第8話 『死の脅威』


 セルウスという街を知るのに適した時間帯は夜である。

 奴隷を買いにやって来た客を向かい入れる商業区画は夜の帳が下りようとも賑やかさと灯りは消えることがない。

 奴隷市場は灯りは少なく静けさが勝る。時に奴隷の叫び声や啜り泣きが聞こえる程度だ。

 そして、廃棄区画は灯りというものはほぼ存在せずに沈黙している。


 商業区画──特に宿泊施設が建ち並ぶ場所に黒装束の少女はいた。

 とある建物の屋上から双眼鏡で特定の人物を先ほどから監視している。

 しかし、特に動きがないのか赤髪の少女──ノインは面白くなさそうに唇を尖らせた。


「つまんなーい。たーいーくーつー」


 屋上の縁に座っていたノインは足をフラフラとさせながら双眼鏡から目を離す。

 それから立ち上がって、大きく伸びをしたり腰を捻ったりして固まった身体をほぐしていたら、背後から厳しい口調で声をかけられた。


「対象から目を離すな」


 ノインが振り向く。

 視線の先には夜風に長髪をなびかせる仮面の男──アインが立っていた。髪は黒色、仮面も黒色、服装も黒色──全身黒一色の彼は殆ど暗闇と同化している。

 灯りがあるおかげで輪郭は辛うじて認識できている。


「ちょっとくらい休んでもいいじゃん。動きらしい動きもないし」


 アインはノインから双眼鏡を受け取り、対象の動きを確認する。

 現在は宿泊している部屋で連れと会話をしていた。

 忌々しそうに舌打ちをした後に双眼鏡をノインに返す。


「お前が監視していた間、変わったことはあったか?」


 質問に対してノインは数時間に及ぶ監視の記憶を呼び起こして、くすくすと笑い出した。

 それは紛れもない嘲笑だった。


「聞いてよ。対象の飼い主ね、女と話してたら急に倒れちゃったんだ。アインにも見せてあげたかったなー。あの倒れ方は滑稽過ぎ」


 楽しそうに話すノインとは対照的にアインは顎に手を当てて思案する。


「それはフードを被っていた子どものことか?」

「ううん、別の奴。噴水の所でフードが対象を治療していた時に偶然通りかかってきたの。フードとは面識があったらしくて声をかけたみたい」

「容姿は?」

「何でそんなに気にするの?」

「早く言え」


 有無を言わせない口調にノインは不満そうに頬を膨らませながら容姿を思い出して特徴を羅列する。


「えっと、小柄で黒髪、金色の眼をしてた。それにムカつくけど超可愛いって感じ」

「そうか」

「ねぇ、それが何なの? 教えてよ、アイン」


 詰め寄るノインを一瞥してアインは呆れたように溜め息を吐いた。

 それから壁に背中を預けて腕を組む。


「恐らく帝国の『死神』だ」

「うっそ!? あんな小っちゃいのが?」

「見た目で判断するな」


 驚愕する相方を冷めた口調で嗜める。


「でもさ、あの小っちゃいのが『死神』だとして何で王国に居るの? 普通に危険過ぎじゃん」


 投げかけられた問いかけにアインは小さく笑った。


「お前はアレを大量殺戮兵器か何かだと思っているのか?」

「サイベリアン紛争、不浄の祭日、沈黙の帝都……数え上げたらキリがないくらい殺しているじゃん」

「確かにな。だが、今回に限っては帝国、王国──両国合意の上でアレは王国を訪れている。枷はされているだろうから国としてはさほど問題ではないだろう」

「そもそも何で王国が死神を? 訳分かんない」


 アインは仮面の奥にある瞳を細めて、忌々しそうに呟いた。


「自らの罪を直視できないからだ」

「何それ?」

「分かる必要はない。その後の動きは?」


 素っ気ない態度に不貞腐れながらノインは、対象の飼い主が倒れた後のことを淡々と説明した。


「──それで、死神と別れた後は宿を見つけてから呑気に夕食、今に至るって感じ」

「そうか。ノイン、これを持っておけ」


 説明を聞き終えたアインは頷いてから、懐から取り出した何かを投げる。

