第16話 『小さな達成感』


 プリムラが撤退してから数分後、何事もなかったかのようにアリスは目を覚ました。

 

「……ヒガナ?」

「アリス! 良かった……大丈夫か?」


 アリスは攻撃を受けた腹部をさすり、異常がないことを確認する。衝撃の痕跡が欠片も残ってないことを不思議に思うが、それよりも別のことが胸中に渦巻いていた。


「……何もできなかった」

「生きてくれているだけで十分だよ」

「……うん」


 ゆっくりとアリスは起き上がり、辺りを見渡す。


「……ここに来たかった」

「そうなのか?」

「……みんながここだって」


 二人が分断される前の会話を思い出す。

 アリスは、仲間たちに何かを託された。それがここ玉座の間にあるらしい。

 白髪の美少女のことが頭から離れないが、なんとか隅っこに追いやってヒガナも立ち上がる。

 広間を確認するがこれといって変わったものはない。


 アリスはフラフラと歩き回る。しばらくしてからアリスは玉座の前で立ち止まり、手招きしてヒガナを呼ぶ。


「……ここから変な感じする」

「変な感じ?」


 ヒガナはアリスが指摘した玉座へと右手を伸ばす。いや、寧ろ右手がヒガナの意思を無視して伸ばしたといった方が正しいだろう。

 空間に指先が触れた瞬間、ガラスが割れたような音が響いて、砕け散った破片らしきものが粒子となって溶けていく。


「何だ……今の。──あっ!」


 玉座の間に生じた違和感に気付いた。

 それは先ほどまで無かった物質。

 いつの間に現れたのかは分からない。

 でも、それは確かに玉座の間に鎮座されていた。


 ──漆黒の煌めきを放つひつぎだった。


 ヒガナは状況がうまく掴めずにいたが、アリスと共に柩へと近付く。


「どう見ても柩だよな」

「……開ける?」

「そうだな」


 出てきたということは開けろと解釈して良いはず。

 しゃがんだヒガナは息を深く吸って、吐いてから、柩に手をかける。


「────っ」


 柩の中で幼い、とても幼い少女が安らかに眠っていた。

 それは、記憶の中で見た子と完全に一致していた。


「……ルーチェ」


 アリスがポツリと呟いた。それは恐らくこの幼い少女の名前だろう。

 生きているのか、死んでいるのか分からずにヒガナは困った顔をする。


「……触ってみれば分かる」

「いや、いきなり触るのは」


 アリスは寝ているルーチェの頬を突いて、こくりと頷く。


「……生きてる……吸血鬼は簡単に死なない」

「そういうのは先に言って欲しいな……。吸血鬼?」

「……うん、凄い吸血鬼……だから魔族を束ねてた」

「じゃあ、この子が城の主人ってことか。全然そんな風には見えないけどな」


 ヒガナの眼はルーチェの首に着けられているチョーカーへと向いた。奴隷霊装によく似ていたが装飾品が十字架という点を始めとして細部が異なり、異様な禍々しさがあった。


 自然と右手を伸びた。

 チョーカーが指先に触れた瞬間、ヒガナの意思とは別の意思が支配したかのように、『何か』が強制的に行使された。


 脳細胞どころか、全身の細胞を鏖殺するような痛みがヒガナを蝕む。内臓が爆裂し、筋肉が引き千切れ、骨が砕け、血管に溶かした鉄を流し込まれたような痛みと熱さが蹂躙していく。


「ぐあ゛あ゛あ゛ぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ、あ゛あ゛ぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ──!!!」


