たとえ世界のすべてを敵に回しても、あなたの敵で居続ける。
いかずち木の実
たとえ世界のすべてを敵に回しても、あなたの敵で居続ける。
夕暮れに赤く染まる女子トイレ。
めったに人の寄り付かない、薄汚れた旧校舎のそれ。
わたしの目の前には、懐かしい顔があった。
わたしより頭一つ小さい背の、隈のひどい、不健康に肌の白い女。
『……ねえ、黒川』
女の名を呼びながら、その長い黒髪に触れる。厳密には、その髪を飾るそれに。
『これ、なに?』
髪飾り。雪の結晶のかたちをとった、見覚えがない銀色。
『……髪飾りだけど』
こちらをまっすぐ見つめながら、か細い声で黒川が答える。
『見りゃ分かるわよ』
言いながら、わたしは髪数本を犠牲にして髪飾りを奪い取った。
『なんでこんなものをあんたみたいな根暗が付けてるのかって、そう言ってんの。あんた現国とか苦手でしょ。わかる? 全然似合ってない。気持ち悪い。根暗が色気づいてんじゃないわよ』
似合わない髪飾りを汚らしいトイレの床に投げ捨てると、そのまま踏みつける。
何度も何度も、プラスチックと上履き、石材の床がぶつかり合う乱暴な音だけが、トイレに響いた。
『……』
だというのに、黒川は相も変わらず無表情で、粉々になった髪飾りを見つめているだけ。
涙を流すわけでもなければ、怯えるわけでも、怒りを示すわけでもない。
……つまらない女。
わたしは舌打ちしながら、黒川の髪を手に続けた。
『……それに何、この髪の匂い。黒川のくせに、なんでそんないい匂いさせてるの? いつもの安物のシャンプーじゃない。リンスも使ってる。それに香水の匂いもする。……気持ち悪い、気持ち悪い、気持ち悪い! 発情期なの!?』
叫びながら、わたしは頭を掴むようにして、その髪を頭皮ごと引っ張る。
その、腹立たしいことにやたら指通りの良い髪を。
『……人間はいつも発情期だよ。いつでも子供が作れるんだ。あなたも、わたしも』
やはり無表情で、こちらを見つめて。
立場をわきまえていない言葉の羅列に、わたしはその頭を勢いよく壁にぶつけることで答えた。薄汚れた壁に、真新しい赤が付着する。
『気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪いっ! 黒川のくせにっ!』
そのまま頭を離さずに、わたしは個室のドアを乱暴に開け放つと、
『――むぐっ』
そのまま便器にその顔を突っ込んだ。
『そのきったない水で洗ってあげるわよ! 綺麗なものもいい匂いも、あなたには似合わないんだから!』
『ぐううううっ』
やっと苦しそうな声を上げてもがく黒川。
顔が見れないのが残念だけど、それでも苦悶に歪む表情をありありと想像できる声音。
わたしはそれを開放してやるはずもなく、ひときわ力を込める。自身の手が汚れるのを気にもせずに。
『やめっ、助けっ――』
『いい!? あんたはね、黒川唯はね! 地味で根暗なチビガリで! オシャレとは無縁なの! もし髪を染めてきたら丸刈りにしてやるし、ネイルをしてきたら爪ごと剥がしてやる! わかった!? わかったなら返事なさい、そしたら離して――』
わたしの言葉は、最後まで続かなかった。
『――ごぼっ』
気がつけば、わたしは溺れていた。
(苦しっ、死ぬっ)
いくら足掻いても、頭を押さえる強い力にわたしの顔は浮上を拒まれる。
鼻を、口を、汚らしい水が塞ぐ。呼吸出来ない。
『このままじゃ死んじゃうじゃん、やめなよ~』
半笑いの声が遠く聞こえる。
『だいじょぶだいじょぶ、死なないって、多分』
『多分て』
『まあでもこいつ死んでも誰も悲しまないし』
『あははは! それもそうだ!』
まるでマックで雑談するようなトーン。
声は徐々に徐々に遠く離れていって。
(……殺す、殺してやる、絶対の、絶対に)
わたしが誓うのと同時、その意識は真っ暗闇に落ちた。
「――ッ!」
飛び起きる。
シーツを足蹴にして、勢いよく。
顔をぺたぺたと触るが、じっとりとした汗が張り付いているだけで、あの冷たく汚らわしい感触は影も形もなかった。
「……夢、か」
ただし、現実を元にした、だが。
「そうだ、夢なんだ、これから先は、夢でしかないんだよ」
未だに早鐘を打ち続ける心臓を鎮めるため、わたしは枕元に置いたそれを手繰り寄せる。
黒くてゴツゴツした感触、ずっしりと重たいそれ。
わたしはそれを抱きしめるようにして、目を瞑る。
それだけで、心臓の高鳴りは鎮まるのを通り越して、別種の高鳴りを宿していった。
そうだ、これがあれば。
わたしの胸の中に、全てを解決する力がある。
これでわたしの高校三年間は、肯定されうるものになる。
ああ、こんなにも学校が待ち遠しいのなんて、一体いつぶりだろう。子供の頃の遠足だって、こんなに胸を高鳴らせてくれなかった。
時刻は午前四時、いっそこのまま起き続けていようか。
いいや、それはダメだ。
寝不足でとちってしまえば、全て無駄になってしまうのだから。
「明日で全部が決まるんだから。……だからこれはまだお預け」
名残惜しいが、わたしは仕方無しにそれを胸から離す。
「おやすみ」
そのまま、その黒いボディにキスをすると、わたしは再び眠りに落ちた。
コルト・ガバメント。
約二万円のそれは、今まで試したどんな睡眠薬よりも効果てきめんであった。
『――先日のS県T市の銃乱射事件の続報です』
日本で銃規制が解かれたのは、一体いつだっただろうか。
確かわたしが子供だった頃のことだ。
大人たちが揉めに揉めていたことだけは、今でも覚えている。
まあそんな議論には大した意味がなくて、晴れて日本でも拳銃が買えるようになった。
何故かって?