 放物線を描きながら空を移動してノインの手の中に綺麗に収まった。が、指の隙間から落ちてしまう。

 拾って、渡された物を確認した彼女は眉を顰める。


「何でこんな物を持ってなきゃいけないの?」

「保険だ」

「あっそー。別に何でもいいけど」


 ノインは受け取った代物をしまい、普段より若干低めの声で問う。


「で、決行は?」

「対象が寝静まってからだ」

「飼い主の方は?」

「生死は問わない」


 小さく息を吐いてから、ノインは再び双眼鏡を覗き込む。これといって変化の無い対象の動きを面白くなさそうに監視しながらアインに話しかけた。


「てかさ、今更アリス・フォルフォードの暗殺ってどういう風の吹き回しか分かんなくない? ずっと問題を棚上げにして放置していたくせに」

「命令に従うのが俺たちだ。余計な考えをする必要ない」

「ウソばっかり。いつも余計なことばかり考えているくせによく言うよ。今回の任務だって色々思うとこがあるくせに」


 アインが身体の正面をノインの方へと向けた。


「どういうことだ?」

「気負い過ぎ」


 指摘されて、自分の身体が強張っていることに気が付いた。

 アインは鼻を鳴らして、


「お前が下手打たないか気を揉んでいるだけだ」

「なにそれー。人のせいにするとかありえない」


 それから時間は過ぎて──。


 対象が泊まっている部屋の灯りが消えたことを確認して、アインとノインは行動を開始した。



×××



 難なく宿へ潜入した二人は、対象が泊まっている部屋へと迷いなく進んでいく。

 随分と古びた建物で床も本来なら踏みしめるだけで軋んでしまうほどだが、彼らの足音は一切無い。

 音を立てない歩き方を完全に習得しているのだ。


 目的の部屋に辿り着く。

 ノインが軽い気持ちでドアノブに手をかけようとするのを制止する。

 彼女を後ろに下げ、アインがドアノブを掴んで捻る。


「締まっているな」


 呟き、アインはしゃがんでピッキングを開始する。

 ものの数十秒で解錠したアインは道具をしまってから立ち上がる。

 仮面の奥の瞳を鋭くし、警戒心を最大限に高めながら懐に隠し持っているナイフに手を添える。


「気を引き締めろノイン」

「何で? 寝ている対象の首をスパッとすれば終わ……」


 それは直感か、これまでの経験か。

 全身を蝕む悪寒に頭で考えるよりも早く身体が動いた。

 相方の頭を掴み、勢いよく床に伏せる。

 突然の暴挙にノインは隠密行動中ということを忘れて声をあげる。

 が、彼女の苦情は扉を貫き、壁に突き刺さる大量のナイフが奏でる音によって掻き消された。


「な、何コレ?」

「やはりこうなったか」


 アインの声色に落胆も驚愕もない。

 まるで、この先の展開を知っていたかのように淡々としていた。


 数秒間、身動きを取らずに様子を伺う。

 追撃が無いことを確認して、アインは即座に立ち上がる。そして、扉を蹴破って室内へと侵入した。


 それに追随してノインも入室し、飛び込んできた光景に目を大きく見開いた。


 部屋の中に居たのは対象と飼い主。

 そして、もう一人。


「──貴方たちはどんな断末魔を奏でてくれますか?」


 そう言って、死神は破顔した。



×××



 狭く薄暗い部屋に五人というのは中々に息苦しい。

 それに加えて天使のような少女が撒き散らす悍ましい殺気、兎耳の少女が放つ剥き出しの敵意、仮面の男が漂わせている敵意。

 全てが混ざり合って混沌とした空気が渦巻いている。


 その中でヒガナだけは今起こっている現実を現実と認識できていなかった。

 非日常への対応力がこの場に居る誰よりも圧倒的に足りない。

 まだこれが現実とは理解できずに意識が酷く曖昧になっていて、まるで夢の中にいるようだ。


 アインとノインが視線を交わらせる。

 それが開戦の契機だった。

 アインが一直線にヒガナたちの方へと迫る。ノインはその場から動く気配はない。

 

