二章 第28話 『ささやかな報酬』
ヒガナは拘置所の前に来ていた。
今日、アリスが釈放される。彼は身元引受人として馳せ参じたのだ。
余計なしがらみが一切無い状態で会うのは久し振りのような気がして妙に緊張する。
意味もなく入口を覗いたり、落ち着きなく歩いたり、伸びをしたり、頭に巻かれた包帯を触ったりしてしまう。
気を揉むような時間が数十分続いた時。
二人の係員に連れられて、アリスが出てきた。彼女はぺこりと頭を下げて、係員が建物に入っていくのを眺めていた。
しばらく周りを見渡してから、やっとヒガナの存在に気付いた。
気まずさがあるヒガナは中々歩み寄ることができない。
すると、アリスの方から小走りで近付いてきて、止まることなくヒガナの胸に飛び込んだ。
「うおっ、ア、アリスさん?」
「……牢屋は寒かった」
それ以上は言葉を続けないアリスの代わりに、ヒガナが浮かない口調で問いかけた。
「怒ってないのか?」
「……なんで?」
「だって、アリスはエドワードを守るために自分すら犠牲にしようとしてたのに、俺が全部踏みにじった……だから……」
しどろもどろになりながら言葉を続けようとしたが、アリスがそれを遮った。
「……ヒガナは何も分かってない」
「え?」
「……聞きたいのは、そんな言葉じゃない」
服を掴んで、上目遣いでヒガナを見つめるアリス。瑠璃色の瞳が何を求めているのかを明確に伝えていた。
ヒガナは自分の間抜けさを痛感してから、アリスを優しく抱きしめた。
今、この瞬間にかける言葉はたった一つ──、
「──おかえり、アリス」
「──……うん、ただいま」
×××
再開を祝したヒガナとアリスは、その足で貧民街にある教会へ向かった。
錆びついた扉を開けて、中に入ると先客がいた。
その人物がここに居ることは初めから分かっていた。アリスとの再会に、二人にとって思い出の場所であるこの教会を指定したからだ。
彼は足音に気がついて振り返る。ヒガナの姿を見て、少しだけ驚くがすぐに柔和な表情を浮かべた。
「こうして、会うのは初めてだね。スオウ・ヒガナ君」
「──エドワード・ハウエルズ」
本来なら、ヒガナは来るべきではないかもしれない。
それでも、一度は面と向かって話がしたかったのだ。いや、するべきなのだ。そうでもしないと、この事件に終止符が打たれない。
「色々と言いたいこと、聞きたいことがある。でも、その前に……弟さん、ご愁傷様でした」
トマス・ハウエルズの死亡が報じられたのは前日のことだった。
喉を刃物で切られ、両腕は切断という無惨な状態で絶命していたらしい。
犯人の目星はついていないが、癒着関係にあった他国が口封じに殺害したのでは、という線で現在捜査が行われている。
エドワードの表情は複雑な色を帯びていた。
「悲しいって気持ちもある。けど、それよりも命の危機に晒されなくて済むっていう安堵の方が多いかもしれない」
「ハウエルズ家の当主に就くんですか?」
「一応は。このまま取り壊しになったら使用人や執事が路頭に迷ってしまう。……自ら逃げたのに、弟が死んで危機が去ったらまた元の席に座るなんて、自分でも最低だと思う」
自嘲じみた笑みを浮かべるエドワード。
「貴族のごたごたに口を挟むつもりはありません。俺が聞きたいたった一つだ」
胸の奥で燻っていた怒りを言葉に乗せて、ヒガナはエドワードに問いを投げる。
「アリスの犠牲に成り立つ人生は辛いものになるとは思わなかったのか?」
重い沈黙が流れた。
エドワードの表情は痛々しく歪み、唇を噛み締めた。彼の中で答えはとうの昔に出ていた筈だ。
だが、それを口にする覚悟が無かったのだろう。
重苦しい口を開くまで、ヒガナはただ待った。
「分かってはいた。アリスが計画の概要を知っても尚、罪を背負っていたことを。私が声を上げれば、アリスを救えることを。だが、それができなかった。……アリスの優しさに甘えてしまった」
「………………」
「辛かった、苦しかった。だが、勇気が出なかった。私はやっと手に入れた命の安寧を手放すのが怖かった。いくら謝っても償えないのは分かっている。いくら殴ってくれても構わない。だが、言わせて欲しい。…………本当に済まなかった」
エドワードの味わってきた死の恐怖は痛いほど分かる。逃げ出してしまうことも、やっと手に入れた安寧に縋りつくことも。
それを断罪することはヒガナにはできなかった。
正直、同情すら湧いている。
