打つ。

七戸寧子 / 栗饅頭

本編

 終止符を打つという言葉の「打つ」というのはどこから来ているのだろうか。キーボードか、タイプライターか、ペン先を紙に落とす動作か、はたまた。少なくとも、今バッティングセンターで鳴り響いている「打つ」ではないだろう。今夜、この場以外においては。


 三つほど隣のバッターボックスから、また一つ痛快な音が響く。


「……聞いてる?」


 背後から声。聞いていたわけもなく、首を傾げる。後ろで束ねたロングの髪が揺れて頭皮を引っ張りやがった。


「もう閉店三十分前切ったぜ、なあ」


 背後のネットの奥で、彼が私にスマートフォンの画面を突き出す。通知一つないロック画面に浮くのは「3/16(水) 22:34」の文字。「にーにー、さん、しー」だなんてよくわかってる時計だ。ここまでが準備運動でこれからが本番なのだから。


 また一球飛んでくる。私は息をほんの少しだけ漏らす。脚の位置、腰の捻り方、バットの握り方、その他諸々、確認ヨシ。球が射出されてからそんなことができるはずもないのでまともに確認などしていないが、心情的にはヨシ。そして、バットは空を切る。後ろの方でネットがボールを受け止めた音が耳をかすめる。


「だから肘を畳めっての」


 気だるそうな彼の声。春夏秋冬変わらない甘い香りは、自販機のカフェラテに由来することを私は知っている。次の春からはこの香りも声も私の生活から消えてしまうわけだけれども。


「……そろそろ飯でもいかね?」


 もう少し待って。言葉を投げ捨て、構える。振る。ネットがボールの衝撃でたわむ。


「ゆっくり食いたいんだよね、今日くらいは」


 どんな顔をしながらそんな声を出しているのかは知らないが、もう少しこちらの気持ちを汲んでほしい。意地を張っているのは私だなんてわかっているけれど。


「もうちょっとだけでいいから」


「あーもう、いつもみたいにスパッと諦めてくれよ」


 いつもみたいに、か。いつもみたいに、ね。



◇◇◇



 思えばバッティングセンターに来るのが「いつも」になったのもそこそこ昔のことだ。最初はまだ一年生だった頃――当時十六歳で今は十八だと思うといろんな感情がないまぜになって泣きたくなってくるが――私たちがイイ感じの男女だった頃だ。


 彼の誘いで経験した初めての「デート」とかいうやつは思いの外気まずいもので、帰り道も二人肩を並べて縁石や側溝を眺めながら歩いていた。おそらく、このまま終わったのでは今後どうにもならないと思ったのだろう。彼はたまたまそこにあったバッティングセンターに寄ろうと言った。私たちの暮らすへんぴな土地で遊べる場所というのはたかが知れていて、カラオケボックスとゲームセンター、ボウリング場にバッティングセンターぐらいのものだった。よりにもよってバッティングセンター。私は野球とは無縁だったし、彼はハンドボール部だった。


 その癖、バッティングは上手かった。今思えば私も単純な女で、彼のスポーティな姿には心が沸き立ったものだ。


 そして、彼はネットの内側に私を誘った。元来運動センスのない私は球にバットが触りもしなかった。彼は楽しそうだった。私も楽しかった。


 それから、私たちは連れ立って出掛ける度にバッティングセンターに寄った。彼が球を気持ちがいいくらいに飛ばし、私は球を後ろに流し、笑い、笑う。たまにそのままファミリーレストランで安いメニューを頼み、お互いの親の目を気にしてそそくさと帰るというのをした。


 夏になって、彼から告白された。何をどう思ってか、私はそれをフッた。今の関係が心地よくてその先が怖いからとか、そんな理由だった気もするが実際のところは忘れてしまった。


 不思議と私たちはその後もバッティングセンターに行った。帰り道ではなく、そこが行き先になることさえあった。私はそろそろ振り方を手取り足取り教わるのも飽きてきて、気が乗らない日には数回振ってネットから出ることもあった。


 一年生と二年生の間の春になって、私から告白した。彼はそれをフッた。


 何故か私たちはまだバッティングセンターに行った。なにか吹っ切れたような気がして、もう私たちは男女ではなくなっていた。最初は敬語で接していたのを「タメ口でもいいかな……?」と頬を熱くして彼に聞いた私はどこへやら、彼に返す相槌の何割かは「は?」になった。彼が球を気持ちが悪いくらいに飛ばし、私は球を後ろに流し、ただ無表情で、無表情。心地よかった。