「簡単に本命を取れると思わない方がいいですよ?」


 ヒガナたちの前に移動したエマがアインの行く手を阻む。

 障害を排除しようとアインは懐から取り出したナイフで迎撃。

 当たり前のように飛び出してきた刃物にヒガナの身体が反射的に硬直する。

 それとは対照的にエマは硬直のこの字もなく自然体のまま、軽く跳ねて位置を調整して横薙ぎの蹴りを放つ。

 

 少女の一撃をまともに喰らったアインの身体が浮く。

 次の瞬間に衝撃が走り、仮面の男が窓を突き破って外に放り出された。

 小柄で華奢な少女のどこにそんな力があるのか、ヒガナは驚愕の隙間で疑問を浮かべていた。


 それについて深く考察することは叶わない。

 突如としてアリスがエマに襲いかかったのだ。

 見惚れるほどの脚線美から繰り出される、空間すら引き裂きそうな鋭い蹴り。


「おっと」


 死角からの一撃にも関わらず、まるで見えていたかのようにエマは地面スレスレまで屈んで躱す。

 その流れで足払いをしてアリスの体勢を崩した。


 エマはさして表情を変えずヒガナ、アリス、ノイン、それから窓の外に飛ばしたアインを見て呟く。


「あれ? もしかして私嵌められました?」


 ヒガナの奴隷であるアリスが攻撃してきたのだ。

 そう疑ってしまうのは仕方ない。

 しかし、ヒガナだけはエマの疑いを真っ向から否定することができる。

 アリスの不可解な行動が第三者によってもたらされたものだと知っているからだ。


「違う! アイツら……多分、女の子の方──ノインの力だ!」

「そう言われても納得しかねますね。ヒガナさんに絶大な信頼があるわけでもないですし」

「…………っ」


 もっともな意見だ。

 会ってから数時間程度の人間を手放しで信頼しろなど無理な話。


「うーん、面倒になって来たんで……全員殺しましょうか?」


 ありとあらゆる想いが混沌と渦巻いていた空気がたった一つ──あまりにも恐ろしく冷たい『死』という脅威に塗り潰されて凍りつく。

 全身を蝕む恐怖は皮膚を貫き、筋肉を硬直させて、内臓を凍えさせて、魂を禍々しく撫でる。


 これがたった一人の少女から発せられているものなのか。

 ヒガナの目の前が徐々に暗くなっていく。

 この抗いようのない重圧から意識が逃避しようと──。


「……っ」


 尻もちをついていたアリスが体勢を立て直して、エマに体当たりする。

 しかし、攻撃するためではなかった。

 アリスはエマを捕まえたまま、窓の外へと飛び降りた。


「──っ!? はぁ、はぁ……はぁ……」


 エマの放つ殺気に呼吸をし忘れていたヒガナは、慌てて酸素を身体に取り込む。

 あと、数秒エマと対峙していたら呼吸は完全に停止して、心臓の鼓動は永遠に聞こえなくなっていたかもしれない。


 落ち着いたヒガナは気付く。

 今、この空間には二人しかいない。

 死の原因となっている二人組の片方。

 謎の力で場を掻き回す、極めて厄介な少女。


 ──ここで無力化できれば……。


 そう思った矢先にノインが我に返って、状況を即座に把握してヒガナに視線を向けた。

 その瞬間にヒガナは動く。

 ノインがナイフを取り出すよりも早く腕を掴んだ。

 

