二章 幕間 『慣れない男』
『──起きろ。起きろと言っている。この寝坊助め』
声が聞こえる。
凛とした、だが、隠せない尊大さが混じる声だ。
それは鼓膜に脳裏に刻み込まれ、いくら払っても亡霊のように纏わりついて離れない。
そして、その声が聞こえると、決まって心地良い微睡みから、居心地の悪い現実に強制的に引き上げられてしまう。
重い瞼をゆっくりと開けると、綺麗な天井がぼやける瞳に飛び込んできた。
普段は薄汚れた天井や突き抜ける青空が寝起きの視界に入るからか、どうも違和感が拭えない。
「慣れないな」
寝床として使っていたソファーから立ち上がり、テーブルに置いておいた煙草に手を伸ばす──が、屋敷は禁煙だから絶対に吸うな、と
灰色の髪を掻きながら、長身の男──ウォルトは緩慢にソファーから立ち上がった。
ベッドに目線を向けると、お人形のような可愛らしい容姿をした少女が幸せそうに毛布にくるまって寝息を立てている。
髪の隙間から覗く、少しだけ尖った耳は少女がいかに特異な存在かを如実に証明している。
枕の上で流れるように広がる桃色の髪が朝陽に照らされて、艶やかな光を帯びていた。
──肩の辺りで切り揃えられているが、もっと長ければ……きっとあの人に──。
そこまで考えて、ウォルトは自嘲のこもった笑いを零す。
「女々しい男だな、全く」
灰色の双眸には、確かにモニカは見えている。
しかし、彼女をちゃんと視ているのは片方の眼だけだ。
もう片方が視ているのは、彼女の後ろに存在する自分自身の過去。
過去を記憶の底から強引に引きずり出すきっかけである、モニカを忌々しく思う。
だが、それ以上にウォルトにとってモニカは救いであった。モニカが居るから、今この瞬間、ウォルトは生きようと思えるのだ。
×××
純白のテーブルクロスで粧し込んだテーブルの上に置かれた料理。
メインの料理が魅せる色彩は、視覚をどこまでも楽しませてくれる。
スープから漂う香りを、鼻腔は何の抵抗もせずに喜んで向かい入れる。
上品な誘惑に脳が刺激されて、食欲という名の欲望が全身を支配していく。
じんわりと出てきた唾液を飲み込む。
貴族らしい華やかな料理はウォルトにとっては毒でしかない。
一回や二回程度なら問題はない。
慢性的にこんな華やかな食事を取っていたら、そのうちに舌が、身体がこれ以下の食事を受けつけなくなってしまうだろう。
その日の食糧を獲得できるかどうかの生活を送っている現在のウォルトにとっては贅沢は紛れもない敵なのだ。
ふと、視線を横に向けると、モニカは貧乏感丸出しで、これでもかというくらいに料理を頬張っていた。
「………………」
「どうひはんでふか? ……んくっ、ウォルトさん、これ全部すごい美味しいですよ! 食べないんですか?」
「いや……」
「食べないんですか!? もったいないですよ! こんなに美味しいものがこの先食べられるか分からないんですから、食べておいた方がいいですよ! それに、せっかく作ってくださったのに、食べないなんて失礼ですっ」
「今食べようとしていたんだ。だから落ち着けよ、モニカ。みっともないぜ」
間近に迫っていてきたモニカの顔を押し返す。
返答に満足したのか、モニカは嬉しそうに頷いて料理に意識を向けた。
もう少し礼儀を知っていて、上等な服でも着ていたら貴族の娘と言っても十二分に通じるだろう。彼女の性格がお嬢様気質かと問われたら首を捻るしかないが。
「美味しいです美味しいですっ。ああ、幸せだなぁ」
ナイフとフォークを握りしめながら、本当に幸せそうな表情をするモニカを微笑ましく見守る屋敷の住人。
この場に居るのは、当主であるウェールズ。
当主の後ろで待機している瞑目の美女、給仕長。
立ち位置が不明な白銀髪黒瞳の美少女、ソフィア。
臣下の茶髪でオッドアイの男、アルベール。
つい先日、臣下に抜擢された兎耳の美少女、アリス。
