第6話 『刻まれる嘲笑』


「ここです」


 呟くモニカが指さしたのは朽ちかけた酒場だ。

 他の建物と比べてもかなり老朽化が進んでいて、何かの拍子に倒壊してしまいそうだ。


 中に入るとアルコールと煙草の混じったような臭いが鼻を突き刺した。

 ヒガナは顔を顰め、アリスは手で鼻を覆い、モニカは咳き込む。

 三者三様の反応に対して、ボロボロのカウンター席に座っていた数人の男がぞろぞろと近寄ってきた。


 先ほどの奴らもそうだが、ここに暮す人々はとにかくガラが悪い。ちょっと癇に障っただけで酒瓶で殴ってきそうだ。


 威嚇の視線をすり抜けて、モニカは店の一番奥に座っていた男の前に立つ。

 男は三十代くらいで他と比べてまともな服装に身を包んでいる。がっしりした体付きで食べる物には困っていないようだ。

 両脇に数人の女性を侍らせており、全員が首に奴隷霊装を付けていた。


「お嬢ちゃん、俺に何か用があるのか?」


 ヒガナとアリスが追いつくと、男はモニカを濁った目で見つめ、しゃがれた声で問いかけた。


「はい。ここに……」


 モニカが質問しようとすると、男は手を突き出してから呆れたようにソファーにもたれかかった。

 それから合図をすると女性が煙草を取り出し、男の口に咥えさせて火をつけた。

 紫煙を吐き出しながら男は言う。


「名乗らない、フードで顔を隠したまま……礼儀がなってないな」

「そうですね。あなたのおっしゃる通りです。失礼しました」


 そう言ってモニカはフードに手をかける。少しの躊躇いの後にゆっくりとフードを脱いで綺麗な桃色の髪と愛らしい面貌を晒した。


「私はモニカと……」

「待て」


 再度、男からストップがかかる。

 眉間にシワを寄せて、不愉快そうにモニカを見下ろす。


「魔術か何か使ってるだろ? お嬢ちゃんがはっきりと認識できない。何だこれ気持ち悪いな」


 ここで初めてモニカの表情に動揺が見えた。


「すいません。魔術は使っています。でも、解くのは……」

「解け」

「それは……」


 渋るモニカ。

 すると、男は近くにいた女性の一人を思い切り殴った。女性は地面に倒れ込み、殴られた箇所を押さえながら震える。

 男は殴った手を揺らしながら、


「俺は気が短いんだよ。お嬢ちゃんがそれ解かないっていうなら、どうなるか分かっているよな?」


 いつの間にかヒガナたちを囲むように室内にいた全員が集合していた。

 男の鶴の一声で一斉に襲ってくるのは確実。

 冷や汗が滲んでくる。

 一触即発の空気にアリスは主人を守ろうと警戒心を高めていく。


「分かりました! 解きます、解きますから二人には危害を与えないでください」

「早く解け」


 モニカは言われた通りに術式を解いた。

 その瞬間、周りの男たちが悲鳴まがいの声をあげて距離を置く。奴隷の女性たちは引き裂くような悲鳴を響き渡らせて壁際へと逃げる。

 男も驚きと恐怖に顔を引き攣らせていた。先ほどまでの高圧的な態度が嘘のようだ。そして、自分を落ち着かせるかのようにテーブルに置いてあった酒をグラスに注ぎ始めた。


 ヒガナは何が起こっているのか全く分からない。なぜ、皆がモニカを見て恐怖に慄いているのだろうか。

 モニカは酷く冷めた口調で男に話しかける。


「これで満足ですか?」

「も、桃色の髪……その耳……グリザイアか……」

「そうですよ。モニカ・グリザイアと言います」

「『厄災』を撒き散らす忌々しい存在が俺に何の用だ?」


 冷静さを取り戻したように振る舞う男だが、酒が入ったグラスを持つ手は小刻みに震えていた。


「あなたは廃棄区画に捨てられた奴隷を使ってお金儲けしていますよね?」

「それが何だ? 使えなくなった物をどう利用しようと俺の自由だ」

「ここ数時間の間に灰色のもじゃもじゃ髪の男の人が訪ねて来ませんでしたか?」


 男は一気に酒を流し込んでから、


「ああ、来た」

「本当ですか! ここから出る時に次はどこに行くとか言ってませんでしたか?」


 ついに掴んだ相方の尻尾にモニカの声のトーンが上がる。

 それとは対照的に男のトーンは低くなり、尋常じゃない汗をかいていた。


「何も聞いてない。……顔を隠せ。見てるだけで気分が悪くなる」

「そうですか。なら、死んでください」


 そう言って、モニカは懐からナイフを取り出して男の心臓に容赦無く突き刺した。

 男は呻き声を上げながらソファーから転げ落ちて、もがき苦しむ。


 一瞬のことでヒガナは呆気に取られた。

 モニカが凶行に及ぶような子ではない、とこれまでの数時間が告げている。

 しかし、裏を返せばたかだか数時間。

 それで人の裏表を完全に把握することなど不可能だ。


 今、こうして無感情にナイフを突き刺すのがモニカの本性なのかもしれない。

 でも、それでも。

 ヒガナは叫ばずにはいられなかった。


「何やってんだよ、モニカ!」

「何してるんですか、ヒガナさん!」


 ヒガナの声とモニカの声が重なる。

 しかも、ニュアンスも切迫感も緊張感も全く同じ。

 恐ろしいほどの合致に思考が停止する。


「…………え?」

「あ、あれ?」


 奇妙なことが起きていた。

 モニカは男と話をしていた場所から一歩も動いていない。

 勢いよくヒガナの方を振り向くモニカは、困惑の色を浮かべた。

 二人は顔を見合わせる。


「今、モニカが刺したよな?」

「いえ、ヒガナさんが急に刺し……え?」


 両者の意見が噛み合わない。

 ただ、ヒガナもモニカも自分ではないということはだけは頑として譲らない。


 男たちは困惑気味に男の元に駆け寄り、命を繋ごうとする。その中で各々の意見を口に出した。


「グリザイアが殺ったよな?」「何言ってんだよ、黒髪のガキだ」「いや、兎耳の奴隷だって」「俺見てたぞ、お前が刺した!」「俺がボスを刺すわけないだろ! コイツだ!」「ち、違う! 俺が見たのは……」


