林 常治⑤
半狂乱になりながら地面を殴りつけている男が居た
拳は傷つき皮膚が裂けあまりに痛々しく目を背けたくなる光景だった
ベル…?
いや、違う
話しているのは祖国の言葉だ
「返せ!!」
「返せよ!!」
男が叫んでいる
止めに入った周りの屈強な男たちも跳ね除けられた
その痩せ細った腕のどこからそんな力が出るのか
兵たちも疲弊して
一人が監房に入れるしかないと口にすると
もう一人が水だけやって反省させる
腹が減れば冷静になるだろうと返した
「いやまて。」
咄嗟に口を挟んでしまう
周囲の視線が一気に集まる
「食事は出せるだけ出してやれ。食えば落ち着くだろう。」
二人の兵士に両脇を拘束されてなお男は抵抗する
あの怒号が再び鼓膜を打ちつけた
「返せえ!!」
そこで、目が覚めた。
呼吸を忘れていた息苦しさだけが残り、夢の輪郭はほろほろと崩れていく。
「…手帳…」
そうだ、手帳を奴に返さねばならない。だがそれはもう叶わない。
叶わなくなった。
「Good morning,George.」
いやに上機嫌なベルはもう身支度をしてコーヒーを啜っていた。
俺が寝坊するなんて何年ぶりだろう。
「起きる?」
「ヒッ」
至近距離で顔を覗きこまれたので小さな悲鳴が漏れる。鼻と鼻が触れる距離に顔が迫ってきて不快指数MAX。
時刻は10時、頭が冴えないまま車に乗り込むとベルが助手席に腕を伸ばしてきた。
「うおっ」
「?」
バックミラーの位置を直し、空調の角度を調整した手は最後に俺の膝をぽんぽん叩いた。
「気色悪う…。」
ベルが同性愛者である事は出会った頃に分かっていたから、初恋の相手というのも十中八九男だろう。
…俺には関係ないが。
一瞬でもベルの恋愛事情に興味を持ってしまった…カビ生えのパンを誤って食べてしまった時の様な気分だ。
あと前々から思っていたが、こいつは運転が下手だ。ヨタついた運転は心底心地が悪く、何度かハンドルを奪おうとするもその悉くが失敗する。住宅街の向こうに高い塔が見えてくる頃には限界一歩手前であった。
そして足を踏み入れたのは教会。
そういえば、行き先も言わず連れて来られた事に気づく。そもそも教会はゾンビから逃げ入る場所で、ゾンビを連れてくるのは神への冒涜に当たらないか?入った瞬間浄化パワーでくたばったりしないか?と心配もしたが、墓から人を蘇らせたキリストはきっとゾンビにも寛大だろう。
ベルが初恋の人に会いに行くとかほざくから、何処に向かうのかすっかり聞きそびれてしまった。興味がある訳ではない、所謂怖いもの見たさというやつだ。一体どんな男が出てくるのやら…と、人垣を抜けてこちらに歩いてくる老父が見えた。
「でっ…」
老父と言っても高さ・幅共にヒマラヤ山クラスの…とにかくデカイ男がちょこんと行儀良く手を組んでいる。
島内で山と言えば標高240m程だったがあんなものはちょっと高い丘だ。
山麓から仰ぎ見れば口をきゅっと引き結んで笑顔を作ったチャーミングな老父。
「ほほぉ...」
俺はこの件には絶対に関わらない。そう決心した瞬間であった。
奥の部屋へと通される。簡素な机に椅子、本棚があるだけの部屋だ。
「Hello.」
「Hello...」
突然背後から現れた品の良い女は俺たちの頭を撫でるとふわりと微笑んだ。
背筋がピンと張っているのに物腰が柔らかく、尼僧服に包まれていても白く透き通った肌が際立っていた。歳は俺より30は下だろうか、変わったイントネーションだが出身はどこだろう、是非ともお近付きになりたい。
「I'm George. What is your name?」
「I'm "Maria". Nice to meet you George.」
マリアというのか、相応しい名前だ。
その女(ひと)がベルに向き直って手話で話し始めた時、なるほど聾唖者なのだと気付く。昔取った杵柄の手話がこんな所で役に立つとは今日は何とも良い日だ。今朝食べた虹色のシリアルなど既に便に変わっているだろうから、文字通り水に流そうではないか。
「He is my "potential" boyfriend.」
「You two are so cute together.」
前言撤回。この野郎は太平洋に沈めてやる。不名誉この上ないベルの戯言は全て冗談という事にして、ついでに俺の前職は元陸上自衛官という事にしておいた。まあ、当たらずといえども遠からず、大体同じようなものだろう...知らんけどな。
楽しいひと時を過ごした後、シスターマリアはまた仕事に戻って行ってしまった。
「By the way...」