そして──、
「本当に美味そうに食べるよな。ほら、これをモニカにあげるよ」
「えっ!? いいんですかヒガナさん」
「もちろんだ。いっぱい食べて大きくなるんだぞ」
「ありがとうございます、ヒガナさん!」
妙にモニカと仲の良い少年。
長くも短くもない黒髪に、若干垂れた黒目。平々凡々、失礼な言い方をすると特徴のない顔をしている。強いて述べるなら男にしては彫りも浅く、色も白くて、一見すると女に見間違えてしまうほど中性的な顔立ちだ。
身体の線も細めで、とても戦えるような体格ではない。
彼はスオウ・ヒガナ。
数年前に起こったハウエルズ卿殺人事件の真相を暴き、アリスを死の運命から救った少年だ。
その後、彼はグウィディオン邸の使用人となった。経緯は不明だが、どうやら使用人たちからの強い推薦があったらしい。
不思議な少年だ。
心優しく、悪く言えばお人好しという言葉がよく似合う。──が、その奥底には言葉に言い表すことのできない『何か』が潜んでいる……気がする。
確証など無いが、ウォルトの野生の勘が警鐘を鳴らしているのだ。
「……ヒガナはおっぱいのことしか考えてない」
「大きくなれってそういうことじゃねぇよ!」
アリスの盛大な勘違いに、ヒガナは隣に身体を向けて鋭いツッコミが炸裂。
それはともかく、使用人であるヒガナが当主と同じ食卓に座っているのは些か疑問があるだろう。
理由は至って単純で、アリスがゴネたのだ。
彼女からすればヒガナはご主人様だ。
ご主人様を差し置いて、食卓で呑気に座って食事なんてできない、とアリスがわがままを言った。
ウェールズが承諾した結果がこの現状だ。
「あーっ! また、ピーマンみたいの俺の皿に移したな!」
「……減った分、足してあげたの」
「良いように言ってるけど、単純に嫌いなだけだろ」
「……これ以上おっぱい大きくなったら困る」
「確かに今の大きさがアリスにとってはベストかもしれない……って、いい加減そこから離れろ!」
貴族の上品な朝食をぶち壊すヒガナたちをウェールズは微笑ましく眺めている。
それとは対照的に、給仕長は表情に大きな変化は無かったが、形のいい眉がピクピクと動いていた。
ソフィアに至っては、少し不機嫌そうにヒガナを睨んでいた。
ただ一人、オッドアイの男だけは、ヒガナたちではなく、モニカを眺めていた。
その視線に嫌悪感を感じた。──まるで、自分の片方の眼を見ているようで。
×××
朝食を終えたウォルトは、屋敷の最上階にある執務室にいた。
当主から直々の呼び出しだ。食客の身として無下にすることは出来るはずもない。
それに、呼び出された理由は察してる。
「今回の件は本当に助かったよ。ありがとう」
ウェールズは膨らみのある小袋を執務机の上に置いた。
受け取り、中身を確認する。小袋に所狭しと金貨がぎっしりと詰まっている。
「確かに」
ウォルトは小袋を懐にしまい込む。その刹那に借金返済に充てる分を引いて、手取りを計算する。雀の涙しか残らない。
「でも、それだけで本当にいいかい?」
「逗留も許可して貰っている。これ以上求めたら罰が当たり兼ねないってもんだ」
全然お礼をし足りない、といった表情を浮かべるウェールズ。
貴族らしくない貴族だ、と心の中で呟きながら、軽く頭を下げてから執務室を出た。
無造作に伸びた灰色の髪を掻いていると気配を感じて、横に視線を移す。
「どうしたんだ? お嬢さん」
「そろそろ返答を伺いたいと思いまして」
「そのことか」
数日前──エドワード・ハウエルズの元へ向かう道中、馬車の中での会話をウォルトはぼんやりと思い出した。
×××
『ところで、あのハーフエルフを購入した際に多額の借金を背負ったようですね。依頼で得た報酬金も大半は借金返済に充てるようですし、随分と苦労しているんではないですか?』
それまで漂っていた沈黙の空気が晴れた。