 白熱する男たちの言っていることは誰一人として同じ意見が無かった。

 全員が別々の犯人を指差す。

 混沌が室内に渦巻き始めた。


「何だこれ? どうなっているんだ? ……アリスはどう見えた?」


 ヒガナは縋るようにアリスに答えを求めた。

 しかし、その問いは彼女の兎耳には一文字も届いていなかった。


「アリス?」

「……いる」


 警戒心を限界まで引き上げ、臨戦態勢に入るアリス。瑠璃色の瞳には主人を命を賭して守ろうとする覚悟が宿っていた。

 兎耳をピンと立てて、雑音の中から特定の音を聞き分けようと躍起になる。


 騒音の中、ヒガナは聞き覚えのある声が耳に入り込んできて心胆が凍えた。


「────っ」


 くすくす、くすくす、くすくす────。

 明らかに他者を見下し、嘲笑う声が四方八方から聞こえてくる。

 それは死の間際に聞こえてきた嘲笑と全く同じ声色、声質だった。


 恐怖がヒガナの全身を蝕み、膝が震え始める。

 立っていることすら出来ずに崩れ落ちて、これ以上聞きたくないと耳を塞ぐ。


「何? ビビってんの? なさけなーい」


 気配を感じて瞑っていた目を開くと、歪んだ笑みを浮かべた顔が覗き込んでいた。

 黒い服装に身を包んだ華奢な体躯をした少女だ。燃え盛る炎を彷彿とさせる赤髪、鮮やかな夕陽を連想させる橙色の瞳。

 しかし、その瞳に宿る狂気は背筋を凍らせるには十分過ぎる。


 初めて見る顔だった。

 だが、塞いだ耳から微かに聞こえてきた声は馴染みのあるものだった。

 驚愕し、鈍る思考を必死に回転させながら、やっと口を開く。


「誰……だ?」

「つまんない質問。もうちょっと面白かったら教えてあげてもいいけど、教えてあげなーい」


 他者を小馬鹿にしたような口調と表情。ワザと人の神経を逆撫でしているとしか思えない。

 しゃがんでヒガナと視線を合わせている少女は嘲笑を決して絶やさない。


 ワンテンポ遅れてアリスが少女の存在に気付き蹴りを放つ。振われた脚は直撃し、軽々と吹き飛びソファーに叩きつけられる。


「は?」

「……え?」


 直後にヒガナとアリスは驚愕。

 ヒガナに至っては驚きのあまり立ち上がった。

 蹴られた頬を押さえながら呻き声を漏らすのはモニカだった。口端からは一筋の鮮血が垂れていた。

 モニカはなぜ自分が攻撃を受けたのか全く理解してない。


「何で……?」


 問いに返すことはできない。

 ヒガナもアリスもなぜモニカにすり替わっていたのか理解不能なのだ。


「うわっ、傷を治してくれた相手を蹴り飛ばすとか最低。でも、最低最悪のゴミクズエルフの一族だから仕方ないか」


 いつの間にか少女は心臓からナイフを生やしている男の傍らに立っていた。

 彼を心配して集まっていた男たちは全員地に伏せていて、一人残らず鮮血を床に撒き散らし絶命していた。

 男はなかなかにしぶとく、辛うじて息を保ち、生を掴み取ろうと足掻く。


 必死に足掻く男の姿を虫を見るかのように冷えた視線で少女は見下し、突き立てられているナイフを黒いブーツで踏み付ける。


