第11話 『たった一言に全ての想いを』
ヒガナの話を聞き終えたウォルトは口から紫煙を吐き出して、モニカと視線を合わせる。
モニカは顔や身体を動かさず、紫紺の瞳だけを動かして辺りを把握する。フードを被っているので正面以外からは視線の動きにはまず気付かないだろう。
「ヒガナさんの背後、一番高い建物の屋上。影に隠れて双眼鏡らしき物でこちらを見ています。見えるのは女性だけです」
モニカは自分の身体をアリスと重ねるように動いてから囁き声で報告する。相手からすればモニカは正面を向いている状態。口の動きで内容を知られないようにしたのだ。
報告を受けたウォルトはヒガナに肩を回して、監視している者に背中を向ける。理由はモニカと同じ。
「ヒガナの話が冗談だったら、俺は気楽に次の煙草に火を付けていたところだ。だが、現実は俺に煙草を吸わせてくれないらしい。にしても、よく気が付いたな。アレは間違いなくヒガナたちを監視している」
「これからどうすれば?」
「とりあえずは冷静になって、だ。繰り返すが、敵は男女二人組で特に厄介なのが女の方、だったな」
ヒガナは素早く小さく頷く。
ノインこそが最大の障壁だ。これまでに三回死んでいるが、その全てに彼女が関与している。鼓膜に張り付いた嘲笑は反射的に死を連想させる。最悪のパブロフの犬だ。
死への恐怖が身体を強張らせて、震えが収まらなくなる。
そんなヒガナに対して、ウォルトが呟く。
「大丈夫だ。アイツらは俺たちが片付ける。だから、ヒガナは兎のお姫様と仲良くディナーでも楽しんでいてくれ」
「でも……」
不安そうなヒガナを安心させるように、モニカが自信満々に囁く。
「相手側の情報が手に入った時点でこちらは有利。それにウォルトさんは意外に強いですし、そこに私のかんぺきなサポートが合わされば向かうところ敵なしです」
「そういう訳だ。これで一旦別れる。次に会った時は綺麗さっぱり終わってるさ」
ウォルト、モニカなら何とかしてくれる。
雰囲気というか、空気感というか、このコンビからは安定感を感じるのだ。
脅威に対処できる。
それだけで気持ちは軽くなった。
同時に一人ではアリスを守ることはおろか、自分の身すら満足に守れない事に悔しさを覚えた。
できることなら自分の手でアリスを守りたかった。
──そう思ってしまうのは傲慢なのか?
ヒガナに答えを出せない。
負の思考ループにハマりかけているのを自覚して、意識を無理矢理切り替えた。
ウォルトとモニカにもう一つ伝えないといけない事があるのだ。
×××
とある建物の屋上。
二つの影が闇夜に紛れながら言葉を交わしていた。
「──それで、死神と別れた後に三人で服屋に向かって……あ、でも、途中で飼い主が一人でどっか行ったと思ったら、ノッポの男と一緒に戻ってきて少し話をしてから別れたって感じ」
そう対象と対象周りの人物の行動を報告するのは、黒装束に身を包む赤髪の少女──ノインだ。
報告を無言で聞いていた仮面の男──アインは顎に手を当てて思案の素振りを見せる。
その様子を橙色の瞳で眺めながら、つまんない男、とノインは内心で呟く。
真面目、命令に忠実、理性的──組織人としては優秀だが全く面白みのない、仕事以外では付き合いたくない、というのがアインに対するノインの評価だ。
「男の特徴は?」
「え? えっと……ノッポ、灰色のボサボサ髪、スーツみたいな服を着てた。やる気なさそうな感じ」
「そうか」
「死神といいさ、何でもかんでも気にして頭おかしくなんないの?」
「必要があるからしてるだけだ」
「ふーん、あっそ」
それからしばらく思案した後に、アインはノインに命令を出す。
内容を聞いたノインは面倒臭そうな表情を露骨にした。
「えー何でそんなことしないといけないの?」
「念には念をだ」
「死神はともかく、あんなノッポまで警戒する必要あるの?」
「俺が警戒しているのはソイツらじゃない」
「はぁ!?」
「今後のためにも覚えておけ。一番警戒する必要があるのは最も弱い奴だ」
×××
それから時間は過ぎて────。
男たちが行動を開始しようと、屋上から離れようとした時の事だった。
靴先にコツン、と何かが当たった。
見下ろした先にあった筒状のそれを見て、男は咄嗟に瞳を瞑る。