馬車から見る風景にも飽きていたところだったので良かったのだが、微塵も配慮をせずに痛いところをついてくるノノ。
一体どこで情報を仕入れたのかは甚だ疑問だが、聞いてみても答えは帰ってこないだろう。なら、余計な言葉は発しないのが得だ。
ウォルトは肩をすくめながら答えた。
『ああ、否定はしないぜ』
すると、ココは人差し指を立てて、こんなことを言ってきた。
『一つ提案ですが、グウィディオン家に使えるというのはどうでしょうか?』
×××
「確か、グウィディオン家には戦力になる人材が少ないから俺を雇いたい、だったよな」
「はい。命なんて紙切れ同然の裏社会で、今日まで生き抜いてきた貴方の実力は疑う余地がないですから」
褒められたのが、どうもむず痒くてウォルトはスーツの内ポケットに突っ込んであった煙草に手を伸ばす。
だが、嫌悪感剥き出しのココの表情と足元にある水の入ったバケツを見て、吸うのを諦めた。
恐らく、煙草に火をつけた瞬間にウォルトはずぶ濡れになる。
「買い被り過ぎだ。それに、アリスが加わったじゃないか」
『血染め兎』の異名で、アリスのことは風の噂で度々耳にしたことがある。
とある冒険者の奴隷になっていた時、主人より功績を挙げて冒険者の間で話題になっていたようだ。
「戦力は多いに越したことないですから。貴方にとっても悪い話ではないと思いますよ。借金についても、グウィディオン家が肩代わりします」
魅力的な提案だ。
根無し草から貴族の臣下──誰もが一度は夢見る展開。
ここで頷けば、借金のことで頭を抱える日々からおさらば出来る。
明日の食事のこと、寝るところの心配も一切合切無くなる。
まさに理想的だ。
「どこかに所属するってのがどうにも苦手なんだ。だから、この話は無かったことにしてくれ」
だが、ウォルトは断った。
今の生活──モニカと自由気ままに過ごす毎日に満足している。
借金も己で背負った物だ。誰かの世話になる気は無かった。後始末はきっちり己の手で精算するつもりだ。
「それに、だ。煙草を好きなように吸えない職場なんて御免だ」
きっと、この話をしたらモニカは激怒確定だ。
貴族の臣下になれる、借金返済までできる千載一遇の機会を棒に振るなんてどうかしている、とか言ってきそうだ。
しばらく口も聞いてくれなくなるだろう。
提案を弾かれたココは、然程意外だとは思っていないようだ。寧ろ、最初からこうなることを分かっていたみたいだ。
「そうですか。少々残念ですが仕方ありませんね。では、一つ依頼してもいいですか?」
「構わないが、内容によっちゃあ断る場合もあることを先に言っておくぜ」
ジャブ程度の牽制をしておく。本当に危ない事件に巻き込まれる可能性があるからだ。一匹狼だったら構わないが、守るべき者がいる今は、簡単には死ねない。
「報酬を聞いたら、そんなこと言ってられますかね?」
ココは、くつくつと笑っていた。
まるで、心の奥底を覗いて嘲笑っている悪辣なる笑い声に、ウォルトの神経が凍りついたような錯覚に陥る。
「『────────』に関する情報。それが貴方にとって、これ以上の報酬はないかと思いますけど」
神経に纏わりついていた氷は、灼熱にも匹敵する激情によって最も簡単に溶かされてしまう。
ココが提示した情報は、ウォルトにとって喉から手が出るほど求めていたものだった。
真相へ辿り着く、真実の欠片。
それが、手の届くところにある──。
──いや、浮かれ過ぎだ。
熱に浮かされた感情を冷静に客観視して、平常心を取り戻す。
ウォルトは後頭部をさすりながら、やる気のない瞳をココに向ける。
「依頼内容は後で教えてくれ。まぁ、国王の暗殺とかじゃない限り、引き受けるぜ」
「思ったより冷静な反応で少々驚きました」
「動揺しているのは確かだ。相当に調べたんだな、俺のことを。じゃなきゃ、そのことを引き合いに出すはずがないからな」
小さく息を吐いて、