「あ゛あ゛っ、ああっ、あ゛あ゛あ゛っ……」

「あはははっ、もっと汚い悲鳴あげちゃえ。こんなのがまとめていたとか廃棄区画ザコ過ぎて笑える」

「だ、だすげ……だす……」

「命乞いとかダッサ。生きてる価値無いからさっさと死ねば?」


 次の瞬間、男から鮮血が吹き出す。

 必死に生きようとしていた男は糸の切れた人形のようにぐたりとなり、それ以降二度と動かなくなった。


 少女がやったのではない。

 風前の灯となっていた男の命を奪ったのは新たに出現した存在。

 いつからそこに居たのかは不明。

 しかし、その仮面の男は明確な形を保ち、その場に存在していた。


 手入れが行き届いてない黒色の長髪に、己の面貌を他者に見せるのを拒絶するかのように仮面を装着している。無駄を削ぎ落とした引き締まった肉体は黒づくめの衣装に包まれている。


 仮面の男と少女の服装は非常に似ていた。


「下らないことに時間を使うな、ノイン」

「何それ? アインだって傍観してただけじゃん」

「状況を見極めていただけだ。──片付けるぞ」


 アインと呼ばれた男は仮面の奥から覗く瞳で少女──ノインを睨みつける。

 ノインは肩を竦め、死体に突き刺したナイフを引き抜いてヒガナたちに視線を向けた。


「はーい。こんな汚くて臭い所から早くさよならしたいし」


 ノインがナイフを投擲する。

 勢いよく放たれた刃物は吸い込まれる様にヒガナの喉元へと向かっていった。


「……っ」


 アリスは持ち前の動体視力でナイフの動きを追い、ヒガナに届くより前に掴み自分の武器とする。

 アインが死体を飛び越えて距離を詰める。その手にはナイフ。彼の視線はヒガナに注がれていた。


 ヒガナは恐怖で一歩後ろに下がる。

 それと同時にアリスが庇うように前に出てアインと対峙した。

 互いのナイフが激突し、火花が飛び散る。


「邪魔だ、退け」

「……邪魔はそっち」


 アリスの膝蹴りが疾る。

 だが、彼女の攻撃を見越していたかのようにアインが一撃を防ぐ。冷静な対処を行いつつ、敵の胸ぐらを掴み強引に放り投げた。

 酒瓶が雑に並んだカウンターに激突したアリス。棚に並べてあった酒瓶が次々と落ちて、砕けて中の液体が床に染み渡る。


「アリスっ!」


 アリスが飛んでいった方へ視線を向けたヒガナだったが、殺気を感じて反射的に頭を引っ込めた。

 ヒガナの首があった場所に銀の一閃が走った。

 振り返ると殺気を全身に纏わせたアインが冷酷な瞳で見下ろしていた。


「何だよ……」


 ただ人を探していただけなのに。

 どうして命の危機に瀕しているのだ。

 目の前にいるコイツはなぜ、殺そうとしている。

 あの少女はなぜ嘲笑を浮かべている。

 なぜ、アリスが。

 なぜ、モニカが血を流しているのだ。

 そもそも、この異世界は何なんだ。

 どうして、召喚した。

 誰が召喚した。

 分からない。

 何一つとして分からない。

 ふざけるな。

 ふざけるな。

 ふざけるな────。

 

