六章 烏龍茶

 額装承ります、という文字がガラス扉に記してあるビルの三階に教室はあった。一階は額縁と画材屋だ。なかをのぞくと額縁マットを切る職人の手の動きが目にはいった。しばらくそんなものを見ていなかったと思い出す。

 受付は二階で、陽子は狭いカウンターのある事務所で会員証を作らされ入会金と授業料以外に画材費も支払った。受け取った会員証が入室のさいに必要なのかわからず、名刺サイズのそれを手のなかでもてあましながらエレベーターでなく階段をつかって三階へ行く途中、山本に後ろから声をかけられた。

「受付は、あ、すましましたね」

 山本はすぐ横に並び、陽子の手の会員証を見てそう判断し、こっちですと手招いて前を進んだ。呆気にとられたが、陽子は少し小走りになって後を追った。山本は教室に入って立ち止まり、新しく入会した平野さんです、と後ろを振り返ったきりイーゼルを立てる若い男性のところへすたすたと歩いていった。残された陽子はその場で名乗って頭をさげた。みな彼女の挨拶を聞いているのかいないのか、作業にとりかかっている。陽子は妙な注目を浴びなくてほっとした。

 手ぶらでと言われたとおり簡単な道具は用意されていた。受付で渡された新品のアクリル絵の具とペーパーパレットなどを陽子はこわごわと取りだした。静物の教室なのでモチーフはもう決まっているようだった。特に何を描きたいという希望もなかったので、陽子は同年代らしい黒い服をきたボブカットの女性のそばに陣取った。あわよくば名前くらい教えてもらえるかと思ったが、彼女は陽子に一礼しただけだ。

 お茶の稽古で女性のおしゃべりに慣れている陽子は少しおどろいたが、遅れて入ってきたひとも挨拶しただけですぐ席についていた。ここはそういう流儀なのだと割り切った。 

 陽子は深呼吸してからワインボトルとグラスと林檎が置かれたテーブルを眺めた。初日で短時間となると、グラスひとつで十分に思えた。

「凄い集中力ですね」

 山本が後ろに立っていた。

 二時間半が文字通りあっという間にすぎた。ただ紙の上に残された線だけが、この場にいた証だ。

「ほんとうにひさしぶりで……」

 陽子は恥ずかしさに肩をすくめ、ちいさな声でこたえた。隣りの女性はもう道具をかたづけていた。陽子の視線に気づいて頭をさげて立ちあがった。ちらりと垣間見た絵は達者で、初心者ではないとわかった。美大を出てまた絵を描き始めたひとかもしれない。仲良くなりたいと思ったのに、陽子は自分から声をかけられなかった。しかも山本がすぐ後ろにいて絵を見おろしているので、なんとなく立ちあがりづらい。まわりは山本に挨拶をしてひとり、またひとりと帰っていく。

 さすがに二人きりというのは気まずいと思ったところで、山本は先ほどさいしょに見にいった男性に声をかけた。田中くんと呼ばれた学生らしい青年は荷物を手にして山本の隣りに立った。そして、あ、イケるんじゃないですか、と口にした。

 その後、陽子が生まれてから一度も体験したことのないノリで居酒屋に連れていかれた。おなかすいてますよね、はい、じゃあ行きましょう、という会話しか交わされなかった。

 学生時代、こんなふうだっただろうか。生ビールのジョッキを掲げながら陽子は内心で首をかしげた。挨拶もそこそこにすぐさま彼らと通話アプリのIDを交換させられ、SNSのフォローを頼まれた。山本はもちろん田中も気安い感じでよくしゃべったし、料理もせっせと自分たちで取り分けた。なんなら陽子よりよほど気が利いていた。