 闇すら飲み込む、深く禍々しい深淵の混沌がヒガナの中に入り込んできた。

 混沌は永久凍土のような冷たさで、それまでヒガナが感じていた熱さを全て凍らせてしまう。


 死を覚悟したヒガナ──だが、唐突に地獄は終息し、刹那の安堵を感じた後に意識が断絶した。


 糸が切れた人形のように崩れ落ちたヒガナを胸元で受け止めたアリスは少々困った顔をする。


「……こんなところで不謹慎」


 軽く揺らしてみるが、うんともすんとも言わないヒガナに不信感を抱いたアリスはヒガナの顔を強引に上げる。

 ヒガナは顔面蒼白で鼻から大量の血を流して気を失っていた。そのせいでクッションとなった胸元は真っ赤に染まっている。

 アリスは「……あっ」と驚き、硬直してしまう。


 どうすればいいか混乱していると、エマとノノが玉座の間にやってきた。

 ノノは慌てて近寄り治癒魔術を行使する。

 一方、血塗れ傷だらけのエマは瓦礫まみれの玉座の間を眺めて、重い足取りでアリスたちの方へと向かう。


「もう一つの結界はここだったみたいですね。ヒガナさんは大丈夫そうですか?」

「身体に相当の負担がかかったみたいですけど、命に別状はありません。ですが、この様子だと当分は目を覚まさないかと」


 ノノの報告にエマはヒガナを見下ろし、指に濡羽色の髪を巻きつけながら思考を巡らせる。


 ルーチェ・ファーデウス・ヘレルシャレルの生存は各国で問題視されていた。

 この世界には一個体で国に匹敵する力を持つ、世界の均衡を崩しかねない存在が居る。

 ルーチェは間違いなくその一人だ。

 しかし、ソロフォロニウス城陥落以降、目撃情報は一切なかったので彼女の問題は棚上げされていた。


 もし、生存が公になった場合、良くも悪くも世界は大きな動きを見せるだろう。

 その引き金に指をかけているエマは溜め息をこぼしてここにはいない誰かに向けて呟く。


「失われた御伽噺の続きを紡ぐ時が来たということですか」



×××



 ──覚醒しつつある意識で感じたのは確かな温かさだった。


 自分の体温に溶け合うかのような熱は絶え間なく伝わり、身体を、心を温める。

 とても心地良い温もりのゆりかごに包まれていたヒガナは、ここで初めて自分が横になっていることに気が付いた。

 瞼の裏からでも分かる朝陽をその身に浴びて、意識は水面から浮かび上がった。

 眼前に広がるのは見知った天井──セルウスにて泊まっている宿屋の天井だ。


「何回俺は意識を失ってんだ……」


 落ち込むヒガナは何度か瞬きを繰り返し、ボヤけたピントを合わせる。

 頭を軽く掻いていると、変な感じがしたので手を見てみる。──凄まじく長い漆黒の髪が手にぐるぐるに巻き付いていた。

 ゾッとするヒガナは慌てて髪を払おうとする。すると、毛布の中で何かがモゾモゾと動いた。

 ヒガナは生唾を吞み込んで、毛布に手をかけて思い切り引き剥がす。


 ──そこにいたのは一糸纏わぬ姿の幼女だった。


「え……?」


 驚愕を通り越して思考が停止しかけた。

 ヒガナの記憶はソロフォロニウス城の玉座の間で彼女のチョーカーに触れたところで終わっている。

 どうやって宿屋に戻ってきたのか。

 なぜ、件のルーチェが全裸でヒガナと同じベッドで寝ているのか。

 分からないことが多過ぎて、処理しきれなくなったヒガナが次に発した言葉は、


「髪長っ。身長より長いんじゃないか?」


 死ぬほどどうでもいいことだった。

 確かにルーチェの髪は異常に長い。が、今は気にすることではない。

 全裸の幼女と寝ている──見ようによってもよらなくても犯罪的な光景を、誰かに見られるのを阻止するのが、ヒガナの最優先事項なのだが……。


「……ヒガナ、起きた?」


 部屋に入ってきた兎耳の少女──アリスはいつも通りフラフラ揺れながら、幼女を必死に隠そうとしているヒガナを眺める。


「よ、よぉ、おはようアリス」

「……おはようじゃない、こんにちは」


 見ると、アリスは寝る時のネグリジェではなかった。それに太陽の位置からすでに昼のようだ。


「お、おう、そっか。俺、随分と寝てたみたいだな」

「……私のおっぱいに顔突っ込んでから二日くらい寝てた」

「俺は一体何をしていたんだ?」


 意識が無くなる前の自分に対する心からの疑問だった。

 それと同時に自分が丸二日も寝ていたことに素直に驚いた。それほどの負荷を浴びた原因を探してみるが、ノイズがかかってしまい特定できない。


「……昨夜はお楽しみでしたね」

「それ意味分かってんの?」

「……よく分かってない……ヒガナ、教えて」

「断固拒否する」


 妙にハッキリとした拒絶にアリスは不思議そうに首を傾げる。気持ちに連動するかのように兎耳も垂れ下がっていた。


「……ならいい……それより」

「どした?」

「……なんで、さっきからルーチェ隠してるの?」


 ヒガナの隠蔽工作が無意味だと分かった瞬間である。

 固まって冷や汗ダラダラのヒガナに対して、アリスは面白いくらい通常運転だ。


「ち、違うんだアリス! 俺にも何がなんだかさっぱりなんだ! 朝起きたらベッドに全裸の幼女がいるなんて……」

「……嬉しかった?」

「うん。っ、じゃなくて!」

「……ヒガナは正直者……変態野郎」

「アリスも大概正直者だな! シンプルな悪口ほど傷付くものはないからね!?」


 哀しみのツッコミを華麗にスルーしたアリスは僅かに頬を緩めて親指を立てた。因みにこのジェスチャーの意味をアリスは全く知らないのだが、ヒガナが以前やっていたのでやってみただけである。