 無理解が積み重なった結果、ヒガナの内に湧き出たのは行き場のない怒りだ。


「っざけんなぁぁぁ!」


 怒りが全身に駆け巡り、行動する力を与える。

 ヒガナは無鉄砲に激突した。

 突如の行動に反応できなかったアインはヒガナと共に倒れこむ。

 馬乗りになったヒガナは拳を強く握りしめて、振りおろそうとする。


 頭部に鈍い衝撃。

 ヒガナは床に倒れ込んで、咄嗟に衝撃を受けた箇所を手で押さえた。

 何がぶつかったのかはすぐに分かった。

 さっきまで男が飲んでいた酒の瓶だ。ドラマとかでは簡単に砕ける酒瓶だが、実際はありえないくらい硬く、頭蓋骨の方が砕けてもおかしくないだろう。

 ゆっくりと手を確認すると鮮血がべっとりと付着していた。


「えっ……何でヒガナさん!?」


 モニカの悲鳴混じりの声が聞こえた。

 先の酒瓶を投げたのは考察する必要もなく彼女だ。


「ざまぁー。そうやって這いつくばってる姿の方が似合ってるよ?」


 焦るモニカを一瞥し、ヒガナに視線を向けたノインがくすくすと嘲笑う。

 一体何がそんなにも可笑しいのか分からない。

 怒りに染まったヒガナにとって少女の嘲笑は苛立ちを増幅させるだけだ。


 立ち上がろうとするヒガナにアインが全力の蹴りを放つ。

 モニカが投げた酒瓶と全く同じ場所。威力は先の比ではなく、視界が真っ白に爆ぜて意識が飛びかけた。

 鮮血が勢いよく飛び散り、受け身もなくヒガナは再び床に倒れ込んだ。


「あ、はっ……かっ……」


 意識が混濁し、自分がどうなっているのかも分からない。点滅する視界の半分が真っ赤に染まっていく。


 アインがしゃがみ、ヒガナの髪を強引に引っ張り顔を上げさせる。

 意識が朦朧としているヒガナを睨みつけて舌打ちをする。


「なぜ、こんなのが……」


 突如、カウンター側から轟音が響く。

 それが床が破壊された音だとアインが気付いた時には、アリスは空中にいた。


「……離せ」


 瑠璃色の瞳が己が敵を完全に捉える。

 アインはヒガナをソファーの方へと蹴り飛ばす。腹部の衝撃に耐え切れずに吐血しながらヒガナは壁に勢いよく激突し、ソファーに崩れ落ちた。


 そこに居たモニカは涙目になりながらヒガナに治癒魔術をかけ始めようとする。が、それよりも早くノインが隠し持っていたナイフを投擲。

 ナイフは吸い込まれるようにモニカの肩に深々と突き刺さった。

 モニカは痛みに悶えながらうずくまった。


「どう? 毒付きナイフの味は? たっぷり苦しんで生まれたことを後悔して?」

 

