズルい?」

「カナちゃんはいいよね。そんなにまりポンそっくりでさ。私だって分かってるんだ。この格好が、まりポンの真似が痛々しくて似合ってないことくらい。でも、あの子に少しでも近づけるんだから、それで良かった。……良かったはずだったのに」

 涙さえ浮かべながら、彼女はカナを糾弾する。

「私がカナちゃんだったら、自分に似合う可愛い服を着るし煙草なんか吸わないし歌だって上手くなるように頑張るし肉だって食べられるように頑張るのに。……なのに、カナちゃんは、変だよ。そんな見た目で、まりポンが好きで、なのに、なんで?」

 それは、単純な嫉妬だった。

 沙耶はカナの才能――そう呼ぶにはあまりにも狭い領域ではあるが――に嫉妬し、それを活かそうとしないことに怒っている。

「私は、カナちゃんになりたいよ。カナちゃんになって、まりポンそっくりに振る舞いたいよ」

 ひどく屈折した思いは、嫌な気迫を伴い、カナを射抜く。

「……なんで、沙耶ちゃんはそんなに、そんなにまりポンみたいになりたいの」

 みたいに、だ。

 沙耶は鞠花を過度に神格化し、それそのものになろうとは考えていない。

 神になろうなどとは微塵も考えていないが、新たな預言者になることを夢見る熱心な信徒のごとく。

「女の子はみんな憧れるに決まってるでしょ?」

 ただそれだけ言って、沙耶はどうしてカナはそんなに容姿に優れているのに鞠花の真似しようとしないのか、理解不能だと再三呟く。

「ねえ、今からでもさ、一緒にまりポンみたいになろうよ、ね? 私の髪型をやってくれた美容院も紹介するからさ」

 そうして甘えた声で詰め寄る沙耶に、カナは冷たく切り捨てるように言った。

「――いいよ、私はそういうの」

 自他の境界線がひどく曖昧なカナの友人は、最後の最後まで理解できなかった。

 物事の楽しみ方は別にひとつではないという、ごく当たり前のことが。

 そうしてふたりは音信不通になったが、一ヶ月後、思わぬ形で再会することになる。

 ……いいや、再会と呼んでいいのだろうか。

 なんにせよ一方的に、沙耶はカナに出会うことになった。


 それは、単なるサイン会だった。

 星野鞠花のニューシングルにサインを書いてもらい、握手する。

 沙耶はそれに参加するためにいくつものニューシングルを購入し、念願かなってそれに当選した。

 そこまでは良かったのだ。

 だけど、事件はそのサイン会で起きた。

 少なくとも、沙耶にだけは。

 サイン会に並ぶ列の中で、急に列の進みが遅くなるのを沙耶は感じた。そのまま、前列の方で何やらざわめきが起きているのを感じる。

 沙耶はこんなときだけは自分の身長に感謝しつつ、前列でなにが起きているのかつま先立ちで確かめ、そして絶句した。

「すごい、そっくり!」

 そこでは、チェキ会ではないにも関わらず、星野鞠花とファンがツーショットを撮っていた。……ファン相手には誰であろうと平等に接する鞠花らしくない行動だ。

 しかし、相手が相手だからか、周りの人間も表立って文句を言うどころか、色めきだってその様子を見入る。

 その理由は誰にとっても明白であり、他ならぬ沙耶にもわかりきったことだった。

 すなわちそこには、月島カナがいたのだ。

 鞠花そっくりなあの女が、鞠花と同じ髪型をして、あの日沙耶がプレゼントした格好で、鞠花に特別扱いされている。

「……う」

 気がつけば沙耶は膝をつき、顔面蒼白に口元を抑えていた。

「大丈夫ですか?」

 周りの人間の声もどこか遠くに聞こえていて、地面がぐるぐると回っている。

 それでも沙耶は何とか立ち上がり、そして昼に食べたオシャレなサンドイッチを便器に戻した。