 そんな日々は本当にどうしてなのかわからないが三年生になっても続いた。彼は部活を引退し、髪型を少し変えた。私はいつかの春にさっぱり切った髪がいつの間にかロングヘアになっていた。お互い卒業後の進路も決まった。


 本当にどうしてなのかわからないと言えば、私のバッティングの腕だ。熱心だったとは言えないがそこそこの頻度でバットを握っていたのに、今まででボールに触れたのは二回だけ。どちらもファールだ。球を飛ばすよりも手からすっぽ抜けたバットが飛ぶ方が多かった。



◇◇◇



 この「今まで」というのは、卒業式から二週間経った三月も半ばに差し掛かる今日のこの時間までのことだ。またバットを振り、ボールはかかとのあたりに転がる。


 彼はこの土地で駅員になるらしい。私は都会のそこまで有名でもない大学に行く。引っ越すのは次の土曜日。


 さっき彼が言った「ゆっくり食いたいんだよね、今日くらいは」という言葉を反芻する。流石に今日くらいは遅くなっても親も怒らないだろう。行きつけのファミレスは二十四時間営業だ。とはいえ流石に一時や二時まで遊び歩いているわけにもいかないな……というのは共通認識のようだ。私だって、離ればなれになる前に彼とちゃんと話をしたい。くだらない話でいいから、ちゃんと。


 振る。空振る。


「やっぱ体がガチガチなんだよな、リラックスしろって何回言っても直んねーの」


「はいはいご迷惑をおかけしましたー」


「なのに締めるところ締まってねーし」


「うっせー」


 こんなやり取りが私は好きだ。彼のことが好きだ。それがLOVEなのかLIKEなのかというベタな疑問はなんだかんだで今日まで抱えたままだ。彼といるのが好きだし、生涯を共にできる気もする。ハグもしたいと思う。キスは興味ない。ヤることもやりたいとは別に思わない。ただ今から恋人になるのであればそれはやぶさかでない。ただ腰を上げて今から恋人になりたいかというとそうでもない。じゃあ友達のままでいいのかと言われると少し惜しい。


 だから、今日は粘っている。最後はスカッと終わりたい。打ちたい。打つのだ。ヒットを。終止符を。


 いつの間にか他の客も全て帰り、今にも蛍の光が流れそうな空気になってきた。十一時の閉店に間に合うのだろうか。ここで打てなかったらどうしようか。スカッとしないから告白でもしてやろうか。田舎のファミレスで? もうすぐ引っ越すのに?


「あのさー、見てて退屈してきたから話していい?」


「失礼ね、なに?」


 見慣れた機械仕掛けのピッチャーが球を構える。私も完璧な構えをとる。おそらく不格好で指摘されるべき点だらけだろうけど、とにかく完璧な構えだ。


「いやー、今言うのもなんだけどさ」


 適当に耳だけでその言葉を受け止める。私はこの一球を打ち切るつもりで臨んでいるのだ。どうせ次があるけど。


「あー、後のほうがいい?」


「別に、話したいならどーぞ」


 ピッチャーが振りかぶった。私も拳に力をこめる。




「俺やっぱお前のこと好きだよ」




「は?」


 思わず後ろを振り向く。その瞬間、手に鈍い衝撃が響く。忙しく前を向く。なんだか気持ちのいい音ともに、ボールが飛んでいく。後ろを見る。前を見る。身体が落ち着かず首が勝手にぐいんぐいんしている。


「お、打てたじゃん!」


「え、いや、は? 待って、えっ、待って」


 打てた。打てた。ボールは。終止符は?


「早く飯行こうぜ。腹減った」


「いや待ってってば、え、え?」


 終止符は??


 身体が喜んでいる気がする。やっと打てたからだろうか。それとも、彼の言葉のせいか。それは嬉しいのだろうか。頭も心もしっちゃかめっちゃかで何もわからない。


「そうだな、俺も来月から社会人だし……」


 彼が私の目を見た。目というかもっとその奥にある私自身である気もしたが、とにかくまっすぐ見つめてきた。そして、その瞳が細まり、見知った笑顔になる。


「今日は祝いで奢ったる」


 あ、それは嬉しい。思わず膝を打った。

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