わからない、理由とか経緯とか、そういうのは忘れてしまった。
きっと一般教養とか一般常識に属することで、わたしも政経の授業で習っている。それこそ、わざわざニュースで解説してくれないくらいに。
「へえ、こんな事あったんだ」
一人きりの食卓。
わたしは朝食のコロッケパンをかじりながら、思わずつぶやいた。
もしかして模倣犯扱いされちゃったりして?
……それは嫌だなあ。
これは誰かのマネじゃない、わたしだけの犯罪なのに。
「一週間前のことなのに、無駄に長い」
やたらセンセーショナルに、犯人宅にアニメのブルーレイがあっただの何だのと、クソどうでもいい事を延々と話している。くだらねえ。わたしも漫画とか処分してからしたほうがいいだろうか?
「でもなんで、今更気づいたんだろ」
少なくともこうして毎朝、ニュースがBGM代わりに流れているというのに。
きっとこれも、銃規制が解かれた理由を思い出せないのと同じだ。
ニュースも一般常識も余裕のある人のためのもので、わたしみたいな余裕のない、自分のことで精一杯の人間からはすっぽりと抜け落ちていく。
「ってことは、今のわたしには余裕があるってことかしら」
それこそ、ニュースに耳を傾けるくらいに。
このまま、余裕の表情でパンパンと行きたいものだ。
『速報です』
なんてことを考えていたら、アニメと犯罪を結びつけた雑な論評を遮って、新しいニュースが転がり込んできた。
『昨夜未明、A県M市にて女性三名が頭を銃のようなもので撃たれ死亡しているのが発見されました』
アナウンサーが他人事めいて、冷たく言葉を紡いでいく。
「……嘘、でしょ」
『発見されたのは、小宮栄子さん(17)、酒澤はるかさん(17)、古藤ここねさん(17)の三名。ともに市内のT高校に通う女子生徒で――』
その忌々しい名前とともに、顔写真が画面に映った。
同姓同名の別人などでは、決してない。
そう、それは、間違いなく、間違えようもなく。
「……何、先に殺されてんのよ」
わたしが殺す予定の三人であった。
黒川唯。
5月23日生まれ。O型。左利き。片親。
わたしが中学二年生から卒業するまでいじめていた女。
きっかけはよく覚えていない。
得てしていじめなど、加害者側はその理由を覚えていないものだ。
ただ、初めて意識したのは、学級通信か何かで誕生日を知ったときだったと覚えている。
『なんでこんな根暗の誕生日がわたしと同じなの』
何とも言えない、面白くない気持ち。
思えば、あの女との関わりは概ねそれで埋め尽くされていた。
殴っても、体操着を隠しても、机を落書きで埋め尽くしても、教科書を破り捨てても、上履きを虫の死骸で埋め尽くしても、援交してると噂を流しても、給食をチョークの粉まみれにしても、死んだ母親の悪口を言っても……とにかく何をしても、あの女はいつも無反応で。
そのたびにわたしは、自分の存在を否定されているような、心底見下されているような、面白くない気持ちになった。
その気持ちをかき消すために、さらなるいじめに走る。
……ああ、思い出したら苛々してきた。
高校三年生にもなって中学時代にいじめていた女に苛ついているのは、ちゃんとした理由がある。
あれは忘れもしない、高校生活一日目、すなわち入学式の日のことだ。
わたしが通うT高校は、県内でもトップクラスの偏差値を誇る、いわゆる自称じゃない進学校である。
今となっては愚かしいことだが、わたしはそこに入るために必死で勉強した。血のにじむような努力の末に、勝ち取った高校進学。きっと人生で一番がんばったのは、このときだろう。
……だというのに、だというのに、だ。
(なんで、あの女がいるのよ)
校門に張られた、新入生のクラスを示すプリント。
そこには、あの女の名前が。
それも、よりにもよって自分と同じクラスに。
心底苛々する。
どうして、わたしが必死こいて受かった高校にわざわざやってくる?
どうして、あの女はわたしをこんなにも苛つかせる?
『……そんなにわたしにいじめられたいの』
だったら望み通りにしてやろうじゃないか。
せっかくの晴れの日だというのに、わたしは苛立ちを隠しもせず新しい教室に向かった。
さあ、どうしてやろうか。
真新しい制服をぐちゃぐちゃに汚してやろうか。
有る事無い事噂を流してやろうか。
何にせよ、きっと退屈に事欠かない高校生活に――
『……ッ!』
教室のドアを乱雑に開くと、わたしは絶句した。
一瞬、誰かわからなかった。
窓際、後ろから二番目の席。
真新しいブレザーに身を包んだ、黒川唯。
腰まで伸ばしていた黒髪は、バッサリと肩口まで切られている。
不健康だったはずの白い肌は、健康的な肌ツヤを煌めかせている。
ひどかった目の隈は見る影もなく、意外なほどにパッチリとした瞳が露わになっている。
まるで別人。
しかし何よりも、一番別人めいていたのは。
(……何よ、その笑顔)
わたしにはそんな顔、一度も見せたことがないのに。
いっつもいつも、無表情しか見せたことがなかったのに。
知らない女子に、出会ったばかりの隣の席の女子に、黒川唯は笑顔を見せていた。
まばゆいばかりの、あの女の本性を知らなければ、きっと見とれてしまうだろう、そんな笑顔を。
(生意気に高校デビューなんかしちゃって。……ああくそ、苛々する)
わたしは舌打ちして、なるべく距離を取り顔を伏せながら、席順を確認するために黒板まで移動した。
『……うげ、最悪』
窓際、最後列。教室の隅の隅。
よりにもよって、あの女の後ろの席だった。
しかしその場で固まっていても何が変わるわけでもなく、わたしは重い足取りで指定された席まで移動する。
なるべく目を合わせないように、そっと存在を消すように。
一方の黒川唯といえば、そんなわたしに一瞥もくれず、ただ隣の女子と楽しそうに話を続けていた。
まるで、わたしがその場にいないみたいに。
(クソクソクソ、ムカつく、ムカつく)
なんでこんなにも腹が立つのか、苛々するのか。
もし一瞥でもされていたら、確実に睨み返していただろうに。
もし話しかけられたら、反射的に殴り倒していただろうに。
結局の所、何をされても苛立つくせに。
究極的には、黒川唯が呼吸をしているだけで苛立つくせに。
(楽しそうに話しやがって、黒川のくせに、黒川のくせに……!)