「……ろりこんでも私は気にしない」

「なんでそんな言葉知っているんだよ……つか、ロリコンじゃねぇし」

「……そうなの?」

「そうなの。で、そろそろ教えてくれないか? この状況」


 焦りを通り越して逆に冷静になった頭で考えれば簡単に分かることだった。

 この現状を見ても眉一つ動かさず、淡々と小馬鹿にしているアリス。となればこの状況になった理由を知っているのは当然だろう。

 ヒガナはアリスに遊ばれていたのである。


「……ヒガナとルーチェ、寝てたからベッドに寝かせただけ……服はノノが洗濯してる、本当は必要ないけど」

「ざっくりだな。服洗ってんのは分かったけど、服は着せてあげようぜ?」

「……ヒガナが喜ぶって、エマが」

「っざけんな! 心臓止まるかと思ったわ!」


 要らぬ心遣いに腹を立ててから、ヒガナはベッドから立ち上がる。足が床についた途端にふらついてアリスの方に倒れ込む。

 咄嗟にアリスはヒガナを受け止め身体を支える。


「……いきなり立つのは危険」

「悪ぃ、助かった」


 肩を借りて、ヒガナは部屋に置かれた椅子に座った。

 ヒガナはベッドで寝たままのルーチェを一瞥してから小さく息を吐く。

 すると、


「アリスさん、ヒガナさんは……っと、起きたみたいですね」


 開かれた扉からひょっこりと顔を出した濡羽色の髪と金色の瞳が特徴的な少女──エマは表情を綻ばせ部屋に入ってきた。


「気分はどうですか?」

「余計な計らいをされてご立腹だな」


 軽口で言って、顎でベッドを指す。

 エマは腰に手を当てて悪戯な笑みを見せる。

 こうして見ると年相応の少女だな、とヒガナは思った。


「本気じゃなかったんですけどねぇ。替えの服がなかったものですから」

「さいで」


 すると、ベッドで寝ていたルーチェが小動物のような声を漏らしながら起き上がった。

 ルーチェはキョロキョロと周りを見てから、視界にヒガナを捉えると表情を明るくしてベッドから飛び降りてトコトコと寄ってきた。


 艶やかな光沢を放つ漆黒の髪、夜空に燦然と輝く紅月を閉じ込めたような銀朱色の瞳。

 幼さしか感じさせない愛くるしい顔立ち。ほっぺも仄かに赤く、幼さを助長する。

 雪のように白く透き通った肌と桃色の唇から覗く鋭く尖った歯が最大の特徴と言えるだろう。


「おお、目を覚ましたか! 礼を言おうにも寝ている奴に言っても無意味じゃからの。目を覚ますのを待っておったぞ!」

「前! 前隠してくれ! 見えてるから、全部丸見えだから!」

「余に見られて恥じる部分なぞないわ。見たければ存分に見るがよい。起伏は皆無じゃがの」


 堂々とした立ち振る舞いにタジタジのヒガナはパーカーを脱いで、ルーチェに着るように勧めた。


「とにかくこれを着てくれ! 全裸の幼女とおちおち会話なんてできねぇ!」

「うむ、なかなかに良い着心地じゃ」


 案の定パーカーはぶかぶかで袖が長過ぎるワンピースを着ているみたいになっている。

