九章 紅白の梅
恐るおそる家のドアをあけると夫の誠は帰っていなかった。先週も、その前の週も午前様だ。外食すると言っていたのだから別にそれで不思議はない。有り難くすらあったはずなのに、陽子は何故か不機嫌になっていた。
鏡台に座り髪を解き、薔薇の花を見る。
以前は誠が花を買ってきてくれた。十条にいたころは特別な日でなくとも、そういうことをした。まめなところがあった。
思い返してみると、今年はまだ新年旅行の日程も決めていない。そんなことを思うじぶんのふてぶてしさに陽子はわらった。わらえることに驚いた。
夫が帰ってこないうちに風呂に入っておくべきだと考えた。陽子はいつの間にかスマートフォンに鍵をかけることをおぼえた。いや、教えられた。自分は独り者だから平気だけど、と山本が言った。
誰も彼もこんな秘密をもって生きているのだろうか――陽子はそれがわからなかった。
その翌日、義母に呼びだされた。訪問着ができあがったから取りに来てという電話だった。陽子は言い知れぬ気まずさを抱えながらも出かけていった。
ふだん茶室として用いられる八畳間に義母の小百合は黒地に雪輪の結城紬を着て座していた。床の間に掛け軸も花もなく、風炉先屏風も棚もない。陽子はおどろいたが声には出さなかった。義母はいらっしゃいと言ったきり黙ってたとうをさしだした。陽子はそれをおしいただいて、膝の前においた。
それを待って義母が口をひらいた。
「ねえ陽子さん、あなたさいきん絵を習いに行ってるそうだけど、それはいいと思うのよ、感性が豊かなのが陽子さんの素敵なところだから。でも、誠さんの健康管理はあなたがしっかりしてやってちょうだい。このごろちょっと太ってきたでしょう? 主人みたいに糖尿にでもなったら困るから、それだけはくれぐれもお願いしますね」
小百合の言葉はまだ続いていた。そこに突き刺さるほどの棘は感じられなかったが主婦としてのつとめをこれほど指図されたのは初めてだ。陽子は専業主婦になってからは夫の帰りを待って眠るようしていたが、本格的に絵を描くようになってからはそれをやめた。絵を描くには体力が必要だ。夫の誠にはそれでかまわないと言われていた。だから、義母の小百合からそうしたあれこれを指摘されるのは予想外だった。
陽子はひとつひとつ丁寧に謝罪をし、夫の許可を得ていることもつけたした。それなのに、小百合のととのった眉は寄せられたままだ。いや、余計に眉間のしわが深くなった。
「……誠さんはあなたに甘いのよね」
若くて可愛いお嫁さんをもらったものだからと口にされて、陽子は思わず小百合の顔を凝視した。
丁寧に紅の塗られた唇に冷たい笑みが浮かんでいた。
知られている。
確信はなかった。
けれど同じ女同士、何かしら察するところはあるのだろうと感じた。
小百合は陽子の視線をそのまま受けとめて、居住まいを正して口をひらいた。
「ねえ陽子さん、家を守るってほんとうに大変なことなのよ。女の人が家をあけるって男にとってはさびしいものよ。いつでも居心地のいい家を守ることこそが、夫婦円満の秘訣なの。あなたは美穂さんと違って、しっかりしたよく出来たお嫁さんで、わたしの自慢なのよ。たしかに誠さんはこどもが出来なくて、あなたには、それにあなたのご両親にもほんとうに申し訳ないことをしたと思うわ。ごめんなさい。このとおり、お詫びします。でもね、その件もあって、わたしはあなたに精一杯のことをしてるつもりなのよ。前にもおはなししてるけど、わたしの着物もお茶道具も何もかも、あなたにさしあげるつもりでいるわ。どうせ美穂さんにはがらくたでしかないでしょうしね。わたしには娘がいないし、あなたを本当の娘のように思ってるのよ。おわかりよね? お願いだから、誠さんのこと、大事にしてあげてね」
陽子は、はい、と深く頷いた。それ以上なにも言えなかった。子どものことをはっきりと言われたのも初めてだった。胃のあたりがきゅうに痛み出したのを、顔に出ないよう一生懸命気をつけた。
八畳間に静寂が落ちて、陽子はたとうを見下ろした。上品な灰梅色の訪問着、その裾模様をひらいて見たいと思えなかった。両手をついて深々とお辞儀して、そこを出た。襖を座ってしめる間にも、義母は庭を見て動かなかった。
帰宅してすぐ、絵画教室の事務所に電話を入れた。何故か田中が出た。陽子が不思議そうにしたのに気づいたのか、あ、おれ実はここのバイトなんで、とこたえた。さすがに辞めるとは言いづらく、今年と来月の半ばくらいまで多忙のため休みますと伝えた。田中は何か言いたそうにしていたが、わかりましたと電話を切った。
陽子はため息をついてたとうをひらく。夫に訪問着を見せないとならない。帰りがけに実家に寄ってこの話しが伝わっていなかったら何を言われるかわかったものではない。身体が重くて動きたくなかったが着物用ハンガーにそれをかけた。その瞬間、陽子の唇からこぼれたのは感嘆の吐息だ。
紅白の梅が一幅の絵のように眼前にひろがった。
友禅師の筆の冴えは鮮やかで、ところどころ控えめに金線で縁をとった紅白の花々は初春のよろこびに匂いたち、艶やかでありながら高雅な佇まいでそこにある。まだ寒いころに咲くために花の兄と謳われる梅の花の気品をそっくりにうつしとり堂々とした逸品だ。しかも、ほんの短い期間しか着ることのできない贅沢なきものだ。
陽子は息を調えてスマートフォンで写真をとった。見せたいと思ったのは山本だ。どうしようもなく胸が苦しくなった。
いったい何をしているのだろう。
そう思いながら仕事中の夫に連絡を入れた。いつもならすぐ電話なりスタンプなりが返ってくる夫から、いつまでたっても応答はなかった。
それを待ちながら陽子は泣いた。どうしてこんなに涙が出るのかわからなかった。わかるのは、自分がこの美しい花に相応しくないという懼れだけだ。
泣いている間にも、山本から連絡が何件も入った。開けて読みはしたが返信はしなかった。電話もとらなかった。
あの日以来一日たりとも絵を描かない日はなかったのに描きたくなかった。ベッドに横になり、山本からもらった連絡をひとつひとつ読み返し、削除していった。
言葉は惜しいと思わなかった。けれど、写真はなくしてしまうのがたまらなかった。
そこには上野東照宮の冬牡丹があり、銀座のイルミネーションがあり、丸の内のセレクトショップのインスタレーションがあり、ライトアップされたロダンの《地獄の門》もあった。そのどれもこれもが陽子の日常にないものだった。いや、かつては確かにあったはずなのに、失われてしまったものたちだった。
最後に、はじめに受け取った新人賞応募要項の添付された通知だけが残った。
陽子はそれだけはどうしても、どうやっても消し難く、スマートフォンを握りしめたままでいた。
そして、そのまま泣き疲れて眠ってしまった。
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