わたしはといえば、ただぽつんと机に佇むだけ。
隣の女子に話しかける勇気も余裕もない。
その耳朶を、聞いたこともない、高い黒川の声が刺激する。
不快だった。
不愉快極まりなかった。
どうしてこの女は、わたしを差し置いてそんなに楽しそうに、見ず知らずの女と話をしているんだ。
いくら耳をふさいでも、その声は手の甲を通り抜けていく。
いいやあるいは、詳細が聞こえなくても楽しそうな声音だけで。
『……』
いたたまれなくなったわたしが取った行動は、おおよそ最悪、少なくとも高校生活初日にやることではなくて。
ポケットからイヤフォンを取り出しノイズを遮ると、わたしは机に突っ伏した。
……ああ、思えば、これが全ての原因だったのかも知れない。
この地獄の高校生活の。
最悪な第一印象。
意図せずに話しかけるなオーラを放ってしまったわたしには、当然ながら友達ができなかった。
いいやあるいは、それから挽回しようと思えばいくらでも出来ただろう。
でもしなかった。
する気にならなかった。
(……だって、そんなふうに群れるなんて、あの女みたいで気持ち悪い)
そう、黒川唯は友達いっぱいだった。
常に周りに誰かがいて、楽しそうに話をしている。
そんなものを、傍から見てしまったら。
(わたしはあの女と違う。あの女が気味の悪い媚びた笑顔で高校デビューするなら、わたしは自分を貫いてやる)
そうやって、わたしはひとり孤独に過ごした。
そうして、最初の定期テスト。
高校の勉強はやはり中学と違って難しかったけれど、わたしは必死になって勉強した。
浮かれきった黒川唯を、成績で圧倒してやると。
あんたなんかまぐれでこの高校に受かっただけで、本来的に落ちこぼれなのだと教えてやるために。
だというのに、だというのに、だ。
『……平均点』
よりもちょい下であった。
どの教科もぱっとせず、得意科目でさえ平均より五点上くらい。
(……落ち着きなさい。みんな頭いいんだから、それくらいでも落ち込むことは――)
『すごーい、黒川さん全部百点じゃん!』
その声に、わたしはそのままトイレに駆け込んだ。
『おえええええええっ』
最悪だった。
最悪すぎた。
絵に描いたような最悪だった。
それからもわたしの成績は徐々に徐々に下がっていって、あの女の成績はいつもいつも上位者として廊下に張り出されていた。
一位を取るのも珍しくなく、悪くても五位か六位。
それだけじゃない、あの女は絵画コンクールで佳作を受賞したり、体育祭ではリレーの選手に抜擢されて見事クラスを優勝に導いたりと、活躍に枚挙に暇がなかった。
……わたしの一年間は、言うまでもない。
なにはともあれ、わたしはスクールカースト最上位たるあの女に背を向け、地獄の一年目をどうにかやり過ごした。
二年生、成績でクラスは割り振られ、あの女は言うまでもなく最上位クラスであるA組になった。
そしてわたしは、いわゆる落ちこぼれの集まりであるF組に。
それでも、良かったと思う。
ようやっと、あの女と別のクラスになれたのだから。
あの女が生徒会長になるのを間近で見ていたら、きっとわたしは発狂していただろう。
非公式ながらファンクラブまで作られ、徹底的にちやほやされるあの女を見ていたら、きっとわたしは発狂していただろう。
あの女に今の自分を見られていたら、それだけで、きっとわたしは発狂していただろう。
(……ああそうだ、だから二年生は決して最悪ではない。最悪一歩手前でしかない)
たとえいじめが始まった学年であったとしても。
そうだ、いじめ。
わたしは二年生になって、クラスの落ちこぼれ共にいじめられるようになった。
人のことは言えないが、知ったことじゃない。
先程わたしはいじめなんて加害者側は理由をよく覚えていないと言ったが、被害者側は、いじめられっ子はちゃんときっかけを記憶している。
たしかあれは、わたしが一人で飯を食べられる場所を探していたときのことだ。
偶然、本当に偶然だった。
偶然、わたしは校舎裏でタバコをふかしているクラスメイト三人に出会って、挙句の果てにこちらが気づいたことに気づかれた。
『……チクるなよ? 誰だっけ、お前同じクラスだったよな? もしチクったらその時はどうなるか、分かるよな?』
メンチを切られた。
古臭い表現だが、とにかく睨みつけられたので、適当に頷いておいた。
名も知らぬクラスメイトが好き好んで肺を汚染していても、何も関係ない。
『おいてめえ、チクっただろ』
だというのに、よりにもよってその翌日、連中はなぜか生徒指導室行きになっていた。
当たり前だ、あれだけ堂々とタバコをふかしていたら、ヤニの臭いを撒き散らしていたら、いやでもバレるだろう。
けれども彼女たちは短絡的にも、全てをわたしのせいにした。
それからだ。いじめが始まったのは。
多分、わたしがクラスの女子で唯一髪を染めていなくて、きっと彼女たちには真面目でつまんないやつだと思われていたのも原因だったのだろうけど。
でもわたしは周りに迎合して見た目を変えるなんて、あの女みたいな真似は断固としてしたくなかった。
その結果が、これである。
『……最悪』
トイレをしていたら、ホースで水をぶっかけられた。
わざわざ旧校舎まで来ておいてこれとか、どんだけしつこいのか。
以前これをされたときは、ご丁寧にジャージまで隠されていた。
まだまだ授業は残っていて、出席日数は危うい。
だからといって保健室に借りに行くと、そこでまた最悪な目に遭わされるだろう。
『本当に大丈夫? 何か辛いことがあったりしない?』
どこまでも同情的な目でこちらを見る、あの忌々しい保健医だ。
(わたしをそんな目で見るな、そんな可愛そうなものを見るみたいな目で!)