 思い返してみると陽子の学生時代の男友達は、そのいちばん仲の良い友人が目当てだった。描く絵のとおり可愛くて、でもわがままで、神経質なところがあった。自信満々かとおもうと、不安なときは陽子をよく誘ってきた。彼女が陽子といっしょにいたのは、陽子が他の女の子たちと違ってその子にあからさまに嫉妬したり陰で悪口を言ったりしなかったからだ。ヨーコちゃんはやさしいもん、こころがきれいだし、とよく口にした。そんなことを言われても陽子は喜びもしないし腹も立てなかった。彼女も裏表がないという意味では他の子よりずいぶんと付き合いやすかった。

 二杯目にグラスワインを頼みながら、陽子は彼女の名前を思い出す。めぐちゃん、呼び方はさすがに忘れていない。恵(めぐみ)だったはずだ。でも最後に会ったときの苗字が思い出せなかった。なんて薄情なんだろうと考えて自嘲した顔を山本にのぞきこまれた。

「平野さん、実はけっこうお酒強い? 全然飲めないひとかと思いました」

 よくそう言われるが、飲めなくはなかった。陽子はそれでも、そんなに強くないですとこたえた。飲める飲めない等ということより、先ほどのはなしの続きを教えて欲しかった。

 山本が鞄からチラシを取りだした。

「団体の公募展の新人賞です。来年三月に審査があるので出しましょう」

 山本は陽子が断るとは想像していない様子だった。学生の田中もそうだ。陽子はいまどきの若いひとたちが団体展に所属する理由がよくわからなかった。ああいうところに属するのは趣味の絵描きか、時代遅れの慣習に従うひとたちだと思っていた。日本画なら理解できなくはないが、画家として食べていきたいのなら、画廊で発表していったほうがよほど手っ取り早いのではないか。そう思ったのが伝わったらしい。

「いまの時代、無名の画家が個展をしても来場者はないし、そもそもまったく売れないです。団体展なら決まった額で出品できて大勢のひとに見てもらえますしね。ある程度そこで力をつけてから個展をして自分の作品を世に問うていけばいいとぼくは考えます。大枚はたいて個展をして売れないしひとも来ないじゃ心が折れちゃいますよ」

 そうですか、と陽子はうなずいた。たしかに引っ越してからはそもそも画廊巡りなど前のようにしていない。夫の仕事の付き合いで買う絵の金額もだいぶ下がったし、その機会自体が減った。自分からしてそうなのだから、山本のいうことに説得力はあった。たしかに、もし陽子が個展をするとなれば夫に了解をとらなければならないだろう。金銭的な問題だけでなく、時間的なことについても。

「四十歳未満というと今回が最後のチャンスですし、頑張ってみます」

 山本が、え、と大きな声をあげ、その狼狽に自分で笑ってから口にした。

「ぼくはてっきり、ぼくとそんなに変わらないかと思ってました……」

 陽子もちいさく笑って、童顔なのでとこたえた。田中はうちの親と五歳しか違わないんですか、へーと遠慮なく目を丸くした。

 山本は、じゃあそういうことで頑張りましょう、ぼくも出来る限りのことはしますからと請け合った。

 ひと段落して山本は田中にニューヨーク行きの話しをしはじめた。陽子はそれを聞きながらワインの残りを干しあげて、そっと周囲を見渡した。この店は地元にもあるチェーン店だ。小洒落た感じなので陽子も主婦仲間と行ったことがある。内装もほぼ変わらず、けれどあちらより狭い。なんにせよ、そういう時代なのだと陽子は胸裏でひとりごちた。

 空になったグラスを見て、山本が同じワインでいいですかと尋ねた。陽子はゆるゆると首をふって、烏龍茶をいただきますとこたえた。家に着くころには素面が望ましかった。

「酔って帰ると旦那さん心配しますものね」

 山本の声に心の内を見透かされてドキリとすると、目の前の男は陽子をまっすぐに見て微笑んだ。

 このひとは結婚しているのだろうかと考えて陽子は自分をはしたなく思った。男のひとが結婚しているかどうか気になったのは初めてだった。

 田中が店員を呼びとめて烏龍茶を頼んでくれて妙な居心地の悪さはなくなった。陽子は酔い覚ましとばかりに冷たいそれを流しこんで息を吐いた。


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