断章 第6話 『だから戻ってきた』
痛みは一瞬ですぐに治るが不快感は尾を引いていた。
もう、何度も何度も見たこの光景。
状況を確認する必要はないだろう。
簡易テントから出ると、ハンナはさも当たり前のように火の番をしていた。
「まだ起きてたの?」
冷たい言葉を突きつけるハンナを見て、ヒガナは胸の奥から安堵の気持ちが溢れ出した。
震えるヒガナを見ていたハンナは自分の発言に傷付いたのかと思って、渋い表情を浮かべた。
「あ、あの……悪かったわよ」
急に謝られたヒガナは何事かよく分からないがとりあえず返答しておく。
「全然大丈夫です。今度こそ上手くやってみせますから」
「はぁ? 何のこと?」
ヒガナは親指を立てて、自信を見せつける。上手くできる可能性は高いとも低いとも限らない。行動一つで世界の流れは簡単に変わってしまう。
例え先の未来を知っていても、それは無数に散りばめられた未来の一つ──確実な未来とはいえない。
故にヒガナは常に最良の選択をして、自身が望む未来を掴み取るしかない。
「やってやる……絶対に」
時間遡行したヒガナは安否の確認のためにアリスが寝ている簡易テントの中に入る。
前々回の出来事が脳裏をよぎった。てっきり寝ていると思って相当に恥ずかしい台詞をアリスとルーチェに囁いたのを今でも思い出すと顔が茹で蛸のように赤くなる。
目を閉じているが、起きているアリスを眺めるヒガナ。彼女が生きていることを感じたくなり、頬を撫でようと右手を伸ばす。
「…………?」
一瞬だが、右手に違和感を感じた。本当に一瞬──眼を反射的に閉じて開くより短い時間の違和感。その後はいつもと同じ感覚に戻ったから、ヒガナはさほど気にしはしなかった。
僅かな違和感を気にするよりもアリスに触れたい欲が上回っていたからだ。
頬に指先が触れた瞬間、歓喜よりも大きく、重い、のしかかるような恐怖が襲ってきた。
アリスの温かさが指先を通して身体に広がると一緒に恐怖が肌に、内臓に、骨に、血管に、細胞に浸透していく。
また、死んでしまうかもしれない──地獄のような痛みが、傷みが、熱が、寒さが、ありとあらゆる苦痛が記憶に、魂に刻まれている。
また、ハンナたちを殺してしまうかもしれない──その存在を消滅させてしまった罪悪感が視神経に焼き付いている。
また、アリスを失ってしまうかもしれない──抱きしめた時の冷たさと重みが腕に染み付いている。
もう、失敗はできない。
失敗するわけにはいかない。
使命感は重圧から恐怖へと変わり、ヒガナの身体を震わせる。
「……寒いの?」
ヒガナの顔色は信じられないほどに青いが、暗くて殆んど見えない。それでもアリスはヒガナが捕らわれている不安を確かに感じ取っていた。
震えるヒガナの手に手を合わせ、瑠璃色の瞳で心配そうに覗き込むアリス。
「いや、大丈夫……」
「……本当に?」
「あぁ、アリスの顔見たら元気出たよ」
「……でもヒガナの手、まだ震えてる」
いくら言葉で強がっても、身体は湧き出ている感情に正直だ。手と手が合わさっているアリスには震えがダイレクトに伝わっている。
ヒガナは諦めたように顔を片手で覆った。
「俺はこれから失敗できない戦いに挑むんだ。それを思うと震えが止まらないんだ」
「……ヒガナが戦うなら、私も戦う……ヒガナを守る」
「ありがとう。じゃあ、アリスは勝利の女神として俺の側にいてもらおうかな」
「……私は、神からは程遠いけど良いの?」
首を傾げるアリスに、ヒガナは力強く頷く。
「君が良いんだ」
「……ヒガナ」
それ以上の言葉は必要なかった。
ヒガナとアリスはちゃんと見えてないにも関わらず、全く同じタイミングで頷いた。
そして、
「よし、そうとなったら行動だ。アリス、早速来てくれ」
「……うん」
「それとルーチェも来て欲しい」
ヒガナとアリスの会話をニヤニヤしながら傾聴していたルーチェは、急に使命を受けて銀朱色の瞳を丸くした。
「余もか?」
「ルーチェの力が借りたいんだ」
「幼子の手まで借りたいとは。切羽詰まっているようじゃの」
簡易テントから出たヒガナたちは風に揺らめく火を寂しげに眺めていたハンナの前に立つ。
ハンナは嫌悪の瞳でヒガナとアリスを睨み付ける。
「なによ?」
「ハンナさん。話があるんです」
×××
翌日の移動中。
前回、前々回と同じくフレットが話し掛けてきた。
この男こそ全ての元凶──アリスを殺し、ハンナ、リノ、ダリルを奴隷として縛り付けている、ヒガナの敵だ。
対峙しているだけで怒りが込み上げてくるが、グッと堪えてヒガナはなるべく普通に対応するように心掛けていた。