さっさと旧校舎に隠してある、予備のジャージを取りに行かねばならない。
隠すのは面倒だけど、それでもあの哀れみの目を向けられるよりは遥かにマシだ。
次の授業は女子にはいつも甘い先生だから、時間をかけても大丈夫。
こんなことばかり上手くなっていくわたしが、わたしが――
『……最悪っ!』
惨めだった。
あまりにも惨めだった。
怒りのままにトイレの壁を力いっぱい殴りつける。
血に染まる壁が、滲んで見えた。
トイレの個室にホースで水攻め。
かつて自分がしたことを、そっくりそのままされている。
それも、あんな頭の悪い女どもに。
しかも、あの女は何をされても無表情だったのに、わたしはいつもいつも涙を流して。
わたしは弱くて、惨めで、情けなくて。
『……こんなことをされるべきなのは、あの女みたいな、黒川唯みたいな根暗でつまんないやつで、わたしじゃないはずなのに』
そうして、わたしの高校二年生はいじめとともに過ぎ去り、そして三年目。
高校三年生。
『――ごぼっ』
(苦しっ、死ぬっ)
いくら足掻いても、頭を押さえる強い力にわたしの顔は浮上を拒まれる。
鼻を、口を、汚らしい水が塞ぐ。呼吸出来ない。
『このままじゃ死んじゃうじゃん、やめなよ~』
『だいじょぶだいじょぶ、死なないって、多分』
『多分て』
『まあでもこいつ死んでも誰も悲しまないし』
『あははは! それもそうだ!』
やっぱりわたしはいじめられていた。
やっぱり学力的に同じクラスになった、例の三人組に。
人気の少ない旧校舎、便器に顔を押し付けられて。
いつか、あの女にしたように。
『おい起きろ! そのままお前が死んだら困るんだよ!』
断絶した意識を、鋭いビンタが覚醒させる。
間近に、出来損ないのプリンみたいな髪型の女の顔があった。
汚い、化粧臭い顔。
こんなものが県内でトップクラスの高校に通ってるなんて、誰も信じないだろう。
わたしも信じたくない。
『よかった、生きてる』
『あ、そうだもし死んでも大丈夫なように遺書書いとけよ遺書』
『遺書、遺書って』
ゲラゲラ、下品な笑いがトイレを満たし、わたしのぜえぜえという喘ぎをかき消した。
……不愉快な笑い声。
入学初日に聞いた、あの女の笑い声に勝るとも劣らない、不快な声だ。
『……それは、あんたたちの遺書を?』
なんて言えるはずもなく、ただわたしは身を縮こませて、連中が飽きていなくなるのを待った。
『……殺してやる』
夕焼けに染まる旧校舎の女子トイレ。
ぽつんと取り残されたわたしは小さくつぶやいて、それをスイッチに感情の渦が腹の底からこみ上げ――
『――ッ!?』
ピロリン。
涙と絶叫がこみ上げるのを、間抜けな電子音が遮った。
スマホを見てみると、ラインの通知が一通。
友達のいないわたしにそんなものを寄越すのは、企業の公式アカウントくらいなもので。
『お誕生日おめでとうございます! お得なクーポンがあります!』
そんな文字列が、騒がしい絵文字とともに踊っていた。
『……そういえば、誕生日だったわね』
厳密には明日だが、気の早いことにクーポンはすでに使えるようだった。
コンビニのおにぎり類が50%オフ。
随分とケチくさい誕生日プレゼントだった。
『……十八歳、か』
十八歳で買えるようになるもの。
えっちな本。
えっちなゲーム。
えっちな道具。
拳銃。
『……そっか、拳銃が買えるんだ』
日本国民は、十八歳を迎えれば拳銃を所持する権利を手に入れる。
だからわたしは翌日、土曜日。
近所のガンショップに向かった。
連中が二十歳になる前にタバコを吸うならば、わたしは法を遵守して十八の誕生日に銃を買ってやる。
それでやることは法を遵守していなくても、ささやかな意地を張って。
『……て、うわ』
そして、よりにもよって、わたしは出会ってしまった。
ショーケースに飾られた拳銃たちを熱心に見つめる、あの女に。
わたしと同じく今日が誕生日の、あの女に。
『……黒川唯』
すなわち、黒川唯に。
ごく普通の一軒家だった。
小さくも大きくもない、没個性的な一軒家。
「ごめんくださーい」
わたしはやはり没個性的なインターホンを押し、没個性的な挨拶をした。
その裏側に隠された、ぐちゃぐちゃな感情の坩堝を隠しながら。
「どなたですか?」
すると、少し待って中年男性がドアから現れた。
身なりの良い、背の高い、少し痩けた印象のある白髪の男。
……黒川唯の父親だ。
そう、すなわちここはあの女のハウスで。
午前十時、生徒三人が殺害され、学校は休校だった。
「唯さんの友達の小日向です。ちょっと、直接お話したいことがあって」
不審がられないように、必死で笑顔を取り繕って、吐き気のする戯言を抜かす。
「唯? ……ああ、娘なら今――」
「――どうしたの、お父さん?」
男の背後に、あの女が現れた。
一昨日ぶりに見るその姿はどこまでも自然体で。
とても、三人を殺めた殺人犯には見えなかった。
「……で、私に何の用かな? 一応生徒は自宅で自習ってことになってるけど」
ベッドに腰掛けて、本当に心当たりが無いかのように黒川が言う。
黒川唯の自室は、驚くほど簡素だった。
必要最低限以外なにもない、シンプル極まりない部屋。
スクールカースト最上位らしさは皆無だが、しかしわたしがいじめていた頃には似つかわしい、そんな部屋。
ただ、年代物らしき化粧台だけが、その最低限の機能性のなか、ひどく浮いていた。
「……あなたがやったんでしょ?」