 思った以上に細い腕をしてる。振り解く力はとても無さそうに思えるが油断は決してしない。

 この異世界では見た目と実力は比例しないことは十分に学習した。

 断じて離すものか、と必死のヒガナに対して、


「痛い! 離して!」


 どんなに腕を振ってもヒガナの手は離れない。

 そう、ノインの筋力は一般的な少女程度。ヒガナを振り解くほどの力は持ち合わせていなかった。

 瞳に薄っすらと涙を浮かべるノインを見て、一瞬だけ罪悪感が湧いてきたがすぐに掻き消した。


 目の前に居るのは自分たちを死に追いやった敵だ。

 ここで撃退しないと最悪の結末が訪れてしまう。

 いっそのこと腕を折ってしまおうか、と黒い感情がふつふつと沸き上がるヒガナ。

 しかし──、


「クソザコのゴミムシが」


 橙色の瞳に睨みつけられた瞬間に異変が起こった。

 それはヒガナ自身でも認識することができない極僅かな変化だったが、致命的な隙を生じさせることになる。


「──え」


 一瞬、瞬きをするくらいの時間にも満たないほどの刹那。

 ノインへの敵意が完全に消失した。

 それどころか、彼女を心から信頼できる人物とまで思ってしまったのだ。


 必然的にヒガナの拘束が緩む。

 その緩みをノインは見逃さずに腕を振り解いて、ナイフでヒガナの腕を切り裂いた。

 的確に筋繊維を断裂させた一閃にヒガナは絶叫しながらベッドに転がり込んで患部を手で押さえる。

 指の隙間から熱い液体が止めどなく溢れて、灼熱が腕全体を焦がす。


 ノインはベッドの上に乗り、ヒガナの腕を思い切り踏みつけた。わざとヒールの部分を傷口にめり込ませて執拗に動かす。


「あ゛あ゛っ!! があっ!! あ゛っ!!」

「どう? 痛い? 痛いよね? もっともっと苦しんで? 汚い悲鳴あげちゃえ」


 心底楽しそうにノインはヒガナを見下す。

 ひとしきり苦しむ姿を楽しんでからノインはヒガナの上に馬乗りになった。

 興奮で汗ばんだ額に赤髪を貼りつけながらノインは血塗られたナイフを切り裂いた腕の方へと動かす。

 だが、その際にナイフを落として舌打ちをする。


 ナイフを拾ったノインはヒガナを見て眉間にシワを寄せた。

 涙が溢れる黒瞳は再び蘇った敵意を剥き出しにしていた。


「はぁ? 何その眼……本当にムカつくんだけど!」


 ノインは怒りのままにナイフを振り上げて、ヒガナの腕へと突き刺した。

 鮮血塗れの腕から新たに鮮血が噴き出し、少女の顔に飛び散る。


 度重なる絶叫。

 それを無視して、血で汚れることなどお構いなしにノインは何度も何度もナイフを突き刺す。

 血が顔にかかるたびにノインは笑みを深めていく。


「あははは! ぐちゃぐちゃになっちゃってるよ? クソザコが調子乗るから悪いの。あーあ、もう二度と動かせないね。腕が使い物にならなくなっちゃった気分はどう? 教えてよ、ねぇ、ねぇ」


 数十回に渡り刺されたヒガナの腕はもはや原型を留めていなかった。皮膚はズタズタ、筋繊維や神経は四方八方に散らばり、骨の破片がそこらかしこにある。


 あまりの痛みに耐えきれなかったヒガナは放心。

 瞳は虚で口は半開き。

 この状態でも意識が残っていることを恨んでしまう。


「次はどうしようかな? 爪を剥ぐ。骨を一本づつ折る。お腹を切り裂く。目玉を抉る。……あっ! そうだ!」


 ノインは声を弾ませて懐から何かを取り出した。

 それを視界に入れたヒガナは凍りついた。これから起こるであろう展開を予想できてしまったからだ。


「そ、れ、は……」

「想いも尊厳も何もかも踏み躙ってあげる。ちゃんと後悔して? 嘆いて? 苦しんで? 限界まで来たら死んで?」


 絶望の嘲笑が再び聞こえた──。

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