相方に指示するよりも前に筒が凄まじい輝きを放ち、漆黒の闇を一瞬だけ吹き飛ばす。
まぶたの裏からでも感じる輝きを無視して、男は全神経を耳に集中させる。
この後に誰が来るかは予想していた。
狙いもある程度は予想できる。
問題はタイミングのみだ。
一秒、一秒の経過があまりにも長い。
相方はまともに閃光を喰らったようで悲鳴をあげている。
それが集中を乱す。五月蝿い。黙っていろ。
靴音が聞こえた。
知らない靴音────。
男はナイフを構えて、瞳を見開く。
だが、その瞬間に甲高い音が響き、続いて腕に衝撃。それによって握っていたナイフが宙を舞い、建物に広がる闇へと消えていった。
痺れる腕を押さえながら衝撃が飛んできた方向を睨みつけた。
そこに居たのは予想通り、灰色の髪をした男だ。彼の手に構えられている黒光りする物体。それは王国では滅多にお目にかかれない銃という代物だ。
「ウォルト・クルシェノヴァだな」
「大層な仮面付けて、筋金入りの恥ずかしがり屋か?」
ウォルトは未だに目を押さえて呻く相方を無視して、一直線に男へと向かってきた。
長い脚は数歩で互いの距離を詰めてしまう。彼の身体に硬さは一切ない。まるで戦闘も生活の一部と大差無い、と言わんばかりに自然体だ。
男は予備のナイフを素早く取り出す。
刃の輝線が闇夜を走る。
それを最小限の動きで躱すウォルト。それと同時に彼の長い脚が唸りを上げた。
一撃でナイフを叩き落される。続く二撃、三撃、四撃が男の腹部を貫く。その間、ウォルトは一度も脚をさげていない。凄まじい体幹である。
まともに攻撃を喰らった男は屋上の床を転がり壁に激突する。
何度も咳き込みながらも立ち上がる姿を見て、ウォルトは違和感を覚える。が、違和感の正体を掴むよりも前に男が突っ込んできた。
ナイフは使わずに肉弾戦を選択。
互いの拳、肘、膝、脚が交差する。ウォルトの打撃が皮膚を掠めるたびに焦げ臭さが鼻腔を刺激して、今行っているのは命のやり取りだと感じる。
時間が長引くごとに実力差が明らかになっていく。
ウォルトが明確に押し始めた。彼の脚を主体とした攻撃が男に当たり始める。
その事実に男は悲観しない。
寧ろ、当然の成り行きだと思っていた。
一旦、距離を置いて男はようやく現状を理解した。
相方が床に伏せて身動き一つしていないのだ。遠目でハッキリと確認はできないが、息はしているようなので眠らされただけだろう。
「なるほど、本命はそっちか」
「もちろんアンタも本命さ」
ウォルトが相方を戦闘不能にした訳ではない。
彼にその余裕はなかった。
となれば、選択肢は一つに絞られる。
「モニカ・グリザイアか。影も形も見えず、気配すら感じない……まさに理想の諜報役だな」
「生憎だが、アンタは俺の相棒を見る前におやすみだ」
「ふん、だろうな」
このまま戦い続ければ男は確実に敗北する。
しかし、それで良い、と男は考える。
重要なのは個人の勝敗ではない。
任務達成が最重要だ。
ウォルトたちの襲撃は予想していた。
だからこそ、彼女は保険をかけておいたのだ。
今、その保険は最大限に活きている。
男は仮面の奥にある
×××
ウォルトと全く知らない、どこの誰かすら分からない男との戦闘を双眼鏡で覗いていたノインの口からはくすくす、と嘲笑が溢れる。
彼女が居るのは先程まで居た建物から大分離れた宿屋の屋根の上だ。因みに屋根の下には対象と飼い主が居る。
「無駄なことしてるとも知らないで。ご愁傷様って感じ?」
そう、ウォルトが戦っているのはノインが適当に捕まえて弄った一般人だ。彼は自分をアインだと思い込み、足止めに全力を尽くしている。
そして、倒れているノイン役の少女は彼の妹だ。
因みに戦えるように脳を手荒に弄ったので、ああしてその役目を真っ当に果たすことができている。全て終わったあと、兄妹にどんな後遺症が出るかはノインの知ったことではない。
夜風になびく赤髪を手で押さえながら、ノインは双眼鏡から顔を放す。
この状況を作り出したのはアインが警戒を続けていたからだ。
彼女はアインの用意周到さに感心というか呆れていた。
「慎重っていうか臆病じゃん。そういうところがダサいんだよね」
文句を言ってから、ノインは行動を開始する。