それに、この件に関してヒガナは最後の最後にほんの少し首を突っ込んだ奴だ。
エドワードの本心を聞いて、その上でどのように裁くかは一番の被害者であるアリスが決めることだ。
「……エドワード」
「アリ……──っ!?」
容赦無く振り抜かれた拳が、エドワードの顔面に叩き込まれる。身体は錐揉み回転しながら、壁に勢いよく叩き付けられる。
殴られた者と殴った者を交互に眺めて、ヒガナはあんぐりと口を開けるしかなかった。
「えっ、ちょっ、アリスさん? 何してんの?」
「……殴ってくれって……だから、殴った」
「いや、殴れっていうのは例えだよ! それ言われて本当に殴る人初めて見たんだけど!」
「……そんなの知らない」
鼻血を拭って、エドワードは緩慢な動きで立ち上がった。相当効いているみたいで、膝がカクカクと震えていた。
アリスはフラフラとした足取りで、吹っ飛んだエドワードに近付いて、自分の偽りのない気持ちを述べた。
「……エドワードがここで拾ってくれなかったら死んでた……だから恩返しがしたかっただけ……重荷になりたかった訳じゃない……」
「アリス……」
「……でも、全部終わったから……丸く収まったから、もう、気にしないで」
「しかし……」
「……さっきのでケジメ……」
老朽化した教会の建物の隙間から陽が射し込んでアリスを照らす。
どこまでも透き通り、果てしない美しさを放ちつつ、胸の前で両手を握りながら瞑目する。
そして、ゆっくりとエドワードを見つめてアリスは優しく微笑んだ。
「……幸せになってね」
「ああ……ああ。必ず幸せになるよ」
微笑みにつられてエドワードも笑い出す。
笑った眼の端から雫が零れ落ちても、涙と鼻血でぐしゃぐしゃに汚れても一切気にせずに笑い続けた。
その嗚咽交じりの笑い声は、教会にどこまでも響き渡った。
×××
ゆっくりと扉を閉めて、ヒガナはあらゆるところが欠けに欠けた階段に腰を下ろした。
小石や階段の破片が尻に食い込んで痛い。
でも、そんなことは全く気にせずにヒガナは雲一つ無い空を見上げて、満足げな笑みを浮かべた。
ここから先はアリスとエドワードだけの時間だ。
二人の間に横たわる空白の時間は果てしなく深い。
それを少しでも埋めるには時間が必要だ。
お互いの数年間を語る充分な時間が。
×××
グウィディオン邸の大広間は、いつもと違う顔を見せていた。
並べられたテーブルの上に置かれた様々な料理。
立食形式で行われる夕食には、屋敷に仕える淫魔全員の姿もあった。美女、美少女が一堂に会する光景は圧巻の一言だ。
今回の立食会を企画したのは当主であるウェールズだ。故に、この場においては礼儀作法も立場も関係ない、完全なる無礼講となっている。
そのせいか、使用人たちはここぞとばかりにウェールズと懇親を深めようとしていた。揉みくちゃにされるウェールズはどこか不憫でもあり、羨ましくもあった。
使用人たちに囲まれているのは彼だけではない。
釈放されたばかりの兎耳少女、白銀の美少女──この二人も注目の的となっていた。
「なんて、目に優しい光景なんだ」
テラスの欄干に寄りかかりながら、邸内の和気藹々とした雰囲気を眺めるヒガナ。手に持ったグラスには水が入っているが減りは遅い。
「まさに酒池肉林、ですね」
ヒガナの隣にいた
「わざと変な風に言うなよ」
「いいじゃないですか、今日は無礼講ですよ?」
「ココはいつも無礼だろ」
「ヒガナさんの分際で随分と言うようになりましたね」
軽口を叩き合い、二人は笑みを零す。
ふと、大広間にベティーの姿を見つけた。
彼女は他の使用人と楽しげに言葉を交わしている。その表情は明るく、現在の幸福と未来への希望に満ち溢れていた。
ベティーの幸せな姿を眺めると、自然と頬が緩んだ。
「ベティーは、ちゃんとここの使用人になったんだよな」
「はい。相当骨を折りましたが、そこは可愛い後輩のためですから」
ココは、約束をしっかりと守ってベティーを暗部から──どんな手を使ったかは皆目見当がつかないが──引き上げることに成功し、グウィディオン邸の使用人として正式に雇ったのだ。
因みにベティーは自分が暗部の人間で、グウィディオン家を陥れようとしたことをウェールズや使用人たちに包み隠さずに告白したらしい。
その告白の末に、この光景があるのだ。
「ですが、ここまで早く事を進められたのは服従契約が無効になっていたからです。素直に喜べる話ではないですけどね」
そう言うココは苦い顔をする。
