宵待草

増田朋美

宵待草

その日も雨だった。梅雨の季節と言うからには、雨が降って仕方ないのであるが、でも、何かと不便なところもあって、動きにくい季節でもある。その日は日曜だったから、浜島咲は、特に用事もなく、何もすることもなくてのんびりと過ごしていた。すると、いきなり玄関のインターフォンがピンポーンと音を立ててなる。

「なあに、こんな日曜日の朝早く!」

と、咲が玄関先に行ってみると、

「はまじ!私よ。杉浦彦乃よ!最も、今は杉浦じゃなくて、久保だけどね。」

と、陽気な言い方でそういったのは、咲と、音大のときに一度だけ同じクラスというか、同じ授業をとったことがある、咲の知っている名前では、杉浦彦乃という女性だった。しかもやってきたのは、彼女だけではない。小さな五歳くらいの男の子を連れている。ちょっと顔つきが似ているので、間違いなく彦乃の息子さんであることは間違いなかった。なんでまた、彼女が自分のもとを訪ねてきたのか不明だが、咲は、急いで、彼女を部屋の中に入れた。

「ああ、いい部屋に過ごしているのねえ。咲、いい仕事してんだ。私なんて、未だに、安アパートで息子とふたり暮らしよ。」

と、彦乃は、咲の話を無視して、すぐにテーブルに座ってしまった。小さな男の子は、座っていいの?という眼差しで、彦乃を見ている。咲は、座っていいわよと彼に言った。

「それで、一体どうしたの?」

と、咲が聞くと、

「はまじは、まだ結婚してないんだ。いいなあ。自由で羨ましい。」

なんて、彦乃はいい出すので、咲はびっくりする。

「してないって、彦乃のご主人はいないの?」

咲が思わず聞くと、

「別れちゃった。」

彦乃は、ため息を着いた。

「何?別れた?それなのに、久保と名乗ってるの?」

咲が聞くと、

「そうよ。捨てられたなんて言わせたくないからよ。それより、はまじは誰かいい人いるの?まあ、あんたの顔であれば、男が寄り付かないか。」

彦乃は急いで言った。

「まあ、そんなところね。でも、彦乃が結婚して、息子をもうけているなんて、信じられなかったな。あんな優等生だった彦乃が、息子さんがいるなんて、信じられないわよ。それに、相変わらず、きれいで可愛いし。昔とほとんど変わらないじゃないの。」

咲が、正直な顔で言うと、

「全く、そんな事言うからはまじはいい人がいないんじゃないの。でもね、ある意味はまじが正解よ。だって、旦那なんてさ、碌に家事もしないし、それにギャーギャーうるさいだけの子供。ほんと最悪よ。まあ、旦那なんて、仕事の事ばっかりで、息子のことは私に任せっきりだから、私が、さようならしてあげたけど。そういうこと考えると、一人でいるのが一番!ほんと、今思うと、一人でいるのが正解!そうすれば好きな歌の仕事だってできたかもしれない。」

と、彦乃は、嫌そうな顔で言った。それを、小さな男の子は、なんだか恨めしそうに見ていた。

「彦乃、あんまり息子さんの前でそういうことを言うのは、やめて置いたほうが、いいわ。」

咲はそういうが、

「大丈夫大丈夫。私、何回も同じ事言ってるし、この子もなれてるわ。」

と、彦乃はカラカラと笑った。

「そうだけど、、、彼の名前、なんていうの?」

咲が聞くと、

「名前は、夢路。」

と、彦乃は答える。

「あら、変わった名前。どこかの、女たらしの芸術家みたい。」

咲は、竹久夢二のことはあまり知らなかったが、多分、オペラ歌手という職業の彦乃は、ロマンチストという意味で、息子に夢路と付けてしまったのに、間違いなかった。

「よく言われるけど、あたしが付けたわけじゃないわよ。旦那のお父さんが付けただけ。それでさあ、今日ははまじにお願いなんだけど。」

彦乃は、咲の予想を跳ね返す様に言った。

「あのネ、今日、合唱団の演奏旅行で東京に行くから、はまじのお宅でこの子預かって貰えないかしらね。今日は、日曜だし、独身のあんたのことなら、なにも心配ないでしょう。じゃあ、はまじよろしく頼むわよ。あたしは、明日の朝、迎えに来るから。」

彦乃はいきなり椅子から立ち上がり、どんどん玄関先に行ってしまった。

「ちょっと、ちょっとまって、彦乃!」

と、咲は彼女を追いかけるが、彦乃はどんどん靴を履いて、後ろを振り向かずに出ていってしまった。小さな男の子、夢路くんが、彼女に待ってとも行かないでとも言わないのが不思議だった。咲は自分の力では、彼を何とかすることはできないと思ったので、仕方なく、彼を、製鉄所につれていくことにした。