「何のこと?」
本当ならば今すぐ殴り飛ばして大声で恫喝したいが、父親がいる手間出来るはずもなく。
わたしはその衝動を押し殺して、静かな声で訊ねた。
「あの三人、あなたが殺したのよね」
「なんで私がそんなこと――」
「――いいから、早く白状しなさい」
言葉とともに、わたしは懐から拳銃を取り出し、黒川に突きつけた。
「あなたが殺したのよね? 小宮栄子、酒澤はるか、古藤ここね。この三人を」
そうだ、そうじゃなければ説明がつかない。
わたしは昨日、ガンショップで黒川と交わした会話を思い出す。
『久しぶりだね、小日向さん』
よりにもよって、話しかけてきたのはあの女の方から。
とっとと後ろを通り抜けようとしたが、ショーケースに反射した姿を捉えられて。
『……なんであんたがこんなとこにいるのよ』
そしてわたしも、何を血迷ったのか言葉を返していた。
あるいはその後姿が、中学生の時そっくりだったからか。
『なんでって、銃を買うためだけど。小日向さんもそうでしょ?』
馴れ馴れしい口調。
中学時代、こんなふうに話しかけられたことなんて一度もない。
『みんな安いね。四万、三万、これなんて二万円そこらで買える。どれも命をかんたんに奪えるのに』
ショーケースに陳列された拳銃に注ぐのは、いつもの薄っぺらい笑顔とはまた違う、虚ろな笑顔。
『……あんたはそれを買ってどうするの』
『秘密。でも、中学時代にこれが買えたら、どうしてたかな?』
なんて言いながら、ショーケース越しに黒川がわたしを見つめる。
『え』
『冗談だよ冗談』
なんて言いながらいたずらっぽく笑う黒川に、わたしは、わたしは――
(……ふざけんじゃないわよ)
とてつもない苛立ちを覚えていた。
この女は、わたしのいじめを、わたしにいじめられていた過去を、ジョークに流した。
わたしにとって、それは今と地続きの、切っても切り離せない過去なのに。
この女は、きらきらした高校生活で過去を乗り越え、決別したのだ。
まるで、中学時代から時が止まってしまったわたしを嘲笑するかのように。
今すぐにでも、その気に入らない笑顔をショーケースに思いっきりぶつけてやりたい。
けれども、それをここでやってしまえば傷害罪で。
何よりきっと、またあの無表情がやってきそうで。
『それで、なんで小日向さんは銃なんて買うの?』
『……わたしはさ、わたしはね――』
気がつけば、代わりに言葉を紡いでいた。
『わたし、いじめられてるんだ』
よりにもよって、本当ならば絶対言いたくない言葉を。
『二年生の頃からずっと、クラスの連中にさ』
それは、覚悟。
『机に油性マジックで落書きされたり、教科書ビリビリに破かれたり、トイレの個室で水責されたり、便器に顔をつっこまされたり、他にも色々と。それはもう、ひどい目に遭わされてるのよ』
親にも教師にも言わないできた、絶対に知られたくない、屈辱的な現実。
それをよりにもよって、一番知られたくない相手に、あの女に、黒川唯に。
顔が熱い。
声が震えている。
屈辱で涙がこぼれそうになるのを、必死で我慢する。
『笑えるでしょ? まるであんたにしたことが、そのまま帰ってきたみたい』
そう、これが覚悟。
よりにもよって、あの女にいじめられていることを知られるという屈辱。
ある意味では、この一年味わってきたどんないじめよりも辛いそれ。
もはや退くことは絶対にできないという、背水の陣。
『……小宮、酒澤、古藤。くだらない、ゴミみたいな連中にいじめられてるの。まるでわたしが、連中よりさらに格下だとでも言うみたいにさ』
つまりそれは、
『これが、わたしが銃を買いに来た理由』
この三人を絶対に殺してやるという、絶対的な覚悟の宣言であった。
わたしはあいつらを殺して、黒川唯のように過去から決別してやる。
そしてその覚悟は全て、無になった。
目の前で、未だに惚けている黒川唯のせいで。
「……タイミング的に、そうじゃなきゃおかしい。あの三人のうちひとりとか、あるいは大勢の中にあの三人がいるならまだしも、あの三人だけが狙い撃ちにされるなんて――」
「――あなたか私じゃないとおかしい、って? でも、私には三人を殺す動機どころか面識もないよ?」
「……わたしがあの三人にいじめられていたことなんて少し調べればすぐ分かる。前日に拳銃を買ったことも。だから、きっとわたしはすぐに容疑者になるわ。……あなたはわたしに無実の罪を着せるためだけに、わたしの復讐の機会を奪って、罪だけをかぶせるために、あの三人を殺した、そうでしょっ!」
我慢に我慢を重ねていた堪忍袋の緒が、ついに切れる。
わたしは黒川をベッドに押し倒すと、その額に直接銃を突きつけた。
「これがあなたの復讐!? わたしの覚悟を台無しにして、復讐の機会さえ奪って!」
あの三人を殺せるならば、何年でも牢屋に入って良かった。
けれども、こんなのは、こんなのはあまりにも。
「……違うよ」
「まだとぼけるつもりっ!」
「そうじゃなくて――」
あの女は、黒川唯は、わたしをまっすぐ見つめて、あの無表情で、中学時代に幾度ともなく見せた表情で言った。
「わたしが殺したのは、小日向さんのためだよ? だって、友達だもん」
「――ふざけるなあああああああっ!」
あたりもはばからず、わたしは絶叫する。
そのまま、拳銃の引き金を引こうとするが、
「どうしたの? 撃たないの?」
その指は震えるだけで動かなくて。
