七章 階段
支払いは山本がした。田中は陽気に礼を述べて帰ったが、陽子がお札を数枚渡そうとすると山本は首をふった。
山本の住まいは南千住にあり途中まで電車もいっしょだった。ふたりが常磐線沿いの同じ高校を出て、駅前近くの同じ画塾に通ったことがあると知ると、陽子はその偶然をよろこんだ。山本は、先輩と呼ばないといけませんねとおどけて笑った。
帰宅してスマートフォンをひらくと山本から連絡が入っていた。公募の件と他愛無い言葉だが、いっしょに頑張って賞をとりましょうとあるのを見ると胸がはずんだ。夫は実家にでもいたのか御前様で帰ってきた。
それからも頻繁に連絡がきた。ほとんどは団体の件、そのあらましや現行状況、賞の募集要項を見ながらの注意点、扱いやすいキャンバスの号数や近年の受賞者の主題の選び方などであったが、たまに花や風景の写真が添付されてきたりもした。構図はさすがにピタリと決まっていて陽子は感心したものだが、それが花や風景の絵をかけという意味なのか、それともこういうものを見て感性を磨けという指示なのかわかりかねた。 賞に関することなら返答に悩むことはなかったが、そうした写真にどう返したらいいかわからなかった陽子はスタンプなども使わずに律儀に返事をした。
山本の指示もあり、陽子は近場の大型ショッピングモールに行き練習に手頃なサムホールサイズのキャンバスその他を買い揃えた。陽子は今まで東京に出たときに絵具などまとめ買いしていた。通販は使わず、専門店で自分の眼で見て確かめて買わないと安心できなかった。それを聞いた山本が、電車賃を考えたら近くのショッピングモールでも事足りると教えてくれた。
実家からは、イーゼルやパステルなどを取ってきた。母は呆れ顔であったが、父は若いころスケッチ旅行などしていっときは写真を撮りためていたこともあるせいか、荷物運びを手伝って家まで送ってくれた。母は自分が頼んでもお皿一枚運ばないのに陽子だと違うのよねと眉をひそめたが、父が家にいなくて落ち着くのかよろこんで送り出した。
夫の誠はリビングにイーゼルを立てた陽子を画伯様とからかったあとは、そこに何が描かれているかも気にかけなかった。
陽子はスケッチブックに薔薇の花を描き終えてソファに倒れこんだ。絵のことだけで頭をいっぱいにさせていた。
翌週は秋晴れの空が広がった。上野駅はすでに公園口改札からひとだかりで、西洋美術館にはいるのは諦めた。幼いころ親に連れてきてもらっていた思い出の場所だ。ここにくると、帰るときには背筋がすっと伸びたきもちになる。
幼稚園生のときから絵のうまかった陽子に両親は絵を習わせた。女の子なのだからと学校の成績はさほど望まれなかった。けれど第一志望の芸大に落ちた時点で、母は期待をかけなくなった。世間では何年も浪人して入るものだと言っても、女の子が年ばかり食って何になるのかとくりかえした。第二志望の美大へ行き母方の叔母の家に住むことになった陽子は、夜遊びと無縁になった。
陽子とて学生時代に付き合った彼氏もいないわけではない。けれど、みな一線を越える前に別れてしまった。夫からモテなくて魅力のない女だと思われることを彼女は恐れた。当時親しく付き合いのあった恵は、男は処女のほうが嬉しがるからヨーコちゃんは変に男慣れしないほうがいいよ、と笑った。あたしも結婚したいなーと呟いた横顔は、彼女の絵のなかの少女よりずっと大人びて美しかった。その顔を見つめながら、陽子はなんのかんのと恵が好きで一緒にいるのだと安堵した。
先週、陽子は恵に手紙を出そうと思いついた。名前は二人展のDMにのっていた。古川恵といった。社会人になってから苗字が変わって、その時に陽子は何も聞かなかった。聞いていいかもわからなくて、ただ二人展のDMの名前を刷るのに必要で確認をとった。そのとき、彼女の実家の住所は手帳に保管した。引っ越すかもしれないと言っていたから。なので届くかどうかはわからない。けれど、夫にそれ本当にとっておくのとからかわれ、いっぽうで物持ちがいいと義母に褒められる癖が役に立った気がした。
それでも、いざ手紙を書こうとして、陽子は書き出しに思い悩んでいた。
恵は彫刻家ロダンの愛人カミーユ・クローデルに憧れていた。そんなことをさらっと口にできる彼女が羨ましかった。美人で才能ある悲劇の芸術家が好きといえるのは、恵のような女の子でないと恥ずかしいと感じていた。
陽子は学生時代を思い出しながら西洋美術館の外にあるロダンの彫刻群を眺めた。それから気を変えて動物園へと足を向けた。先週見かけた馬が見たかった。
馬はやはり日本の在来種で木曽馬といった。毛深く、体高は低く足も短くて、陽子のイメージする馬と違っていた。あれはサラブレットといって人間が拵えた芸術品で、目の前のそれと違うと知識では知っていたが、どうにも不思議だった。陽子はスケッチブックを出さなかった。ただ、彼女の視線にも怖じることなく鷹揚に歩きまわる馬を眺めた。
名画を見ているときと同じく飽きることがなかった。
「さっき、《地獄の門》の前にいたでしょう」
階段で後ろから囁かれ、山本の言葉に振り返る。ロダンの彫刻の名前だと気づくのに数秒かかった。山本が目尻をさげて見つめてくる。
「平野さん、こないだも階段でしたね」
「あ、はい……山本先生も」
「山本でいいですよ。団体に入ってますが、先生せんせーいう感じは好きじゃないんですよ。学生相手は仕方ないですが」
山本はそこで足をとめた。階段をいっしょにあがるものと思っていた陽子は一段のぼり損なって、よろけた。大丈夫ですかと抱き支えられて、だいじょーぶですだいじょーぶですすみませんと慌てふためいた陽子の手からスケッチブックが音をたてて床に落ちた。
身体はすぐ離れて、山本は腰を落としそれを拾いあげた。渡してくれるものと待っていたが戻ってこない。紙をめくる音が踊り場に響き、陽子はじぶんの緊張した息遣いがうるさい気がして口を噤んでうつむいた。
「一週間でこれだけ描いたんですか」
「ひまな主婦なので……」
「いや凄いですよ。量をこなすのは大事ですから。ただ、似た構図に偏りすぎなのが気になります。また来週見せてください。応募は三月ですし、下絵のことを考え始めたほうがいいかもしれない」
パタンと音をたてて閉じられたそれを渡されて、はい、と陽子はうなずいた。小手調べとわりきって得意な構図ばかり選んだのを見てとられたのがかえって嬉しかった。頑張りますとくりかえすと、また山本の目尻がさがる。何がそんなにおかしいのかよくわからない。
「じゃあ今度から電話しますね」
「あ、はい。よろしくご指導お願いします」
陽子が深く頭をさげると、平野さんは素直でいいなあと山本は口にした。首を傾げると、絵をかく人間はなんのかんのと我が強いからねえと、苦笑した。批評されるのを嫌がり、怒りだしたり泣いたりするひとがいるのは陽子も知らないではない。
「わたし、学生時代に批評されることとかあんまりなかったので嬉しいです」
陽子は心の底からそう思った。
階段をのぼる足取りも軽い。たぶん今日もあっという間に二時間半が経つだろう。そのことを恵に書いて送ればいい。陽子の唇に笑みが浮かんでいた。
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