「全く、グリザイアに執着している男性は扱いづらいですね」
呆れたように首を振りながら、ココはウォルトの元から去っていく。
小さくなっていく、剥き出しの白い背中を眺めながら、ウォルトは疲れたような笑みを零した。
×××
グウィディオン邸の門前でウォルトは数時間振りの煙草を楽しんでいた。
屋敷内はもちろんのこと、敷地内での喫煙は禁止ときたもんだ。仕方ないのでわざわざ敷地外までやってきたのだ。時間も体力も浪費するが、ウォルトにとっての喫煙はそれよりも重要なのだ。
壁に背を預けて貴族街を肴に煙草を楽しむ。
洗練された綺麗な街並みだが、息苦しさを感じてしまう。
貴族界隈というのはどうも肌には合わない。
「早く抜け出したいもんだ」
一本目を吸い終わり、二本目に手を伸ばそうとした時だった。
奇妙な足音が鼓膜に入り込んできて、火を点けるのを諦める。
その足音は徐々に近づいてくる。寄り道などせずに一直線にグウィディオン邸へと。
「………………」
足音の主がウォルトの視界に侵入してきた。
薄汚い衣服に身をまとった太った男だ。その目は血走り、どう見ても正気を保っていない。肌は垢だらけで、歪んだ笑みを描く唇は渇いた大地のようにひび割れていた。
ただの浮浪者と思いたいところだが、その手に持っている出刃庖丁が全てを否定している。
「おい、迷子なら一緒に詰所まで連れて行ってやろうか?」
軽口を叩くが、男は一切反応せずにニタニタと笑っているだけだ。
「えへ、へあっ、トマス様は死んだけど、命令はそのままだから。淫魔殺すの楽しみだ。犯して、犯して、それから殺すんだ。皆、皆、皆々皆殺しだ」
台詞だけで自分が何しに来たか丁寧に教えてくれた男に、ウォルトは決して感謝をしない。
グウィディオン邸を一瞥し、煙草をしまう。
それから男に向き直り、既にこの世には居ない貴族に対して、シニカルに笑いながら皮肉を漏らす。
「置き土産にしちゃあ、ちと重いんじゃないか? 悪徳貴族さんよ」
「お前もグウィディオンか? なら殺してやるよ!」
男が走り出す。贅肉が多分についているわりに速い。
出刃庖丁を勢いよく振り上げ、ウォルトを殺そうと襲いかかる。
ウォルトの拳が最短距離を走り、男の鼻っ柱をへし折る。怯んだ隙に数発叩き込む。そのどれもが的確にダメージを与える威力を誇っていた。
男は追撃を嫌がり、ウォルトから距離をとる。
折れた鼻から流れ出る血を手で拭う。手についた血を凝視した男は怒りで顔を真っ赤にする。
「お前────っ!!!」
「生憎、アンタと愉快に踊る気はないんでね。終わりにさせてもらうぜ」
ウォルトが急速に距離を詰める。
咄嗟に反応した男は出刃庖丁を横薙ぎに振るう。
喰らえば確実に首が切断されるであろう一撃を、ウォルトは身体を逸らして避ける。その流れでバック転をしながら出刃庖丁を蹴り上げた。
出刃庖丁は男の手から離れ、宙を舞いながら、やがて石畳みに音を立てて落下する。
ウォルトはすぐさま態勢を整えて、男に怒涛の連打を喰らわせる。
貫く拳は顔の骨を割り、長い脚から繰り出される蹴りは脂肪を無視して肋骨を砕き、内臓に耐え難い衝撃を与える。
嵐のような連打が終わり、男は膝から崩れ落ちた。元の顔が分からないくらいに腫れ、全身は打撲だらけで動こうとするだけで痛むようで、身動き一つしようとしない。
息切れ一つしていないウォルトは懐から煙草を取り出して火を点ける。
それから倒れて蹲る男の服を掴み、引きずりながら騎士団の詰所へと向かう。
「悪いな。グウィディオン家の物語にアンタが出る幕は無いんだ」
「いだ、痛い……、いだだだだ、やめ、ご、ごめんなさ……いだだだ……やめてください……引きずら……」
男の悲痛な懇願。
それを無視してウォルトは紫煙を美味そうにくゆらせた。
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