「はあ、竹久夢二と同じ名前。」

咲から事情を聞いた杉ちゃんは、驚いていった。

「そうなのよ。それでね、あたし一人ではどうにもならないから、ここで彼の世話をしてもらいたいの。無口で何を考えているのかわからない子だけど。」

咲がそう言って、夢路くんの顔を見ると、夢路くんは持っていた画板とにらめっこして、なにか描いていた。

「あなた、本当はおいくつなんですか?」

ジョチさんが聞くと、

「五歳。」

と夢路くんは答える。

「五歳ねえ。それにしてみれば、何も子供らしくない子供だな。そう考えると、声楽家の子供らしく、おませな子だな。」

と、杉ちゃんが言うが、夢路くんは無反応なままだった。

「じゃあ、杉ちゃん、理事長さん、悪いんだけど、夢路くんを一日だけ預かってちょうだい。あたしは、ちょっと用事があるから。」

咲は、このときは何も気にせず、夢路くんを置いて、自宅へ帰った。まあ、大概、誰かに何かを頼む人というのは、基本的にへりくだるようなたのみかたはしないものだ。多分、それでいいのだ、プロに任せればと思い込んでいるのだろう。

「全く。大人というのは、身勝手で困るなあ。そう考えると、子供は辛いというのが、よく分かるだろう。一体何を描いているの?」

杉ちゃんが夢路くんに聞くが、夢路くんは答えずに鉛筆を動かし続けている。

「ママの顔です。幼稚園の宿題です。」

と、丁寧な口調で夢路くんは答えるのであった。

「なるほど幼稚園の宿題か。どんな画家の絵に似ているのか、見せてもらいたいな。ちょっと、見せてみろ。」

杉ちゃんが、夢路くんの持っていた画板を取り上げて、絵の内容をジョチさんに見せた。確かに、描かれているのは人間の顔であるが、なんかちょっと普通の顔とは違うのであった。鉛筆で描いているから、絵は白黒であるのであるが、もし、絵に色を入れてあるんだったら、どんな色になるだろう?

「よしてください!僕が描いた絵なんですから!」

と夢路くんが言うので、杉ちゃんは、はいよと言って、彼に絵を戻した。随分おませな子であった。五歳なのに、平気で敬語を使いこなしているのである。

「どちらの幼稚園に通われているんですか?声楽家というのであれば、双葉とか、するが幼稚園とか、そういう音楽教育に熱心なところでしょうかね?」

とジョチさんが聞くと、夢路くんは少し考えて、えーと、といった。普通の子であれば、幼稚園の名前をすぐ言える年頃なのだが、ここで間が空いているのがちょっと気になるところだった。

「えーと、双葉幼稚園です。」

「ああ、双葉ですか。双葉は、たしかに高級な階級の人の子供が行く幼稚園と言われていますから、制服とか、随分お金もかかるでしょう。それでは、かなり充実した幼稚園生活を送っているんでしょうね。」

ジョチさんが言うと、夢路くんはまた黙ってしまった。

「はあ、あまり、充実してないのかな?」

と、杉ちゃんが言うと、同時にピアノの音が聞こえてきた。多分、水穂さんが弾いているのだろう。

「あ!ママがよく歌っている歌だ!」

と、夢路くんは嬉しそうに言った。

「ああ、宵待草ですね。確かに、声楽家の方では、よく歌う曲でもありますよね。」

とジョチさんが言うと、夢路くんは、水穂さんのいる四畳半へ走っていってしまった。どうやら運動神経が良いらしい。俗語で言うと逃げ足だけが速いという言葉にもつながるが、いずれにしても、幼児にしてはかなりのスピードだった。

「ああ全く、足が速いなあ。捕まえるのが大変だ。」

と、杉ちゃんがそう言いながら、四畳半に入ると、夢路くんは、水穂さんの隣にチョコンと座って、宵待草を聞いていた。そして、待てど暮らせど来ぬ人を、なんて、いい声で歌いだすのである。流石に声楽家の息子だけあって、いい声で歌う才能も持っている。

「歌がお上手なんですね。ご家族から習われたのかな?」

と、水穂さんが言うほど、夢路くんは歌が上手かった。ようやく追いついた、杉ちゃんが、彼が歌っているのを聞いて、

「本当に歌がうまいなあ。よし。お昼は、おじさんがサンドイッチ作ってあげるから、三人でピクニックにいこう!」

と、言うと、夢路くんは大変嬉しそうな顔になって、嬉しい!と、言って更にいい声で歌いだした。そう調子に乗るところこそ、やはり子供であった。いくら大人びた態度をとると言っても、子供であることは、変わらないのだった。杉ちゃんは、これはいいぞと言って、台所に行き、冷蔵庫に入っていた、パンと卵を取り出して、サンドイッチを作った。それを、タッパに入れて、風呂敷包みで包み、

