林 常治⑥

「ここの家賃なんぼ?」

「僕の家です。お金いらないよ。」


おお、新しい日本語を覚えたのか。

目を見張る成長に、つい頭を撫でそうになる。


と、そうではなく。


「俺がお前に払う家賃の話や。」


身振り手振りを交えて話す。

お前は全く気にしないのだろうが、俺は借りを作るのは御免だ。ジョージア州の物価は観光地を除けば島とそう変わらないので、闇雲に働くよりも必要経費から逆算して稼ぐのが効率的だろう。問題は人脈のないこの土地で、身分を証明する物がない俺が仕事を獲得出来るかだ。

鉛筆をなめなめ帳面を付けていると、ベルは写真立ての側にあるコースターを手に取って笑顔で言った。


「I asked you to come live with me. 」

まあ、元はと言えばこいつが失踪したのが原因なのだが、今は俺自身にも目的が出来た。ただ暮らしているだけでも金は減るわけで、たまには酒を飲みに行ったりガールフレンドを作ってお茶をしたりしたいわけで。

このままだと俺はベルのヒ...いや。


「ジョージははたらかなくても大丈夫だよ!it's OK!」


……

………プツ

頭の中で何かが爆ぜる音がした。


「働くに決まっとるやろ!!!ヒモやおもとんのか!?」


ダンッと机を打ち鳴らしたところでハッと我に帰る。目の前の成人男性は身を小さくして小刻みに震え、浅葱色の瞳がピンボールの球と化している。悪気のない発言である事は普段の言動からも分かったのに、完全に俺の失言、大人気ないにも程がある。


「It's a misunderstanding! 何か間違えたかも、そ、そう日本語むずかしいから…。」


ベルは争ったり競ったりする事が根っから苦手だ。それに、ずっとここに住んで良いと言っていたのも本心からだろう。何よりこいつは底無しに優しい人間だ。


「…今のは…俺が悪かった。ちょっと出掛けてくるわ。」


四半世紀も生きていない若者に人間の小ささを思い知らされ、途方もなく家を飛び出した。

仕事を得るには人脈、人脈作りの近道と言えばそう、酒だ。どこか適当な酒場に入ろう。

公衆電話で電話帳をめくり、近場のバーを探す。出来ればこじんまりした地域住民が集まる様な所が良いが。住所と電話番号を片っ端から帳面に付けようとしたところで次の利用者が来てしまい、泣く泣く諦める。

まずは一軒目、距離感が掴めず4kmほど歩いた。大通りに面したカフェバーは若者がひっきりなしに出入りしていて、望みは薄そうだ。

2軒目はすぐに見つかった。店内の照明も控えめで、落ち着いた雰囲気だ。軽い酒でもちびちびやりながら話が出来そうな相手を物色しよう…そう思って席に着いた瞬間話しかけてくる者が居た。こいつが、まだ頼んだ酒もきていないのに一杯奢ると言うのだ。流石に警戒したが少し話して他のテーブルへ行ってしまった。そんな奴が2、3人続いたので此処では良くある事なのだろう。店に女性客は一人もなく、30〜60代の男性客のみが静かに酒を酌み交わしていて、酒場の活気とはやや異なる雰囲気だ。

次に俺の席に座ったのは若い二人組。日雇い仕事を探している事を伝えると、奥の席に居た常連と思われる小太りの男を呼び寄せた。

「この人、画家なんだ。稼ぎも良くて顔が広いから相談してみると良いよ。」

何たる僥倖。そうだ、そういう人間を求めていたのだ。


小太りで髪が薄く、丸縁眼鏡を掛けている男は、ラフだが一見して仕立ての良さが分かる服を着ていた。話を聞くと、絵画展の設営や資材の搬入など何かと力仕事はあるそうだ。いつでも仕事がある訳ではないし、弟子も巣立ったばかりで丁度良かったと言う。しかも俺をモデルに絵を描きたいと言うではないか、早速この事をベルに報告しよう。


「ああ、俺やけど。」


借りた電話で手短に要件を伝えると、ベルは食い気味に所在を尋ねてきた。誰にも着いて行くなと言われたが、これから画廊を見せてもらう約束だ。暫し悩んだが交渉には現地人が居た方が何かと都合が良いだろう。

「Don't follow strangers And don't go into that store's bathroom, you understand? I'll be right there!」

電話は勢いよく切れた。

便所に入るなと言われても今飲んでいるジンは5杯目。何分後に来るか知らんが無理な話だ…電話から3分、あと5分で来なかったら便所直行だ。

ひとまず画家に同居人が来ることを説明していると、何故か店内の客の視線が刺さった。タクシーからベルが現着するとその視線は一斉に注がれた。

「I'm going to the restroom.」

「Make sure no one is in the restroom.」

それはそうだ、焦って迷惑をかけてしまってはいけない。急いでいて失念したが、間取りを把握している辺りベルはこの店に来た事があるのだろう。


無事全てを出し切り席に戻ると、何やら画家とベルが向かい合っている。ベルは仁王立ちでぴくりとも動かず、店内は俄にざわついている。皆一様にグラスをテーブルから離すことが出来ず、固唾を呑んで見守っていた。二人に程近い席の者がテーブルを僅かに壁際に寄せた。

