八章 葡萄酒

 陽子は鏡台の前に座り、ひとつにまとめあげていた髪を解く。ため息が熱をもち、からだを震わせる。デッサンのために買った赤い薔薇が妙につよく匂い、生理前だと気づく。

 リビングから移動したイーゼルを、見るともなく眺めた。キャンバスには横から見た馬の肢体がいくつか描かれている。疾駆する生き物であるのにかかわらず、走りだすことを拒む強烈な緊張がそこにあった。

 山本が、陽子さんと呼ぶようになったときに警戒すべきだった。ふざけて呼ばれたときにきっちりと釘を刺しておけばこんなことにならなかったかもしれない。いや、そもそも通話アプリの返事がどれもこれも可愛いと言われたときに可愛いなんて言われたことないですとこたえたのもまずかったに違いない。

 馬の絵を描きたいといって木曽馬のデッサンをさしだすと、山本はいいですね、と褒めた。陽子さんらしいとも言った。どこがですかと尋ねると、山本はまた瞳を細めた。そして、陽子さんは素直で疑り深くなくてほんとうに可愛いとこたえにならないことを口にした。笑うと糸のように細くなる目にずっと見つめられているとは感じていた。

 モネの絵が互いに好きだった。何時間でも語っていられた。あの不思議な眼について、光を追い求めた画家の一生についても、あれがと言い、それはと返すだけで通じ合った。こんなに話の通じる相手はいなかった。

 それでも……

 まさか、六つも年上の人妻を口説くとは思いもしなかった。ふたりだけで飲みにいった自分にも隙があったのだと悩みながらも、陽子はそのときのことをくりかえし頭のなかで思い描く。

 先週の夜のことだ。

 地下二階のショットバーから地上へあがる階段の踊り場でいきなり抱き寄せられた。声も出せず身を固くした陽子の耳に、山本が口を寄せて囁いた。

陽子さんが好きです、ずっと一緒にいたい。

 やめてくださいと押しのけると、山本はすぐに離れた。陽子は山本がふざけているのかと思った。だから、酔ってるんですねと言った。山本はまっすぐに陽子を見ていた。こたえはなかった。だから、バッグを前に抱えて歩き出した。背中から、低い声がした。

 酔ってたら、もっと無茶苦茶なことをしてあなたを帰しません。

 陽子は足をとめたけれど振り返るのは怖かった。

 駅まで送ります。

 山本は、陽子を抜き去って階段をあがっていった。地上へ出たら、ひとりで帰れますと言うつもりでいた。けれど山本は陽子の画板のはいったバッグをとりあげた。非難をこめて睨みつけると、駅でちゃんと返しますからと微笑まれた。そのひとみが柔らかで、陽子はつづく言葉をのみこんだ。

 山本はゆっくりと前を進んだ。陽子のペースで歩いていた。夫とそれほど身長はちがわないのに骨格と筋肉の付き方がまるで違う。若い男らしく腰の位置が高い。陽子はそんなことをこの瞬間に見てとる自分に呆れた。

 山本は宣言したとおりきちんと改札でそれを返してきた。

 来週必ず来てください。下絵を詰めないと。

 山本は陽子の目をみて、なんでもない顔をしてそう言った。陽子は視線を外した。何故じぶんが目をそらさないといけないのか苛立った。唇を噛んで俯いていると、自信にあふれた声が続いた。

 あなたはきっと来る。ぼくにはわかる。


 その通りだった。

 今日、陽子は山本とふたりだけで食事をし、電車でいっしょに帰ってきた。

 ほとんど密室のように仕切られた部屋でワインを一本あけた。陽子も飲んだ。いや、飲まされた。

 あの翌日すぐ、昼間に電話があった。講義の合間にかけてきているらしいとわかった。夫は施主のところに出かけていた。

 あなたが好きですと山本は言った。電話を切らないでくださいと懇願し、今すぐ会いたいと続けた。車でいきますと告げられて、陽子は取り乱した。住所はあちらに知られている。

 山本さん、それは、と声をあげると、せめて名前を呼んでくださいと乞われた。行くのは我慢しますから、と付け足されて陽子は折れた。

 声に出した瞬間、笑いそうになった。じぶんはいったい、何を呟いているのだろうと。夫に聞かれたらどうするつもりなのか。

 山本の告白は続いていたが、陽子は無理やり通話を切った。相手は来るはずがない。大学講師なのだから。よしんば講義が終わってからとして、それは夜だ。夫のいる時間に来るほどの馬鹿はいない。

 そのくらいのことはわかっていた。

 もう電話に出ない。アプリの通知も読まずに削除すればいい。そう決めたはずがその日のうちに開けてみてしまった。電話すらも、その翌日には出た。

 山本はありがとうと言った。電話に出てくれて、声を聞かせてくれてうれしいとくりかえした。

 そんな言葉をこれほど熱心に耳許で囁かれたことがなかった。それに、こんな短時間で誰かと親しくなったこともなかった。スマートフォンと通話アプリがなければ、陽子はいまだに山本の好きな画家も飲み物も、影響を受けた映画も、初めて出したラヴレターのはなしも何もかも知らないでいたはずだ。そのひとつひとつが積み重なって、こんなことになってしまった。

 今日、絵画教室を出てすぐに山本から連絡が来た。初めていった居酒屋の斜め前にあるカフェで待っていてください。十五分くらいで着きます。

 どこにでもあるチェーンストアの椅子に座り、あと五分待ってこなければ帰ろうと決めた。この店のなかで、何かを決断しようとここにいるひとがいるのかと考えた。どこにでもある店、どこにでもある日常――たぶん、浮気や不倫といったことも「日常」にあるのだと陽子は初めて知った気分になった。

 それでも実際は五分たつ前に腰をあげた。怖かった。コーヒーのお釣りを受けとって財布を鞄に入れチャックを締めた瞬間、腕を掴まれた。

 行くよ。

 山本が言った。そのまま手袋をしていない手を山本が握った。陽子は店を振り返った。

 なに、忘れ物? 心配そうに尋ねられて、陽子は首をふった。山本は少し不思議そうに彼女を見おろして、よかった間に合ってとにこやかに微笑んだ。白ワイン好きでしたよねと言ってこれから行く店のはなしをし始めた山本を、陽子は黙って見あげた。

 この唇はどんなふうに肌に触れるのかと想像しながら。


 食事の途中で眼鏡を奪われた。間接照明の薄暗がりに陽子が目を凝らすのを山本は面白がって、可愛いとくりかえしてまぶたにキスをした。壜が空くにしたがって山本は大胆になり、陽子は声を噛み殺した。夫も付き合いはじめたころにこういうことをしたがったと思い出しながらあのころは頑なに拒んだことを今、他の男とするのは酔っているせいだと思うことにした。絹のブラウスをささくれのない手指が撫でおろすのを見ても、もう怖くなかった。陽子の肉体は男の手と唇に与えられるものを知っていた。

 とうとう下着に手がかかり、これ以上はとその手の甲に爪を立てて泣いて拒むと、山本は大人しくひきさがった。待ちますからと耳朶を唇に弄ばれながら囁かれて、何を「待つ」のだろうと考える意識を熱い舌に貪られ、ただ午前様になる前に家に帰りつけるよう、か細い声でお願いをした。

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