「そういえば昨日、森の方へ行ってたが何をしてたんだ?」
「寝付けなかったんで、ちょっと散歩してたんです」
「そうだったのか。だが、森には魔獣がいるんだ。一人で行くのは感心しないな」
もっともらしく説教するフレットに、ヒガナは「でも」と言って、前を歩いているアリスに目を向ける。
「アリスが近くに魔獣はいないから大丈夫だって」
「彼女そんなこと分かるのか?」
「そうみたいです。実際に昨日も魔物の影すら見えませんでした」
舌を巻いたフレットは愉快そうに顎を触り、アリスを一瞥する。その横顔に拳を叩き込みたくなる衝動に駆られるヒガナ。いつ間にか強く握り締めていた拳をすぐにポケットに突っ込む。
「少し彼女と話してもいいか?」
「嫌な顔されても怒らないで下さいよ」
「それくらいで怒りはしないさ」
朗らかに笑うフレット。それは偽りの仮面だということをヒガナは重々承知だ。
フレットはヒガナの肩を軽く叩いて、アリスの方へと向かう。
その後ろ姿を睨みつけながら呟く。
「今度はこっちから仕掛けてやる……覚悟しろ」
×××
怒りの双眸を向けられることに全く気付いてないフレットはアリスに声をかけた。
顔を向けて微妙な表情をするアリス。
「……なに?」
「いや、ちょっと君と話してみたいと思ったんだ」
「……別に私は話したくない」
やんわりと拒絶されたフレット。微かにプライドがヒビが入るが気にせずにまだ話しかける。
「そんなつれないこと言わないで話してくれよ。さっきヒガナから聞いたけど、魔獣がいるかいないか分かるらしいじゃないか」
距離を縮め、相手が心を許したところで攻撃を仕掛ける──それがフレットのやり方だった。女性相手なら百発百中の最善で最高の手法のはずだが……。
「……だから?」
「い、いや、凄いなと思って」
「……ふぅん、で?」
普段ならフレットが少し褒めれば、大抵の女性は喜んですり寄って来るがアリスにはその気配が微塵も感じられない。
アリスの態度はアイスピックで氷を削るかのようにフレットのプライドを傷付けていった。
「魔獣の有無が分かるなら、教えてくれれば道中ももっと楽だったな、と思ってさ」
苦笑しながら言うフレットに、アリスの感情が初めて動いた──苛立ちだ。
負の感情を向けられたフレットは僅かに怯む。
「……それはどういう意味?」
「魔獣との遭遇が減れば、ヒガナの危険を減らせ……」
「……今、『楽だった』って言った……それは自分が楽をしたかったってこと……ヒガナのことより自分を優先している証拠」
「言葉の綾だ。本当に……」
アリスの敵意を宿らせた瑠璃色の視線がフレットを撃ち抜く。
「……上辺だけの言葉は聞いていて不愉快」
滲んだ汗を拭って、フレットは頭を軽く下げた。
謙虚な姿勢とは裏腹に、地面に向けられた表情は怒りに染め上げられていた
「嫌な思いをさせて済まない。君は、ヒガナのことが好きで、大切に思っているからそこまで怒れるんだな」
「……好き?」
アリスはその単語に反応し、ポツリと呟いてから首を傾げた。
×××
最早、見慣れてしまった野営場所。
ヒガナにとっては地獄であり、未来を掴むための舞台である。
野営の準備、ヒガナは火起こしをしながら周囲に警戒を張り巡らせていた。
この夜間に事が起きる。なんとしてもアリスを、ハンナたちを死の運命から救ってみせる──ヒガナの頭はそれだけで埋め尽くされていた。
「そろそろアリスが来るはずなんだけど……」
火起こしを懸命にやっているが、アリスは寄って来なかった。気になって辺りを見てみると姿がない。
一瞬にして背中は冷や汗で濡れて、焦りながらヒガナは立ち上がる。
「アリス、アリスはどこに行った!?」
いきなり大声を張り上げたせいで、リノは驚いて火に焚べるために拾って集めた木の枝を全て地面に落としてしまう。
「びっくりさせないで下さいよ!」
「そんなことよりアリスだ! 知らないか!?」
「アリスさんでしたら、あっちの方へ歩いて行きましたよ」
リノが指差したのは、なだらかな斜面がある草原だった。
ヒガナは火起こしのことなど頭から抜け落ち、急いで草原の方へと走って行った。
その剣幕にリノは木の枝を拾いながら、若干引いた様子だ。
「ヒガナさんも変ですよね。アリスさんにあんなに執着して。昨日から特にそうです」
リノの発言にダリルも「確かに」と大きく頷き、豪快に笑う。
「余程の思い入れがあるんだな! しかし、相手があの娘とは、ヒガナも前途多難だな!」