「喧嘩か?」

家主と雇い主に殴り合いなどされてはたまったものでは無いので、とにかく事に発展する前に止めようと一歩踏み出した時。


俺は耳を疑った。


今入ってきた客が、入り口付近の男に何があったのかと尋ねたのだ。

男は「スチュアートがポム氏に男を盗られたそうだ。」と答えた。

ポム氏というのは多分画家で、盗られた男は恐らく俺だ。店内のザワつきに耳を傾けるとどうやらそれが共通認識らしい。

ふざけるなと怒鳴りたいが、それでベルを連れて出たりしたら益々奴らの思う壺だ。

俺は野郎にまみれて過ごした戦中も男に傾いたことなどいっぺんもなく、断じてゲイではないのだから。


「George, let's go home.」

「What is the contact information for the job?」

ベル越しに話しかけてくる画家は先程と変わらず和やかな口調だ。

「I refuse that job.」

それをぴしゃりとベルが断る。

「I'm asking him.」

なあ?と投げかけられた質問に対する答えは決まっている。

「You promised me a job.」

「George.」

呆れ顔のベルを余所目に強引に話を進める。何かあったらそれはその時だ。


「Let me show you guys the atelier. Are you coming?」

隣から微かに舌打ちが聞こえる。普段のベルからは想像できない仕草に少し驚いたが、画家にここまで嫌悪感を露わにしている理由について段々と興味が湧いてきた。


画廊は歩いて行ける距離らしい。辺りはすっかり日が落ちて、生温い風は夏の気配を纏っていた。

「あやしい人についていくのダメって教わらなかった?No danger sense.」

ベルが大袈裟に肩をすくめて見せる。そんな剥き出しの敵意を向けられても画家は飄々と躱した。この辺は経験値の差というところだろう。

10分もかからず着いた画廊は古民家を改装したものだそうだ。描きかけの現代的なアートが数点立てかけてある以外はきっちり道具が整理されていて、清潔感がある。応接セットにはモダンな調度品が並び、鼻につくインテリという印象だった。

「You job is to clean, equipment setup, and model the pictures.」

元がきちんとしているので清掃に苦労する事はなさそうだ。日当は安いが時間が短く、何より信頼関係が築ければ他に掛け合って仕事を斡旋してくれると言う。


「You can't have nude models.」

ずっと威嚇モードのベルがずいと前に出る。

「Drawing model? If you can get permission from your boyfriend, by all means.」

「He's my roommate.」

妙な噂が立ってしまっては仕事に響くので、ここはハッキリと言っておかねばならない。

「Oh, that's right,Looking for a lover in a bar?」

「What kind of bar is it?」

意味深に微笑むだけの画家に代わって隣のベルが答えた。

「ジョージ、あの店は…。」

あのバーはつまるところゲイが出会いを求めて訪れるバーらしい。男女問わず受け入れる観光バーもあるらしいが、あの店だけは女性お断りで本気の客しか来ない、つまり…


「先言うとけや!!」

アイアンクローをかけられたベルが苦悶の声をあげる。

「お前は知っとる限りの奴に俺がゲイじゃない言うとけよ!顔広いんやろ⁉︎」

「Haha I'll just say that him back together with Stewart.」

禿げかけの頭にもアイアンクローをお見舞いする。変質者に情けは無用、こうなればもう仕事が白紙に戻る事も厭わない。

「Haha...he's pretty good!」

親指を立てる画家にベルは思わず笑ってしまった。どうやら変質者同士、分かり合ったようだ。さて俺は帰るか。


「Wait a minute.」

「I still don't trust you.」

「I think you and I would get along.」

うちの家主が険しい顔に戻ったのは見なかった事にして、話を進めたい。ややこしいので金輪際口を突っ込んで欲しくないのだが。


「Anyway, take a look at this. I love Japan.」

そう言いながらカーテンを開けると、その先は窓ではなく部屋の一角が仕切られている奥に長いスペースだった。ショーケースが所狭しと並びその全てに精巧に作られた戦闘機や戦車の模型が収められている。そして、その特等席に鎮座しているのが零式艦上戰鬭機、通称零戦だ。背の高いショーケースに一機だけが大層に飾られている。周りには無数のスケッチが散らばり、壁にもいくつも航空機の設計図が飾られていた。