黒川に射すくめられたわたしは、そのまま固まって。
騒ぎを聞きつけた黒川の父が廊下をドタドタと駆ける音が聞こえても、動くことが出来なくて。
「大丈夫か、ゆ――」
勢いよくドアが開かれる一瞬前。
「うん、大丈夫だよ、お父さん」
黒川の右手がわたしの手を銃ごと掴むと、くるり、わたしは逆にベッドに押し倒されていた。
それだけじゃない、ご丁寧にも銃を握った手は毛布に隠されて、父親から見えないようにされている。
「ちょっと熱くなっちゃってね。だよね、小日向さん?」
「う、うん」
あの日、旧校舎のトイレで香った、忌々しい、良い香りが鼻孔をくすぐる。
間近にある、黒川の笑顔。
確かに笑顔だけど、しかしその瞳は。
あの頃の無表情と全く同じ、虚ろなものだった。
「ちょっと頭冷やしたほうがいいかな? お話はまた今度ってことで、大丈夫だよね?」
そう言って、あの女はわたしを押し倒したまま、折りたたまれたメモを手渡した。
『今夜、父親を殺します』
そんな物騒な書き出しで始まる、そんなメモを。
私、黒川唯の父は狂ってしまった。
きっかけはよくあること。
黒川優子が、母が事故死した。
だから狂った。
それは中学一年生のときのことで、そこから父はおかしくなっていった。
母親の生き写しとも言われる私は、父にこう呼ばれるようになった。
『優子』
最初はごくたまに、しかし徐々に頻度を増して。
それでも、まだ彼は正気を保っていたとは思う。
狂気は私の成長とともに、すなわち私が母さんに似ていくほどに成長していった。
そして中学二年生の誕生日。
私は髪飾りと香水とシャンプーとリンスをプレゼントされた。
全て母親が使っていたものを、しかし父は何も言わずに。
心底気持ち悪かった。
父の私を見る目は、娘を見る目ではなくて。
自分を、私が黒川唯であることを否定されているようで。
けれども、それを拒否してしまえば父親は今にも壊れてしまいそうで、その背中が、あまりにも哀れで。
だから私は、よりにもよって、一番救われてはいけない相手に救われてしまった。
『なんでこんなものをあんたみたいな根暗が付けてるのかって、そう言ってんの。あんた現国とか苦手でしょ。わかる? 全然似合ってない。気持ち悪い。根暗が色気づいてんじゃないわよ』
そう言って、あの子は私から私を奪おうとする髪飾りを踏み潰した。
『……それに何、この髪の匂い。黒川のくせに、なんでそんないい匂いさせてるの? いつもの安物のシャンプーじゃない。リンスも使ってる。それに香水の匂いもする。……気持ち悪い、気持ち悪い、気持ち悪い! 発情期なの!?』
そう言って、あの子は私から私を奪おうとするその香りを否定して、汚らわしい香りで上塗りした。
ただの仕打ちだ。
ただのいじめだ。
けれども、それでも、私にとっては救いであった。
『いい!? あんたはね、黒川唯はね! 地味で根暗なチビガリで! オシャレとは無縁なの! もし髪を染めてきたら丸刈りにしてやるし、ネイルをしてきたら爪ごと剥がしてやる! わかった!? わかったなら返事なさい、そしたら離してあげる!』
たとえ嫌悪に満ち満ちた瞳であろうとも、私を見てない、あの虚ろな瞳よりずっと。
あの頃、私を真正面から見てくれたのは、あの子しかいなかった。
そうだ、私は地味で根暗なチビガリで、母さんではない。
私は黒川優子ではなくて、黒川唯だ。
断言しよう、私はあの子に救われたのだと。
けれども、その蜜月は続かなくて。
私が中学校を卒業したあの日の夜、致命的なことがあって。
私は黒川優子になった。
髪はバッサリと切ったし、利き手だって左から右に矯正されたし、似合わない笑顔も、学業の優秀さも、全部が全部、母親の真似事として強制されたものだった。
私は母の生き写しとして、父のために生きている。
「……ほんと、そっくり」
自室、殺風景な、私だけの空間。
そこぽつんと佇む、母が使っていた化粧台。
その鏡に映るその顔は、絶望的なまでに母の若い頃に似ていて。
そこには自分なんてものは欠片もなくて、ただ他人のために消費される哀れな女が映っているだけだった。
「入るよ、優子」
ノックとともに、父が部屋に入ってくる。
もはや、二人きりのときはこの名でしか私は呼ばれない。
「……どうしたの、浩一さん」
そして私もまた、この名で呼ぶことを強制される。
ああ、気持ち悪い。
「午前中に来てた子、随分と激しく口論してたようだけど、一体何があったんだい?」
いいながら、馴れ馴れしく私の肩を抱いてくる。
いつものこと。
その目は黒川優子を見ていて。
かつての父が私をどういった目で見ていたか、今では思い出すことは出来ない。
きっと、私を見てないから、私の軽蔑の眼差しにだって気づかない。
ああ、本当に気持ち悪い。
「……別に、ちょっとした行き違いがあって――」
私の言葉を遮って、玄関のチャイムが鳴った。
午前中一度訪ねた、平凡な一軒家にわたしは再びやってきていた。
日は山の端に沈み、薄暗い玄関は灯りが自動で点灯している。
チャイムを鳴らすと、やはりあの男が現れた。
「……おや、また君か」
半開きのドア、不機嫌さを隠しもせずに、私を見下ろしている。
『今夜、父親を殺します』
きれいな文字で書かれた書き出しは、その後こう続いた。
「はい、唯さんに一度直接謝りたくて」
『あなたには未来があります。けれども、私にはない。すでに三人殺していますから』