屋根から難なく室内に侵入。高級な宿屋ならある程度の計画は必要だが、ここは至って普通。侵入するなど朝飯前だ。
それから対象の泊まっている部屋まで進んでいく。
部屋の前に辿り着くと慎重に音を立てないように意識をしてドアノブに手をかける。
「鍵かけてないし」
思わずニヤついてしまう。
こんな簡単でいいのだろうか、と。
いや、これで良いのだ。大体、いつもいつも簡単なのだから。
暗殺、破壊工作、諜報活動──任務は多岐に渡るが、その中でも暗殺はノインからすれば欠伸が出る程に楽な仕事なのだ。
何しろ失敗する要素が無いからだ。
仮に対象に見つかっても、ちょっと脳を弄れば対象は無条件でノインを信頼してしまう。後は頃合いを見て殺して終わり。
今回なんて仕事としては最低難易度だ。
対象は頭のおかしい兎の亜人。その飼い主はいざとなったら腰を抜かして何もできないであろう一般人。
ウォルト・クルシェノヴァの介入は多少の問題だったが既に解決済み。
後は部屋に入って対象を始末してお終い。
もう、任務を達成した気になっていたノインは扉を開けた先に待ち構えていた人物をすぐには認識できなかった。
緩い曲線を描く濡羽色の髪、大きく輝く金色の瞳。天使を彷彿とさせる美しく可愛らしい少女。
彼女はノインに満面の笑みを浮かべて、
「こんばんは」
「────ぇ」
次の瞬間、ノインの腹部に強烈な衝撃が走る。
その正体は少女から繰り出された前蹴りだ。
全くの無防備で会心の一撃を喰らったノインは吹き飛び、壁に叩きつけられる。痛みと気持ち悪さが渦を巻き、胃液を盛大に吐き出した。
咳き込むノインに影が重なる。
涙目になりながら顔を上げると、少女が心底楽しそうな、悪辣な笑みで見下ろしていた。
ノインは咄嗟に力を使おうとする──。
「さようなら」
「────ぁ」
それよりも早く、少女の横薙ぎの一撃がノインの意識を完全に刈り取った。
×××
「大丈夫ですよ、ヒガナさん」
エマの軽い声色に反応して、部屋の隅でアリスの盾に徹していたヒガナの緊張が少しだけ緩んだ。
アリスを連れて、恐る恐る扉の方へ向かう。
そこには廊下で身動き一つしないで床に倒れている赤髪の少女が居た。その隣にはいつの間にか縄を持っているエマ。
「本当に倒せたのか?」
「えぇ、それなりに加減はしたので死んではいませんが、当分は起きないと思います。念のために縛っておきますのでヒガナさんたちへ危害は与えられないかと」
「そっか。……ありがとう、エマちゃん」
ウォルト、モニカに伝えたのはエマの存在だった。
実はファーストインプレッションの際にエマに助けを求めていたのだ。エマは前回同様に承諾してくれた。
味方が一人増えたことにより、各々の役目が振り分けられた。
ウォルト、モニカは襲撃者たちの撃退。
エマはヒガナ、アリスの護衛。
これでウォルトたちが失敗してもエマがカバーできるという布陣だ。
「………………」
今のところ状況はヒガナたちに有利となっている。
敵側の戦力を半分削いでいるのだから。
加えてノインを戦闘不能にしたのは大きい。
ヒガナは少しだけ釈然としない。
何度も何度も何度もヒガナを嘲笑い絶望の奈落へと落としてきた敵がこうもあっさり倒されてしまうとは。
確かに力は異常というか超常の代物だったが、ノイン自身の強度は普通の少女と変わらなかった。
「しかし、ウォルトさんたちは何をしているんですかね? 一人逃しているじゃないですか」
エマの苦言にヒガナの心中が騒ついた。
それは、直感と言ってもいい。
どうしようもなく抗えない、確信に近い何かがヒガナを支配した。
まるで別の自分が激しく訴えかけているかのようだ。
──違う。
──まだ、終わってない。
弾かれたようにヒガナは部屋の中に戻る。
その直後だった。
窓ガラスを突き破って、黒尽くめの男が部屋に侵入してきた。その顔には包帯が幾重にも巻かれており全体像は一切把握できない。
だが、それがアインだとヒガナはすぐに分かった。
アインは懐から取り出したナイフを構えて、状況を理解できずに立ち止まっているアリスへ突進する。
「うおぉぉぉぉぉぉ──っ!!!」
ヒガナは恐怖を無視して身体を動かした。
たった一つの目的。
──アリスを守る。
この瞬間、頼れるのは自分しかいない。
どうなっても構わない。