画廊に入ったばかりの印象とはおよそ程遠い、男臭い部屋だ。これも仕事かと問うと「This collection is a hobby.」と苦笑した。話を聞きつつ壁の絵を流し見していると、頼んでもいないのに画家は語りだした。

「This is a Tamamushi type Aircraft designed by Chuhachi Ninomiya.He's known as the father of the Japanese airplane.」

画家は息継ぎ無しで話すだけ話した後どう?と聞いてきた。どうかと言われても、ネバネバした語り口調で気色悪いとしか。

「オタクだ…。」

ベルに同意である。


まさかその奥に掛けられた衣服も収集物なのか。画家は古びた衣服を手に取り、断りもなく俺の体にあてがう。

「Nice! I knew it was the right size! Modern Japanese people are tall and thin and no good.You are what I expected!」


コイツ…終いには殴ってやろうか。


「I work for an expensive hobby. I drew covers for science magazines I didn't want to draw. I hated my college lectures. But contemporary art gets lots of money.」

おい、これ以上現代アートを侮辱するのはよせ。今の一言で方々から非難轟々寄せられそうだ。そんな事は構わず着せ替え遊びを続行するハゲじじい。こんな奴の話を真面目に聞き敬重している人間がいるのかと思うとため息が出る。


あてがわれた服は明治時代のものと思われる。おい、俺はロシア出兵はしとらんぞ。そんなじいさんに見えるか?と抗議したかったが、どうせ伝わらないだろうと沈黙した。

羅紗を使った軍服は服一着としてはかなりの重量があり、これから夏になろうというのにこんなサウナスーツを着せられては堪らない。ご丁寧に分厚い裏地も付いているときたもんだ…と、裏には持ち主の名札が縫い付けてある。明らかに遺品である物品が遺族の元を離れて画家の手に渡ったのはどういう訳か。

「Is this it? I bought it at an online auction. It's convenient because i can buy anything.」

ポチポチと携帯端末を軽く操作するだけでズラッと並ぶ軍用品。親族から譲り受けた物、持ち主不明で流れた物など様々だ。こんな物が金になるのか、買ってどうするのかという疑問は目の前の軍事オタクを見れば腑に落ちた。


「It's the same backpack you have. This one has a lot of strings.」

ベルが指差した背嚢は確かに俺のと同じ型だ。紐は擦り切れてきたので幾つか切ってしまったが元はこんな見た目だった気がする。丁度新しいのが欲しいと思っていたところだ。

「Tell me how to buy one next time.」

「Sure!」

同志を見つけたとばかりに画家の目が光った。


「Hey, come with me to the Planes of Fame Air Show! You can see the restored Zero fighters in flight! I'll take you there!」

「Where is that... Huh? California? It's far away.」

どこかで鹵獲された零戦を修復して飛べるようにしたのだろう。しかし、職探しに来た身でカリフォルニア州への旅行など即断即決できる訳がなかった。飛行機で片道4、5時間。距離で言えば横浜から南洋群島まで行けてしまう。


「Too far? Then Let's go to the National Museum of the Mighty Eighth Air Force.」


なんでも、近くに空軍博物館というのがあるらしい。

まあ近いなら、ほんの僅かだが行きたいと思う気持ちもあった。航空兵というのは少年時代の憧れで、撃墜王の話などそれはもう枕を並べて語り明かしたもので、俺は戦車より断然戦闘機が好きなのだ。


「Is there a NISHIKITAITEI?」

「We don't have large flying boats, but we have lots of airplanes. Let's go in May!」


ぎゅっと握られた手はオタクの熱気がジットリこもっていて気色悪かった。

兎にも角にも仕事を得て帰路の足取りは軽い、軽過ぎて地面を踏む感覚もあやふやな程だ。

「Oops, watch out. How many have you had to drink?」

顔と地面が急接近した所を間一髪で止められ、そのまま足がもつれて座り込む。

ベルがしゃがんで背中を向けるのでそのまま負ぶさったが、これがフラフラと安定感がない。

「How many pounds do you weigh⁉︎」

日が落ちて涼しくなった外気に背中の体温が心地良かった。体が浮き沈みする感覚は海を漂うのに似ていた。


覚えている。

まだ俺の背丈が煙草屋の看板ほども無かった頃、母に負われた帰路のこと。

父の墓参りをして、山で蓬を採り、赤とんぼを追いかけた初夏の日のこと。

小さな母の背中がまだ大きかった頃のこと。


帰ろうと思えばいつでも帰れたのかもしれない。だがそうはしなかった。

同僚の怪我の介抱で、孤児の世話で、仕事が忙しくて。終ぞ帰る事は無かった。

昭和19年に死んだ俺は生前よりもずっと長い時を過ごして、薄情者に成り下がったのかもしれない。


(※この物語はフィクションです。実在の人物、事件、団体等とは一切関係ございません。)

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土の中の二人 @Ko-bun

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