別に面白い話などないので適当にお茶を濁すつもりでいたが、ベルは手話のことが気になって仕方ないようだ。戦争で負傷したと伝えると、急にしおらしくごめんと謝ってきた。二度としたくない経験ではあるが、人に聞かれるのは嫌ではない。むしろ相手が知りたいと言うのなら何時間でも話したいくらいだ。
思い出されるは
生木を裂く機銃の音
山を穿つ大砲の音
鳴りやんだのか、未だ鳴っているのか
確かめようもなかった
乾いた喉からひねり出した声は獣の呻きにも似ていた
自らの命をただの循環と割り切れたなら
こんな絶望を抱かずに済んだのだろうか
話終えて紅茶を啜る。若者に少しは有意義な話を出来たのだろうか?長きに渡り映画や小説や時には漫画の姿で人々の興味を引こうとしたこの出来事は、決して忘るまじと、いや忘るべからずとの怨念さえ感ぜられる。しかしどうして長話は好きではなかったのに、俺も歳を取った。
ベルは沈んだ表情で「そうか」と呟いただけだった。お前が落ち込む必要などこれっぽっちも無いというのに、どうしてそう影響されやすいのか。
男二人が神妙な面持ちで聖堂に座っている。心中でも企てていそうな俺たちに声を掛ける者は一人も居なかった。
ポーン
その張り詰めた糸を弾くようにピアノが鳴る。
顔を上げると、教会の奥に先ほどのシスター達が並んでいた。
賛美歌が始まるとそれに合わせてマリアの腕が、指が、神に乞う。何もない空間に小さな宇宙が広がって、その神々しさに思わず目を細めた。彼女の為に陽は差し小鳥が歌うのだ。きっと罪深き奴隷商人も海の上では女神の夢を見たことだろう。
そして今は歌の余韻に浸りつつ、暇人のベルと敷地内の催事を眺めている。しかしやけにホッキョクグマのぬいぐるみやら雑貨やらが多い気がする。見るからにフワフワしていて枕に丁度良さそうだ。あとは寝袋でもあればこれ幸い、テントもあれば庭に野営するのも不可能ではないだろう。しかし、残念ながらその類は見当たらなかった。
代わりに前からずっと欲しいと思っていたラジオカセットレコーダーを見つける。
「これ、なんぼ?え、無料(タダ)?」
フリーマーケットと思っていた催事は、物々交換だったのだ。俺が差し出せる物品は無いというのに、こんなに良い代物を貰って図々しく思われないだろうか…しかし気がつくと赤いラジカセは俺の腕の中、目の前の婦人はにこやかに手を振る。いつの間に。
ベルが手に取ったホッキョクグマのぬいぐるみも新たな主人を得て、心なしか輝いて見えた。娘も小さい頃はぬいぐるみ等欲しがったものだが、昨今の欲しいものは「時間」だという。のんびりした島の中であくせく働く娘はやや浮いた存在かもしれない。
思えば出会った頃からそうだった。同僚と小船で漁に出ていた頃の話だ。娘は…ルーは俺たちの所に来て開口一番、働かせてくれと言ってきた。どうやら漁の上手い日本人が居ると聞きつけてやって来たらしい。俺たちも最初の頃は集めた手榴弾で魚を取っていたが、漁業組合が活動するようになると近場では魚が取りづらくなって、仕方なく船で沖に出ていたのだ。たまに機雷を除去するからと海域が封鎖される事があって、まだまだ危険な海には変わりない。
最初の頃は子供は学校に行け!と怒鳴って追い払ったがルーは懲りずに何度もやってきた。手先が器用なのでブーの補修をやらせて見るとその上達ぶりは目を見張るものがあり、俺たちは修繕費代わりに獲れた魚の一部を渡す約束をした。食うにも苦労する時代に児童労働などとは言っていられない。ルーはその魚を惣菜に加工して売っていたようだ。祖母と二人三脚の店はそこそこ繁盛し、店は徐々に大きくなっていった。
初等教育真っ最中の娘も自力で仕事を見つけたというのに、俺はアメリカに来て2週間を無為に過ごしてしまった。そろそろ仕事を見つけなければ、ヒモの誹りは免れないだろう。
そういえば同僚には何も告げずに島を出てきてしまった。電話の一本でも掛けてやらなければ。
「What is your impression of my first love?」
印象も何もただただ。
「Big as a mountain.」
「Breasts? You are such a pervert.」
ベルは膝を叩いて大笑い。
「変態はお前や!誰があんな爺さんの胸なんか見るか!」
こいつとは一生分かり合えそうにない。帰りもヨタヨタ運転を我慢しながらだが、ジョージアの夕陽もとても、とても美しかった。
Bub(ブー)=魚を捕る罠
(※この物語はフィクションです。実在の人物、事件、団体等とは一切関係ございません。)
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