 何度も何度も、吐くものがなくなり、胃液しか無くなってもなお、吐き続けた。

 そうして気分が幾分マシになっていた頃にはサイン会は終わっていて、星野鞠花のインスタには、鞠花そっくりな女と鞠花のツーショットがアップされていた。


 満員の観客を前に、可愛らしいフリフリの衣装で、爽やかな汗の滴を飛ばして踊り歌う少女たちが居る。

 二人はよく似た風体だが、しかし双子ではなく、明確な他人だと沙耶には判別出来た。

 片方は、言うまでもなく星野鞠花であり、まばゆいばかりの笑顔で客席に、そして隣の少女に微笑んでいる。

 ……そうしてもうひとりは、紛れもなく沙耶だった。

 沙耶はそれを客席ではなく、もっと近い場所から見ているが、しかしてそれが自分自身だと確信できた。

 体だって華奢で小さいし、目つきだってとても優しげで、それは沙耶には似ても似つかなかったが、それでも確信している。

 しかし、次の瞬間。

 鞠花の隣りにいるのは、沙耶ではなく、カナになっていた。

 カナが、鞠花と手を繋ぎ一瞬見つめ合う。そして再び客席を見やった。

 沙耶は、客席の有象無象として、それを見た。


「――!?」

 夢だった。沙耶は毛布を派手に蹴飛ばしてベッドから飛び起きる。嫌な汗が全身を覆っている。

 鞠花と一緒に満席のステージで歌って踊る、似ても似つかない自分――そういう夢を沙耶はずっと見てきたが、その夢に変化があった。

 あのサイン会で鞠花とカナがツーショットを撮ったのを契機として、沙耶は悪夢ばかり見るようになった。

 ここ一ヶ月、沙耶にしてはありえないことにオタ活が全く出来ておらず、まるで死んだような生活をしている。

 自分でも馬鹿馬鹿しいとは思う。……けれども、鞠花のことを思うとまるで喘息のように胸が苦しくなってしまうのだ。

 部屋にあふれるグッズだって処分こそしなかったが、全て見えないところに追いやってしまった。テレビや街角で彼女の歌を聞くと、思わず耳を塞いでしまう。

 沙耶は自分の気持ちが、自分でわからない。

 沙耶はカナにどうしてしてほしかったのか、今はもうわからない。

 カナは沙耶の要望を受け入れただけにも見えたし、それで沙耶がこんな陰鬱な感情に追い詰められるのは、理屈にあっていない気がする。

 しかし感情は理屈では割り切れず、沙耶はただただ憂鬱であった。

 結局のところ、これも嫉妬なのだろう。

 有り余る才能を持て余す相手に怒る人間は、相手が言われたとおりに才能を使ったところで怒るに決まっている。

 だって嫉妬しているんだから、相手が何をしたところで、また別種の嫉妬を覚えるに決まっている。

 そんな彼女は、スマホに現れた通知に意識を世界へ戻した。

 今はすっかり見ていないインスタに、DMが来ている。

 ……そこには捨てアカウントと思しきデフォルトアイコンがあり、それは月島カナを名乗っていた。


『明日の夕方六時に、初めて会ったときの喫茶店がある雑居ビルの裏手で会いましょう』

 それ以外何も書いてないメッセージにしたがって、沙耶はその雑居ビルに向かう。

 今更カナと会ってどうするのだろうか、沙耶は自分でもわからなかったが、しかしそれでも、そうする他無かった。

 果たして自分はカナを怒鳴りつけるのか、それともみっともなく前言を撤回して鞠花の真似をやめてくれと懇願するのか、自分でもわからない。

 そうして沙耶は、件の場所にたどり着いた。

 それは七階建ての、このあたりにしては大きな、しかしひどく老朽化が進み寂れた雑居ビルの裏手。従業員専用と注意書きされた駐車場に面し、おそらく従業員用の出入り口が目の前にはあった。