「……それはまた明日、学校ですればいいだろう?」
『いいや、白状しましょう。本当は父を殺すのが先で、そのついでがあなたをいじめていた三人です』
「いえ、今すぐじゃないとダメなんです」
『三人を殺す前から私はもう、とっくの昔に取り返しのつかないところにいます。けれどもあなたには、私と違って未来があります』
「――だって」
『……だから、もう何者に縛られることなく、あなたは自由に生きてください。あなたの友人、黒川唯より』
「だって、早くしないと先に殺されちゃうじゃないですか」
わたしは後ろ手に隠していた拳銃を取り出した。
「――なっ」
いつわたしが助けてくれと頼んだ?
いつあの三人を殺してくれと頼んだ?
何を勝手に、わたしを救った気でいる?
何を勝手に、友達のつもりでいる?
あんたはわたしの復讐の機会を奪った、敵に過ぎない。
だから味わえ。
殺したいほど憎い相手を他人に殺される、その悔しさを。
何を犠牲にしても果たすべき復讐の機会を奪われる、そのやるせなさを。
(そうだ、これは復讐だ。復讐の機会を奪ったあの女への)
わたしの指が一片の躊躇いもなく引き金に触れようとして――
「ごげっ」
それより先、目の前の男は派手に吐血して、その汚らわしい血をわたしの顔に吹きかけながら、前のめりに倒れた。
「……な、な」
思わず後ずさりする。
そして私は見た。
「先は越させないよ? この人は私が殺すんだから」
全開になった玄関、血まみれのナイフを片手に佇む、黒川唯の姿を。
そこにたたえた表情は、満面の笑みで。
狂気に満ち満ちたそれは、けれども今まで私に見せたどの表情よりも艶めいて。
……綺麗だった。
「……うぐ」
「おおっと危ない」
虫の息だが、それでも生きている父親に、何度も何度もナイフを背中に突き立てる。
返り血を浴びながら、何度も何度も、確実に仕留めようと。
わたしはただ、それを呆然と見ているだけで。
そうして、ついに男は沈黙した。
「やっぱり銃って便利だね。安心確実だもん」
血まみれの彼女が、肩で息をしながら言う。
「そうだ、今からでも貸してくれない、それ? 確実に仕留めたいし」
いいながら伸ばしてくるその手を、わたしは振り払った。
「ふざけないでっ! なんでっ、なんでっ、なんであなたはいつもっ!」
そして叫ぶ。
「わたしの邪魔ばっかりするの!」
どう考えてもこの状況にそぐわないことを。
ああ、目の前で人ひとりが惨殺されていようとも、そんなことはどうでも良かった。
そのまま彼女の襟首を掴み、怒鳴り散らす。
「せっかくあなたの邪魔をするためにここまで来たのにっ! なんで、なんでっ! 殺すならさっさと殺しなさいよ! どうしてわたしの目の前で、こんなタイミングで殺す必要があるのっ!?」
「……それはね」
返り血で真っ赤に顔を染めながら、それでもなお笑顔で黒川は続けた。
「あなたのその顔が見たかったから」
「……なっ」
「あなたの悔しそうなその顔が、昔から大好きだから。だから、あなたにとって最悪で、私にとって最高のタイミングで殺したんだよ」
「何を言って」
「私がいつも無表情だった理由、分かる? それはね、私が無表情だと、それだけで悔しそうな顔をしてくれるから。あなた、笑った顔よりも落ち込んだ顔よりも何よりも、悔しそうな顔が一番、可愛いから。だから、いつも本当は笑いたいのに我慢してきたんだよ。あなたの可愛い可愛い悔し顔が見れるのに、ずっと我慢して」
早口で語るその表情は、今まで見たどの黒川唯よりも生き生きしていて。
「あなたが悔しがるところが見たくて、ずっと頑張ってきたんだよ? 苦手な人付き合いも、勉強も、運動も、何もかも頑張って。あなたに精いっぱい劣等感を与えて、悔しがらせるためだけに。ずっと見てたんだ。落ちこぼれたことも、友達がひとりもいないことも、いじめられてることも、知ってた。私に見せるよりずっと悔しがってくれて、最高だった!」
「……」
あまりの豹変ぶりに、思わず後ずさりする。
ぷるぷると、体が震えている。
表情筋を必死に操作して、無表情を意識する。
けれども、体は、心は、どうしようもなく悔しさに反応して。
「我慢しなくていいんだよ? ほら、私に見せて? さいっこうの悔し顔を! ほら、あの時みたいにさ、復讐を奪われたときみたいにさ!」
わたしの顔は屈辱に歪んだ。
「ああ、最高! 最高すぎるよ! 大好き! 愛してる!」
「……ふざけるな」
わたしは震える手で、拳銃を突きつける。
「ふふふっ、悔しくて悔しくて泣いちゃうそうだから殺してやるって? でもそんな震えた手じゃこの距離でも当たらないよ? そんなんじゃあの雌豚共も殺せなかったんじゃない? 私はかんたんに出来たのに! 私みたいな地味で根暗なチビガリでも!」
「黙れ!」
もはやわたしは屈辱を隠すこともなく、咆哮する。
悔しかった。
今までこの女に味わわされたどんな屈辱よりも、遥かに。
涙が出た。
この女にだけは見せまいとしていた涙が、ボロボロと。
一番見せたくない相手に、一番見せたくない醜態を晒していた。
「……殺す、殺してやるっ!」
けれどもそれは、覚悟である。
かつて見せたのと、同質の覚悟。
己の目的のために、あえて退路を断つ覚悟。
「残念。あなたがいくら度胸があっても――」
あの女は、いつも見せていた無表情になって、
「――私は私が殺すから」
その細い首にナイフを突き立てようとする。
(……させないっ!)