 一方、アリスは怒涛の勢いで脚技を繰り出す。暴風雨のような連撃にアインは対処し切れずにダメージを負う。

 顔面への一撃を防ぐが衝撃を殺すことが出来ずに腕がへし折れた。


「──ノイン!」

「はーい」


 アインは仲間の名を呼び、アリスから距離を取る。

 ノインは男の死体を踏みつけながら軽い口調で返事をした。


 追撃するアリスだったが、なぜかアインではなくヒガナとモニカの方へと向かっていく。

 そして、身動きの取れる状態ではないヒガナに向けて貫手を繰り出そうとする。


 しかし、寸前のところでアリスは攻撃を止めた。

 兎耳を動かして音を拾い、アインの場所を特定。身体を回転させて再度攻撃に入る。


「ウソ!? なんで!?」


 アリスの行動に最も驚いたのはノインだった。

 アインは折れた腕を庇いつつ、アリスとの攻防を繰り広げる。彼はアリスの首に着けられた霊装を見て忌々しそうに呟いた。


「それのせいか」


 アインは攻撃をいなしつつ、標的をアリスからヒガナへと変更する。折れた腕を不気味に揺らしながら迫る姿にヒガナの心臓の鼓動は激しさを増す。


「……させない」


 ヒガナを守ろうとするアリスにできた一瞬の隙。

 それが致命的な隙だと気付いたヒガナは声を上げようとする。


「アリ……ス! に……っ、ろ!!」


 激痛で声が殆んど出ない。

 喉に栓をされてるような閉塞感だ。

 だが、閉塞感はすぐに別の感覚に押し潰された。


「…………かふっ」


 アリスの心臓にナイフが深々と突き刺さった。胸の辺りから赤い液体が溢れ出し衣服を赤くジンワリと染め上げていく。

 ナイフが引き抜かれると鮮血が勢いよく噴き出した。

 アリスは胸に触れ、血塗れになった手のひらを見た途端に顔色を真っ青にして、膝をつき震える身体を怯えるように抱きしめた。


「……寒い……寒い………」

「ア、アリス……そ……な……」


 アリスは虚ろな瞳で、僅かな光に──自身を温めてくれた唯一の存在に手を伸ばす。

 ヒガナも手繰り寄せるように手を伸ばそうとするが届かない。

 すぐそばにいるのに、なんでこんなにも遠いんだ。


「……ヒガナ……ヒガナ……さ、寒──」


 ノインのナイフがアリスの頸動脈を斬り裂いた。まだこんなにも残っていたのかと思うほどの鮮血が舞う──まるで噴水のような勢いに驚愕を隠すことが出来ない。

 アリスは糸の切れた人形のように地に墜ちた。


 ──絶望がヒガナを包み込んだ。


 そして、断末魔と嘲笑が混ざり合って、その場に異常な感情の風が渦巻いた。


「きゃははははははっ! これだから奴隷って憐れだよね! どんなゴミカスでも守らないといけないんだもん! ねぇ、ねぇ、自分がクソザコだったせいで奴隷が殺されるってどんな気持ち? 悲しい? 辛い? 悔しい? 死にたくなっちゃった?」


 最大級の嘲笑でヒガナを煽り散らかすノイン。興奮しているようで身体を震わせながら、アリスの死体を執拗に蹴り続けていた。

 鮮血が飛び散り、ノインの肌を赤くまだらに染める。


「あ、あぁ……ああああああ……」


 絶望に底なんてない。

 底に着いたかと思っても、さらに堕ちていく。

 堕ちても、堕ちても堕ちても底が見えない。悪意が降りかかる限り、絶望に歯止めをかけることは出来ず、奈落が延々と続いてしまう。

 ノインの嘲笑はさながら絶望の奈落に向かう、落下音のようだ。

 ヒガナはボヤける視線にノインを、アインを──元凶を捉える。


「………殺す、殺して……やる」

 

 どうしようもない憎悪から溢れた言葉が口から鮮血と共に零れる。

 ノインはアインを押しのけてヒガナの元に来て、わざと首を傾げて耳に手を当てる。


「はぁ? 殺すって言った? その状態でできるならやってみてよ? ほら早く早くー」

「その顔、覚えたからな……絶対に殺してやる……」

「はーい、ちゃんと覚えた? じゃあ、さっさと死ねば?」


 ノインが血塗れのナイフをヒガナの首筋に添えた。

 もう既に意識は無くなりかけている。

 本来あるはずの痛みが全く感じられない。

 それでも、ヒガナを現世に縛り付けていたのはドス黒い憎悪だ。


 しかし、憎悪も迫る死への恐怖によって塗り潰される。

 死んだら、自分という存在はどこへ行くのだろう。

 そもそも、存在が残るのか。

 完全に消えてしまうのでは。

 喪失の恐怖。

 怖い。怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い。


 避けようのない死の恐怖に支配されていたヒガナが感じたのは、


「────ぁ」


 首筋に触れたひんやりとした感覚。

 これは知ってる。

 これは確か──。

 これは──。

 こ────。


 嘲笑が、聞こえ、た────。

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