泡沫のカーテン

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泡沫のカーテン

 初秋の風は、肌に触れるように柔らかに吹き抜ける。


 普段は騒がしい学校も、早朝ばかりは閑散としており、国道に近い為か時々クラクションや車のスキール音が響くばかりだった。


 彼女はいつも、其処にいた。

 煉瓦を並べたような簡素な花壇と、咲き誇る秋の花。鮮やかなガーベラと桃色の秋桜。その中で甘く匂い立つ金木犀の香り。彼女はジョウロを片手に、何かを慈しむかのように水遣りをする。


 教師に頼まれた訳ではないし、彼女に割り振られた役割でもない。けれど、彼女は毎朝、一つ一つの花々を優しく見詰めて幸せそうに微笑んでいる。


 私は、その横顔が好きだった。

 彼女に出会ったのは、高校の入学式だった。固いパイプ椅子に浅く腰掛け、退屈な校長先生の言葉を聞きながら、その目は何処か遠くを静かに見詰めている。


 通った鼻梁と、透けるような白い肌。

 真新しい制服を身に纏い、彼女は凛と背筋を伸ばしている。飾られた新入生を祝う会と称された横断幕と、力強い毛筆の文字。名前も知らない同級生達が、退屈そうに、欠伸を噛み殺しながら胡乱な目付きをしている中、彼女は何処か風前の灯火のように儚く前を見据えている。


 名前を聞いたのは、気紛れだった。

 これから新天地に挑む孤独感と不安を紛らわせたかっただけなのかも知れない。新入生を祝う会が終わった後、一言二言、彼女と話をした。


 中学校では、園芸部に所属していたこと。

 本が好きで、物語を読んでいると忙しない現実から離れることが出来ると語ったこと。友達なんて通り過ぎてゆく他人で、クラスメイトなんて満員電車に乗り合わせただけの見知らぬ人。友達なんて要らないと達観したように笑った彼女は、少し寂しげに見えた。


 学校は、社会の縮図だ。

 閉鎖的な人間関係、上部だけのお世辞。心にも無いことを口にする度に自分が醜く、歪んでゆくような空恐ろしさを覚えた。その中で、彼女だけが特別だった。


 子供は残酷な生き物だ。

 息苦しい程の打算と、歯の浮くような心にも無いお世辞。彼氏が出来ただの、流行りのブランドだの、ヒットチャートに乗るような恋愛ソングだの。そういうものに共感したフリをして行く中で、私達は理想と現実の違いを思い知る。そして、思春期特有の複雑な成長段階を経て、私達はきっと社会の歯車のように酷使されてゆく。


 将来への不安とか、行き場の無い憤りとか。

 思い通りにならない現実や、複雑に絡み合う他人との付き合い。私は時々、それが無価値で薄っぺらく感じられた。

 それでも、自分を貫き通せる程の勇気や覚悟は無くて、擦り減らされてゆく心が辛くて、時々、誰かに八つ当たりをする。


 彼女は、正にそれだった。

 群れに属さず、本ばかりを読み、他人に合わせることもない。クラスで文化祭の内容を決める為のホームルームでは、声の大きなインフルエンサーの言葉に流されて、予定調和のように内容が決まってゆく。


 異議を唱える者はいなかった。

 それは学校の生み出す残酷なヒエラルキーに逆らうことになるのだと、誰もが知っていた。話し合いと銘打っておきながら、他者の意見は受け入れられない。私には、それが酷く虚しくて、まるで水底から眺めているかのように感じられた。


 殆ど満場一致で意見が決まり掛けた時、まるで急ブレーキを掛けるかのように手が挙がった。空気が張り詰めるのが、分かった。指名された彼女は、図書館が作りたいと言った。


 学校にも当然、図書館はある。

 だが、彼女はクラスメイトの紡ぎ出す稚拙な作文や詩が読みたいと言った。彼女の意見は理路整然としていたにも関わらず、辺りから不協和音が聞こえ、まるで空気がひび割れてゆくかのようだった。