 ルーチェは着心地が気に入ったらしくご満悦だ。


「ところで礼って? アリスの胸に顔突っ込んで寝てたとしか聞いてないんだけど」


「何をどう聞いたらそうなるんですか……。彼女の首に付いている霊装ありますよね。あれは禁忌霊装と言って、装備した相手に強力な呪いを付与するんです。呪いは彼女の肉体だけではなく精神も蝕んでいました。しかし、ヒガナさんが霊装を破壊したので呪いが弱まったんです」


「そうなのか?」


「えぇ、今は長時間の活動は厳しいようですが、時間が解決してくれるでしょう」


 それを聞いて、ヒガナの中に小さな達成感が湧いた。


「お前様には心の底から感謝しておる。余にできることならば何でもしよう」


 できることといっても、そこいらの幼女と変わらぬがの、とルーチェは苦笑する。


「それなら一つ質問」


 ヒガナは一拍置く。

 これは異世界召喚された時からずっと疑問だった。

 いくら考えたところで答えなど本人に聞いてみないと分からない。だが、その本人も不在となればお手上げ状態だ。

 そんな時に脳裏に割り込んできた知らない記憶。


 それはルーチェに関連する記憶だった。ソロフォロニウス城に漂う残滓が見せただけかもしれない。

 だが、ヒガナはルーチェとの邂逅を単なる偶然とは思えなかった。アリスと出会った瞬間からこの結果は決まっていたのではないか、そう思うほどに。

 その真相を知るためにヒガナは質問をぶつけた。


「──俺を呼んだのは君なのか?」


 その問いにルーチェは黙り込む。

 沈黙が空間を演出し、一秒一秒の時の流れが酷く遅く感じた。

 このまま時が止まってしまうのではないかと思ったが、突如として静寂は破られる。


「済まぬ。その問いの答えは余には出せぬ」

「え?」


 予想外の答えにヒガナは素っ頓狂な声が出た。

 肯定か否定のどちらかだと思ったが、まさかの回答拒否。

 困惑しているヒガナに、ルーチェは申し訳なさそうに真実を告げる。


「実は記憶が殆んどなくなっておるのじゃ。名前も以前何をしていたかも、そこのアリスに教えて貰い知った始末じゃ」

「それじゃあ」

「現状では分からぬ。余自身、答えが分からん」


 どっちつかずの結果にヒガナは後頭部をさすりながら少し笑った。落ち込みや期待外れといった感情は一切無い。

 どこまでも穏やかな表情だった。


「そっか、ならいいんだ。それによく分からないけど、君を助けることができたみたいだし結果オーライだ」


 嘘偽りのない本心だった。

 一人の幼い少女を助けることができた。

 これまでの努力に見合った十分な報酬だと、ヒガナは思って、ルーチェに手を差し出す。


「俺はスオウ・ヒガナ」

「ルーチェ・ファーデウス・ヘレルシャレル、らしい。よろしく頼むぞ」


 握手を交わす。

 とても柔らかくて小さな──でも、温かい手をしていた。

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