胸に抱いた願いを成就することができれば。
ヒガナの黒瞳に宿るのは常軌を逸脱した執念だった。
アリスとアインの間に己の身体を割り込ませて、執念の成就を果たす。
「──っ!?」
「……ヒガナっ」
驚愕するアインに対して、ヒガナは腹部に激しい痛みを感じながらも笑みを零した。
ナイフは勢いもあって深々と突き刺さっている。肉の裂け目から鮮血が溢れて、Tシャツに赤黒い滲みが広がっていく。
アインは咄嗟にナイフを抜いて離れようとするが、ヒガナが腕を力強く掴んで離さない。
急速に顔色が悪くなる中でヒガナはアインに言葉を呟いた。
「アリスは……絶対に守る……」
「お前っ!!」
引き攣った声が響くと同時に、アリスの貫手が走る。
彼女の一撃は直撃を回避したアインの額を切り裂き、鮮血を噴き出させた。包帯が赤く染まっていく。
アインは強引にヒガナを引き剥がして、体勢を立て直そうと距離を置く。
だが、いつの間にか背後に回り込んでいたエマの脚がしなる。少女の膂力とは思えない脚技はアインの左腕をいとも簡単に砕き、勢いで身体を壁へと叩きつけた。
「ぐっ……」
追撃に対応するために懐からナイフを取り出す。が、次の瞬間に右腕を襲う衝撃によって得物を離してしまう。
アインは衝撃のした方向に視線を向ける。
宿屋の向かい側にある建物。そこには銃を構えたウォルトの姿があった。銃口からは煙が上がっていた。
アインは舌打ちをする。
「ここまでか」
魔力を脚に纏わせて瞬間的に強化する。
一時的に超人的な脚力を得たアインはアリス、エマ、ウォルトの隙をついて駆け出す。
アインが向かったのは廊下だ。倒れているノインを未だに痺れる右腕で抱えて逃亡。
アリスとエマが廊下に出た時にはアインたちの姿はどこにも無かった。
一方、部屋の中で倒れているヒガナの元に窓から飛び込んで来たモニカが駆け寄る。紫紺の瞳には焦りが見えていた。
「ヒガナさん! 大丈夫ですか!?」
「あ、あぁ……すっげぇ痛い」
「待っててください。今すぐに治癒しますから!」
モニカはヒガナを仰向けにしてTシャツを捲り上げて患部を露わにする。鮮血が止まることなく溢れて、ヒガナの生命力を体外に吐き出している。
患部に小さな手をかざして、モニカは治癒魔術を行使する。淡く温かい輝きが部屋を照らした。
「お、俺……何も役に、立てない…….」
「いいですよ。しゃべって意識を保っててください」
「で、でも、盾くらい……なれた……かな……」
朦朧とする意識の中でヒガナが見ていたのはアリスだった。
アリスはヒガナの前で膝をついて困惑した表情でヒガナに問いかけた。
「……何で?」
「君を、助けたいって……そう、思ったから」
その答えにアリスは首を横に振る。頭の動きに合わせて亜麻色の髪と兎耳が揺れる。瑠璃色の瞳に浮かぶ困惑の色は更に濃くなった。
「……分からない……何も分からない」
「俺も……分からない。でも……」
ヒガナはゆっくりとアリスの頬に触れた。温かい。アリスが生きているという証明を手のひらにしっかりと感じて、微かに笑いが零れる。
そして、心からの想いを伝えた。
「生きていて、くれて……本当に……良かった」
訳も分からずにアリスはヒガナの手に己の手を重ねた。その時、胸の鼓動が高鳴った気がした。何が起こったかは理解できない。
ご主人様は身を挺して守ってくれた。奴隷である自分を。ここまで大切に扱ってくれる主人がいただろうか、と問われれば首を横に振るしかない。
これまで生きてきて初めての経験にアリスは無理解と言いようのない嬉しさを感じた。
この想いをどうしても伝えたい。だけど、言葉が見つからない。
だから、アリスはたった一言に全ての想いを込めた。
「……ありがとう」
その言葉を聞いた瞬間にヒガナの心は満たされた。
感謝されたくてやった訳ではない。
それでも、彼女の言葉はあまりにも芯に響いた。
これまでに体験した全ての苦痛や苦しみが報われたような気がした。
己の身体を優しく包み込んでいる温かさと柔らかさを──苦難の連続の末にようやく掴み取った未来への祝福を感じながら、ヒガナは微睡みの中へと意識を沈めた。
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