 私は、賛成してあげられなかった。

 自らの未熟な作品が展示されるという恥辱と、其処に浪費されるだろう時間。そして、何よりも、同調圧力という空気のような見えない掌に抗う勇気が無かったのだ。


 彼女の意見は、煙のように消えて行った。

 何事も無かったかのように進む話し合いの最中、私は窓辺の彼女を見遣った。彼女は透き通るような秋の蒼穹を眺め、ただ静かに佇んでいた。


 その日から、彼女は透明人間になった。

 直接的な暴力や陰湿な嫌がらせではなく、まるで一人だけ違う世界にいるみたいに誰からも知覚されなくなってしまった。話し掛ける者も、視界に入れる者もいない。


 そして、彼女は誰よりも早く登校し、下校するようになった。団子状に群れを作るクラスメイトの中、52ヘルツの鯨のように、ただ一人で図書を読み、花壇に水遣りをする。


 色鮮やかな秋の花が、万華鏡のように花壇を彩る。

 微かに漂う爽やかな甘い花の香り。橙黄色の小さな花が連なるように咲き誇る。透明人間になってしまった彼女は、今日もブリキのジョウロを片手に水遣りをしていた。


 私は、足を踏み出した。

 あの日の後悔を振り払うように、絞り出せなかった勇気を取り戻すつもりで、彼女の隣に立った。彼女はぼんやりと、深緑の葉に囲まれた金木犀を眺めていた。




「ごめんね」




 私が呟いた時、彼女が此方を見た。

 丸い瞳が鏡のように私を映し、そして、何かを許容するかのように眇められる。ふっくらとした唇が少しだけ弧を描き、そっと問い掛けた。




「どうして?」

「あの時、賛成してあげられなくて」




 こんな独り善がりの謝罪で許されようとは思わないけれど、せめて伝えたかった。私は敵じゃない、貴方は透明人間なんかじゃない、と。


 彼女は困ったように、儚く笑った。




「いいよ」




 その言葉を聞いた時、私が最初に感じたのは罪悪感だった。言わせてしまったのだと、自分の醜さに嫌悪が湧いた。

 彼女はジョウロを花壇の縁に置いて、晴れ晴れと笑った。




「私が知りたかっただけなの。皆の見ている景色や感じていることを、生身の言葉で知りたかっただけ」




 ただ、それだけだったから。

 そう言った時、彼女の瞳から何かが溢れたような気がした。それは光の屈折なのかも知れないし、私の目の錯覚なのかも知れなかった。


 あの時、私は訊くべきだった。

 否定されると分かっていても、例え誰から敵意を向けられたとしても、彼女の言葉の意味を問い、皆に投げ掛けるべきだった。


 それだけのことが、どうして出来なかったんだろう。

 自分が情けなくて、歯痒くて、悔しかった。彼女一人を透明人間にしてしまった自分の狡さに怒りすら覚えた。


 けれど、彼女は向かい風の中で背筋を伸ばすように笑っている。何も出来ずに許しを乞うた私にも、彼女は変わらず微笑んでくれる。


 堪え切れずに座り込むと、鼻の奥がつんと痛んで、涙が溢れた。乾いたアスファルトに丸い染みが出来て、白い朝日に消えてゆく。彼女の温かい掌が背中を撫でた。


 その手の感触に、息も出来ない程の息苦しさを覚えた。時間が止まって、辺りが無色透明に見える。彼女と一緒にいると、惨めな自分さえ許されているかのような万能感に包まれる。




「大丈夫だよ」




 そう言って、彼女が優しく私を労った。

 彼女の言葉ばかりが温かく、その姿だけが鮮明に映るのは何故なのか。その手を掴んで、抱き締めてあげたいと願うのは、どうしてなのか。


 私は、もうその答えを知っている。

 だけど、その一歩を踏み出すことは出来なかった。


 古めかしい予鈴の音が鳴り響く。私達は一緒に顔を上げて、腹の底から滲む可笑しさのまま、揃って笑った。足元には咲き終えた金木犀が雪のように降り積もる。ブリキのジョウロは置いたまま、私は彼女の手を引いて歩き出した。


 この空虚な世界を彩った美しい花々は、きっと彼女の脆い心を守ってくれていたのだと思った。秋が終われば、冬がやって来る。その時、あの金木犀の香りのように、彼女を守るカーテンになってあげたい。


 これが罪だと言うのならば、私は今度こそ闘うべきだ。

 教室の冷たい鉄の扉に触れた時、じわりと掌に汗が滲んだ。振り返ると固い顔をした彼女がいた。


 私は精一杯の笑顔を浮かべ、冷たい世界に爪を立てるつもりで、思い切り扉を開け放った。






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 金木犀きんもくせいの花言葉……気高い人、初恋

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