 ……しかしそこには、カナの姿はおろか、誰の姿も見当たらなかった。寂れているだけあって、車だって数えるほどだ。

 ただ夕焼けと、それが伸ばす沙耶の長い長い影があるだけだった。

 しかしそこに、新しい影がふたつやってくる。

「――!?」

 それは屋上から駐車場のアスファルトまで落下してきて、柘榴のごとく朱く爆ぜた。

 それから数秒の間を置いて、沙耶は遅れて理解する。

「……嘘、でしょ」

 目の前で、投身自殺が行われたのだと。

「……まりポン?」

 しかも目の前の肉塊が、自分が人生をかけて追いかけてきた推しであり、

「……カナちゃん?」

 それと手を繋ぎ倒れ伏しているのが、あの月島カナであると。

 沙耶は、遅れて理解した。


 言葉が出なかった。

 あまりの展開に、頭が追いつかない。ただ膝を付き、無力に見下ろす。

 ただ呆然と、アスファルトを夕焼けより真っ赤に汚し、あちこちが不自然に曲がってしまった、それでも面貌を確かめる事はできる推しと、かつての友人を見下ろす。

「……沙耶ちゃん」

 そんな沙耶を、今にも消え入りそうな、掠れる声が現実に引き戻した。

 こんな有様になってもわかる。こちらに震える手を伸ばし、ゆっくりとだが近づいてこようとしているのは、鞠花ではなく、カナだと。

 沙耶は、動けない。

 カナは、死にかけているにも関わらず血の影をまとわりつかせながら、目の前までやって来る。

 そして、膝をついた沙耶の耳元、口端を酷薄に歪め、囁いた。

「……いいでしょ。まりポンに、一緒に死んでって頼まれちゃった」

 それが、月島カナの最期の言葉だった。

「――カナぁああああああっ!!」

 沙耶は顔を夕焼けよりも真っ赤に――ふたりほどは赤くなく――させて、カナを押し倒し、その顔を幾度も殴りつけた。

 ぐちゃり、ぐちゃり、ぐちゃり。

 何度も何度も、鞠花そっくりな顔を、投身自殺をしたとは思えないほど奇跡的に綺麗な顔を、沙耶は殴りつけた。

 自分とカナの血肉が混ざり合い、手指から白いものが覗くくらいに。

 そうして気がつけば、カナの脈はなくなっている。

 果たしてはそれは、沙耶が殺したのか、ただ死体を殴っていたのか、そんなことは沙耶にはどうでも良かった。

「……まりポン?」

 そのまま、今更に鞠花の死体の方へ近づいていって、脈がないのを確かめると、ふたつの死体を呆然と眺めた。

「……どうして、私じゃなかったんだろう」

 そうしてはじめに出てくる言葉は、それだった。

 星野鞠花はどうして、私ではなく、月島カナを心中の相手に選んだんだろう。

 考えるまでもないことだ。

 それは、カナが鞠花にそっくりだったからに決まっている。

『私は、カナちゃんになりたいよ。カナちゃんになって、まりポンそっくりに振る舞いたいよ』

 いつぞやの言葉を思い出す。

 あの時よりも切実に、そうでありたかった。

 そうすればきっと、鞠花の心中相手に選んでもらえただろうから。

 最期を推しと共にするなんていう、最高の栄誉を手に入れられただろうから。

「……どうしたらよかったのかな、私」

 どうすれば、カナのようになれたのだろうか。沙耶はカナの死体を見つめた。

 その真っ赤な肉に、気がつけば沙耶はよだれを垂らしていた。

「ああ、そうか」

 沙耶は思い出す。自身と鞠花を繋ぐ、数少ない共通点を。

 そうだ、喰らえばよかったのだ。

 そうすれば、自分もカナそっくりになれたはず。

 沙耶はその屍肉に、沙耶の殴打と落下エネルギーによって柔らかくなった肉に、牙を突き立てた。

 自他の境界線がひどく曖昧な自分ならば、本当にカナになれるかもしれない――そんな淡い期待を込めて。

 

「鞠花さんには、双子の妹さんがいらっしゃったんですよ。姉妹仲はいたって良好だったんですが、妹さんが心を病んでしまって、自分で命を絶ってしまったんです。それはもう、鞠花さんはショックを受けて。これが一年に及ぶ活動休止の理由です。それでもファンの皆さんの応援もあって、ようやっと復帰できたわけですが。

 ……でも、あのそっくりさんが現れて全てが御破算になってしまった。おそらくは、ですがね。鞠花さんはカナさんを妹さんだと見立てて、一緒に死のうとしたんですよ、多分。屋上で灰皿が見つかったんでしょう? アレも、妹さんが生前吸ってたのを、鞠花さんが勝手に吸い始めたんですよ。

 お察しのとおりかもしれないんですけど、妹さんも、投身自殺してるんです。……しかも折の悪いことに、妹さんが飛び降りたのを直接見てしまったんですよ。それ以来、拒食症みたいになってしまって、そりゃガリガリに痩せ細ったんです。それが治った後でも、大好きだった肉は全く受け付けなくなってしまったくらいで――」


 後日警察は天音沙耶を死体損壊の容疑で逮捕し、被害者である月島カナのスマホからは、のべ3282枚に及ぶ天音沙耶の盗撮と思しき画像が発見された。

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