自殺など、断じてさせるものか。
ナイフが突き立てられるよりも早く、わたしは躊躇いなく引き金を引く。
銃声が鳴り響いた。
「……どうして、どうして邪魔するのっ」
その鉛弾は、いじめっ子を屠るために用意されたはずの鉛弾は、しかし玄関のコンクリートを抉るだけにとどまっていた。
けれどもそれで十分。一瞬でも怯んでさえくれれば。
わたしは今、黒川唯を組み敷いていた。
ナイフは遥か彼方に吹き飛び、わたしはその両手を掴み、馬乗りになっている。
「あなたは私が嫌いなんでしょ! 殺してやりたいくらい憎かったんでしょ! だったら、なんでっ!」
「……だからに決まってるじゃない」
わたしは、全力の笑顔で、そう答えた。
「わたしはあなたが嫌いだから、あなたの思い通りにさせない」
そうだ、まったくもってそのとおり。
「……わたしは考えたわ。わたしがあなただったら、どう行動するか。つまり、一番屈辱を与えられるか。答えは簡単。結局、あなたは三人組を殺したときと、父親を殺したときと、同じことをしようとしただけ」
つまり、殺したい相手を先に殺し、屈辱を与える。
たとえそれが、自分自身であったとしても。
だからわたしは、それを台無しにする。
たとえそれが、世界で一番気に食わない女を、黒川唯の命を救う結果になったとしても。
わたしは敵が嫌がることを、たとえどんなに損をしてもやってやる。
「どう、これがあなたに二度も――いいや、何度も何度も、味わわされた感覚よ。最悪よね?」
「……ッ」
「言わなくても分かるわ。ふふふ、でもわたしは最高の気分。だって――」
目の前に、甘美な表情があった。
無表情ではない。
取り繕われた笑顔でもない。
狂気をたたえた笑顔でもない。
そう、それこそが、わたしが求め続けたもの。
「あなたのその悔しそうな顔。やっと見れたんだもの」
……ああ、今わかった。わたしが見たかったのはこれだ。
中学時代、ずっといじめを続けたのは、この表情を見るため。
無表情なあの女の、悔しがる顔が、屈辱で歪む顔が、ずっと見たかったのだ。
そして今、わたしが切望していたものが、目の前にある。
「ああ、本当に最高よ。……あなた、今最高に可愛いわ」
「……笑ってるあなたは、最高に可愛くない」
「ふふふ、でしょうね」
言いながら、わたしはスマホを取り出した。
「……通報、するの?」
観念したような声音で、黒川はわたしを見上げる。
「ええ。殺人犯を野放しにはしてはおけないでしょう?」
110。
「あー、もしもし、警察ですか? ええ、はい。ええ――」
もしわたしが黒川唯だったら、何が一番嫌だろうか。
四人殺した。
自殺しようとしたら止められた。
警察を呼ばれた。
……さて、次にされたら一番嫌なことは何だろう。
きっとこのままでは、死にぞこないは惨めに牢屋の中で過ごすことになるのだろう。
自殺未遂はきっと、そこからの逃避でもある。
あるいは罪悪感からの自罰?
もしくはその二つがぐちゃぐちゃに織り混ざったもの?
何にせよ、だからきっとそれは。
「わたし、人を殺しちゃいました」
「――なっ」
世界で一番気に入らない相手に、またもや救われることだろう。
「女子高生を三人と、中年男性をひとり。だから逮捕してください」
黒川唯の表情が、先程以上の屈辱に歪んだ。
ポロポロと、涙を流している。
きっと今、保身と誇りを天秤にかけて、綯い交ぜの感情が襲っているのだろう。
その情けなさに、屈辱に、涙している。
……ああ、可愛い。最高だ。
だからわたしは勝ち誇った笑みで、宣言した。
「殺人犯を野放しにはしておけないでしょう?」
わたしは、たとえ世界のすべてを敵に回しても、あなたの敵で居続ける。
たとえ世界のすべてを敵に回しても、あなたの敵で居続ける。 いかずち木の実 @223ikazuchikonomi
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