「さあ、ピクニックに行こう!」

と、水穂さんと三人で、バラ公園に向かった。バラ公園にいく道中も、海は荒海向こうは佐渡よ、なんて夢路くんはいい声で歌っている。

「本当に夢路くんは、歌がうまいですね。」

水穂さんが感心するほど美味かった。

バラ公園につくと、公園は、日曜日ということもあり、親子連れが大勢いた。杉ちゃんたちは、公園全体が見渡せる、丘の上にレジャーシートを広げて、サンドイッチを広げた。夢路くんは美味しいと言って、ガツガツと食べた。そういうところは、やはり子供だった。

「良かったねえ、夢路くん。そんなうまそうに食ってくれると、作りてもやりがいがあるね。」

と、杉ちゃんはカラカラと笑っていった。

同時に、丘の下で、一組の親子が、キャッチボールをしていた。お父さんと息子で楽しそうにキャッチボールをしている。それを夢路くんは、サンドイッチを食べながら、じっと見ていた。

「何、そんなに、羨ましいの?」

と、杉ちゃんが聞くと、夢路くんは、

「僕もパパがほしい、、、。」

と、小さい声で言った。それが彼の一番の本音なのかもしれなかった。その顔は真剣そのもので、ウソは無いことがわかる。

「そうなんだ。もしも願いが叶うなら、してほしいことや、欲しいものはありますか?」

と、水穂さんが言うと、

「僕もパパとキャッチボールしたい!」

と、宣言するように彼は言った。

「ねえ。おじさんもキャッチボールできる?」

そう聞かれて、水穂さんも杉ちゃんも困ってしまった。杉ちゃんは歩けないし、水穂さんは病気があるので、走ることができない。

「僕達はできませんね。それはできませんから。」

と、水穂さんが答えると、

「なんで?僕も、キャッチボールがしたい!仲間に入れてもらいたい!」

と夢路くんは言った。そしてその早い足で、丘の下にいる親子に声をかけようと走り出したが、夢路くんは、足がコングラがってしまって、ステンと転んでしまった。足は速い割に、子供らしく、衝撃には弱かったらしい。転んでしまってわーんと泣いてしまった。

「ああ、転んじゃいましたね。大丈夫ですか?怪我はしなかったかな?」

水穂さんが優しく彼にそう言うと、

「ごめんなさい、、、。」

と、夢路くんは言った。同時においついた杉ちゃんが、夢路くんの体が痣だらけなのに気がつく。

「おい、お前さんこの痣はどうしたんだ?なんで、こんなに痣だらけなの?」

杉ちゃんに言われても、夢路くんは黙っていた。自分でころんだとかそういうときにできそうな痣ではなかった。そんなことで簡単にできてしまいそうな痣ではなさそうだ。

「いくら足が早くて、腕白坊主だからって、こんなところに痣を作るだろうか?故意に殴られなければできない痣だ。」

水穂さんも、杉ちゃんの発言にそうだねと頷いた。とりあえず、擦り傷を消毒するために製鉄所に帰ろうと言って、杉ちゃんたちはピクニックの支度を片付けて、製鉄所に戻った。杉ちゃんから事情を聞いたジョチさんは、夢路くんに、汚れた服を取り替えるから、ちょっと上着を脱いでもらえますかというと、あるわあるわ、全身の至るところに、痣が見られた。杉ちゃんとジョチさんは、これはまずいと顔を見合わせる。とりあえず、杉ちゃんが縫っておいた子供用の浴衣を着せてやり、水穂さんの元で、また宵待草を聞いてもらうことにして、ジョチさんは、富士警察署に電話した。

「ええ、そうです。名前は、久保夢路くんです。ええ、体の至るところに傷や痣が見られ、彼は、日常的に虐待を受けていたと考えられます。ええ、何でも母親と二人暮らしだそうで、母親は、久保彦乃。」

と、ジョチさんが説明すると、電話の相手になった華岡も、久保彦乃だって!と声をあげた。

「噂になってんだよ。久保彦乃の、マンション近くの住民から、俺達のところにも度々相談が来る。子供が普通ではない頻度で泣いていると。よし、理事長さんがそう言ってくれてよかった!今度こそ逮捕だ!」

と、華岡は言っている。ということはかなり前から警察も彼女をマークしていたのだろう。全く、決定的なことがないと警察は動かないんですね、とジョチさんは呆れて電話を切った。