リノとダリルは笑い話で済ませていたが、ハンナだけは笑えなかった。
×××
ヒガナが草原に辿り着き、アリスを見つける頃には辺りは真っ暗で、月の明かりだけが世界を照らしていた。
アリスは草の絨毯に腰を下ろして、物寂しそうに月を眺めていた。それはまるで月にある故郷に想いを馳せ、地に堕とされたことを嘆き悲しみに浸る、かぐや姫のようだった。
「……あ、ヒガナ」
ヒガナの存在に気付いたアリスは笑みをこぼす。屈託のない笑顔を見せられたら、勝手にどこかに行ってしまったことを責めることなんてできるはずもない。
探し回って疲れていたヒガナはアリスの隣に腰を下ろした。
夜空を見上げると無数の星々が儚げに煌めいて、世界を優しく見守っている。日本では決して見る事のできなかった絶景に、呼吸すら忘れて見惚れてしまう。
「すげぇ……自然こそ最高の芸術って感じがするな」
「……あれ」
アリスは煌々と一際輝く満月を指差した。
「……私の祖先は月からこの地に降りて来たらしい……天から降りてきた兎、だから
「天兎、月の住人って、アリスって本当にかぐや姫だったりする? 何だこの幻想世界観。俺、今凄く興奮している! つか、興奮するなって方が無理だ!」
「……ちょっと、何言ってるか分からない」
冷めた視線を全身に浴びたヒガナは肩を落としてから再度、夜空を見上げた。涼やかな風になびく草の音、自然が奏でる音色しか聞こえない──まるで、この世界にヒガナとアリスの二人しかいないような感覚に陥る。
表面上では平静を保つヒガナだが、心臓は面白いくらいに鼓動を刻んでいた。
「……ねぇ」
「どした?」
「……私はヒガナのこと、好きなの?」
ヒガナは吹き出した。驚き過ぎて一回立ち上がりそうになった。
「そ、それ、俺に聞かれても分かんねぇよ。そりゃ、美少女が好きだって言ってくれたら、嬉しいけど」
「……嬉しいの?」
「もちろん。告白されて嬉しくない奴なんていないからな」
アリスは「……そう」と意味深に呟いてから、ヒガナを見つめて、
「……ヒガナ、好き」
「そんな真顔で棒読みじゃ、嬉しくないからね!?」
「……なんで? 好きって言われると嬉しいって」
不思議そうに首を傾げるアリスを見ながら、ヒガナは髪をくしゃくしゃと掻きむしった。それから身振り手振りを交えながら、本当にして欲しい事を伝えようと捲くし立てる。
「違うんだよなぁ。もっとこう感情を込めて言って欲しい。なんていうか、言葉っていうより言葉に込められた想いが伝わってこそなんだよな。つまりは想いが嬉しいんだ。好きだったら、好きって気持ちが嬉しいんだ」
「……気持ち?」
「そう、気持ち。中身空っぽの言葉を貰っても嬉しくない。言葉って、説明できない想いを注ぐ為の代物なんだと思う。『想いが宿れば言葉は癒しにも渇きにもなる』ってな。姉さんの御言葉だ」
「……じゃあ、私がヒガナを好きになって、好きって言えば、ヒガナは嬉しいの?」
「そうゆうこと!」
なんとか伝わってくれたことにヒガナは嬉しさのあまりガッツポーズ。それとは対照的にアリスは肩を落としてしょんぼりとする。兎耳も落ち込んだように垂れ下がる。
「……私はヒガナに好きって言えない……好きってなにか分からないから」
「んー、俺も分かんねぇよ、好きって何かなんて」
アリスは目を丸くして、ヒガナを覗き込んだ。
「……そうなの?」
「ハッキリと『これが好きってことなんだ』、なんて俺には分かんねぇよ。ただ、漠然とあるモノを好きって言い換えてるだけだし。それに好きなんて色々あるからさ。例えば、アリスは良く花とか空を眺めてるけど、あれは何で眺めてるんだ?」
「……花は綺麗だから、空は雲の動きとか見てて面白いから」
「それも好きってことになる。花は綺麗だから好き、空は雲の動きを見てると面白いから好き。ほら?」
「……本当に、好きなった」
「深く考えなくていいんだよ。深く考えるのは哲学者の仕事だ」
ヒガナは立ち上がり、土を払って大きく伸びをする。
我ながらクサい台詞の羅列だと、頬を掻き、照れ笑いを見せる。
「……じゃあ」
アリスはスッと立ち上がって、ヒガナを正面に身体を向ける。
「……ヒガナは私のこと好き?」
アリスは儚げな表情で問いを投げかけた。
ヒガナはアリスの指に自分の指を絡め握り、表情を引き締めハッキリと言う。
「あぁ、好きだ。だから俺は戻って来た──君を救うために」
運命の夜が始まる────。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。