トマス・ハウエルズが死亡したということは、彼と某国がどこまでの関係だったのか、そもそもどの様な経緯で癒着関係に発展したのか、などなど多くの事柄が謎のまま残ってしまったことを意味する。
「誰がトマス・ハウエルズを……」
「その件は騎士団が捜査を進めるようです」
「そうか」
渋い表情を浮かべるヒガナ。
それを横目で見ていたココは軽く咳払いをして言う。
「そう言えば、ヒガナさんにお伝えしないといけないことがありました」
「俺に?」
すると、ココはニヤリと嫌な笑いを浮かべる。どこからともなく羊皮紙を取り出してヒガナに見せつけた。
文字が書いてあるがお決まりの如く読めない。ただ、下の方に日付と誰かの名前らしきものが記されている。
「ヒガナさん、使用人たちに聞き込みしてた時に『迷惑かけて本当にごめん。俺にできることなら何でもするから』って言いまくっていたみたいですね」
「多分、言ってたかな……必死だったからあんまり覚えてないな」
「で、これがその結果です」
「結果って……なんて書いてあるか教えてくれよ」
「それはですね──」
×××
朝陽が
朝礼の時間には、眠気を華麗に吹き飛ばした麗しの美女、美少女たちがメイド服という名の戦闘服に身を包んでいる。
彼女たちこそ、グウィディオン家を下で支える功労者だ。
手入れの行き届いた髪をシニヨンにし、寸分の無駄すら省いた佇まいは後ろ姿でも気品溢れる。メイド服を完璧に着こなした瞑目の美女──給仕長が朝礼の進行を務める。
だが、今日の朝礼はいつもと様子が異なる。
朝礼の場となっている部屋の壁際。
そこには当主ウェールズ・グウィディオンの姿があった。彼だけではなく、ソフィアやアルベール、滞在中のウォルト、モニカの姿もある。
つまり、屋敷にいる全員が集合しているのだ。──三人を除いて。
ある程度進んだところで、給仕長に変わりウェールズが前に出て言葉を発した。
「えっと、前置きは無しにして入って来てもらおうか。入ってきていいよ」
ウェールズの言葉と同時に緊張が走る。
扉の前で待機していたヒガナは深呼吸を繰り返す。それから、アリスと彼女の腕の中で寝ているルーチェを一瞥する。
二人の顔を見ると緊張は不思議と和らいだ。
ヒガナは背筋を伸ばして、扉を開けてグウィディオン邸の面々が待つ部屋に足を踏み入れる。
給仕長の横に立ち、深く頭を下げた。
「今日からグウィディオン邸に仕えることになりました。スオウ・ヒガナです。よろしくお願いします」
歓迎の拍手が沸き起こった。
あまりの歓迎具合にヒガナは照れながら頬を掻いた。
「ヒガナ君は使用人として、アリスちゃんは臣下として、ルーチェ様は保護対象として、グウィディオン家に入ってもらうことにしたから、みんな仲良くしてあげてね」
「えぇ!? アリス臣下待遇なんですか!?」
てっきり、アリスも使用人として登用されていたと思っていたヒガナは驚いてしまう。
その姿を間抜けと言わんばかりに嘲笑するのは使用人たちの最前列にいたココだ。
「当たり前じゃないですか。彼女の実力を存分に発揮させるなら使用人ではなく、自由性がある臣下が妥当だと判断しました。それに、ヒガナ君は使用人ではなく使用人見習い、ベティーと同じ最底辺からですから」
「ぐっ……反論できないのが悔しすぎる」
「はわっ……さ、最底辺」
ココの容赦無い評価は間接的にベティーも谷底に落としてしまう。
「まあまあ、肩書きはあるけどみんな平等だから。ほ、ほら、私もね」
「当主様も平等だと支障が出ますわ……」
すかさずにフォローを入れるウェールズに呆れて苦言を零す給仕長。
一連の流れがおかしかったのか、ソフィアがくすくすと笑い出す。
その笑いは他の使用人たちにも伝わり、やがて明るい笑い声がグウィディオン邸に木霊した。
きっとこれからも、こんな些細なことでも笑い合えるのだろう。
それはとても楽しいものに違いない。
ふと、横を見るとアリスも亜麻色の髪を揺らしながら楽しげに笑っていた。
──あぁ、俺はこれが見たかったんだ。
他の人にとってはなんてことのない、当たり前でありふれた日常かもしれない。
でも、彼はその尊さを知っている。
だからこそ、この日常を噛み締めて笑うのだ。
それが、民意という名の怪物に最後まで立ち向かった少年に与えられた、ささやかな報酬だった──。
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