「それでは、日常的に虐待があったということかな?」

杉ちゃんが、ジョチさんにそうきくと、

「ええ、どうもそうらしいですね。きっと、しつけとかそういうつもりで、夢路くんに暴力を振るっていたのでしょう。あの絵を見ればよくわかるじゃないですか。あの絵は、母親の似顔絵を描いているのとは到底思えません。恒常的に、虐待が行われていた証拠です。」

と、ジョチさんは、急いで言った。確かに、彼の鉛筆画は、子供が母親の絵を描いたという気がしない。

「そうだよなあ。竹久夢二の美人画とは程遠い。だって、あの絵は、鬼の絵を描いていたんだから。」

杉ちゃんもすぐそれに返した。

「とりあえず、彼女を、逮捕して、罪はしっかり償ってもらって、夢路くんは安全なところに逃げてもらいましょう。彼を救うにはそれしかございません。」

ジョチさんは、そういうのであるが、

「そうだねえ。でも、夢路くんは、どうなるの?お母ちゃんと無理やり引き離されて、なんか可哀想だと思うんだけど?」

杉ちゃんは、もっともらしいことを言った。

「そうですが、そんなことを言ってはいられませんよ。このままだと、虐待がエスカレートして、最悪の事態に陥る可能性があります。それは、どうしても避けなければいけませんよ。僕らが、ここでどうのというよりも、彼の安全を考えることが最優先なのではないですか?」

政治家らしいジョチさんは、そういうのであるが、現実問題、夢路くんの行き着く先は、別の親に預けられるか、施設に行くしかなかった。それをさせてしまうのは可哀想だという杉ちゃんの主張も、間違ってはいない。でも、夢路くんを母親の暴力から引き離すこともしなければならないのも、仕方ないのだった。

隣の部屋からピアノの音が聞こえてくる。それに合わせて宵待草を歌っている、夢路くんはとても楽しそうだ。それに引き換えて、母親が逮捕されるという様を見せてしまうのは、ちょっと可哀想だと思った。

「夢路くんのお母ちゃんは、今日演奏旅行で出ているはずだけどね、、、。」

と、杉ちゃんが言うが、

「ええ、そのようなことがあったとしても、犯罪者には変わりないですよ。それは社会的な地位があっても、やってはいけないことです。」

とジョチさんは、平気な顔で言った。これから、夢路くんにとって、人生はとはどんなものであるか、考えなければならない事態に直面するのだった。それは五歳の少年にできるかどうか、不明だった。誰が、夢路くんを引き取ることになるか、あるいは施設のような場所に行くのか、考えていかなければならないし、一番簡単な、母親と一緒に暮らすということが、できなくなるというのは、これほど悲しいことはない。

「とりあえず、僕が買収した福祉施設に、彼を引き取ることを問い合わせてみます。もし、引取が不可能であれば、他の手を考えましょう。」

ジョチさんのような有力な人物であれば、そういうことが可能だった。ジョチさんのネットワークは強力なものだから、そういうときには役にたつのである。いろんな福祉施設を買収してきたジョチさんは、夢路くんをそういうところに送致することを、なんとも思わないのだろうけど、杉ちゃんにとっては、そういうことは複雑だった。なんだか、最愛の母親と無理やり別れさせてしまうことは、本当に悲しいことではないか。よく、虐待の防止に当たる児童相談所が機能しないという苦情を受けることがあるが、それはもしかして、そういう感情から生じてしまうのかもしれなかった。子供は親のもとで。この当たり前の感情は、動物であれば絶対に守られるのだが、人間というのは、代理人が育てることもある。だからより複雑になっている。

「そうだねえ。すぐにポンポン対策が打てるやつは、超人だと思うぞ。」

と、杉ちゃんは、思わず言った。隣の部屋で、宵待草を歌って楽しい気分に鳴っているのを、今にもぶち壊しにしてしまうのは、いくら犯罪者を罰するためだとはいっても、なんだか、、、。という気持ちになる。

咲は、とりあえず、その日自宅にいたが、迎えに、久保彦乃は来なかった。多分、彦乃に、夢路くんは製鉄所と呼ばれている公民館のような施設に行ったので、そこへ迎えに行くように、というメールを出していたので、彦乃は、そこへ行ったのだろう。それしか考えなかった。

その翌日。咲は、天気予報を見ようとして、テレビのチャンネルをひねってみたところ、こんなニュースが流れてきたので、びっくりする。

「昨日、静岡県富士市にて、五歳の息子を虐待したとして、母親が逮捕されました。逮捕されたのは、静岡県富士市に在住の久保彦乃容疑者で、容疑者は容疑を大筋で認めているということです、、、。」

なんだか、自分が何をしたのかわからなくなってしまったが、咲は自分は間違っていないと思い直して、朝食を食べはじめた。

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宵待草 増田朋美 @masubuchi4996

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