十章 カレー
電話の鳴る音で叩き起こされた。心臓がドキリとなった。手のなかにスマートフォンはなかった。雨戸がおりている。ということは夫が帰ってきて閉めたのだ。
鼓動が痛いほど早くなった。
夫に見られて困るものはすべて削除したはずだった。けれど、寝ていたあいだにもしも連絡があって、それを見られたのだとしたら……。
膝が震えた。それでも起きた。電話はまだ鳴っている。ベッドからおりて鳴りつづける電話に手を伸ばした。
義姉の美穂だった。
「陽子さん、もしかして眠ってた?」
「いえ、その……大丈夫です」
どぎまぎしながらこたえると、美穂は大丈夫といった言葉で安心したのか、買い物をお願いしたいのよと口にした。
「スマホのほうに連絡しても既読もつかないから心配しちゃった。じゃあ悪いけどよろしくお願いします。てきとーでいいからホントに。じゃあすみませんけど」
あっけらかんとした声はそこで切れた。陽子は大きく肩で息をして手に持った子機から自分の番号にかけてみた。出ない。電波の繋がらないところにいるか電源が入っていないとの例のアナウンスが入る。どうしたものかと頭を抱えた瞬間、一階から夫の声がした。
「陽子、起きたのか」
飛び上がるほど驚いた。けれど陽子はすぐに気をとりなおした。夫の声はいつもどおりだった。階段をおりていくと夫はキッチンに立っていた。
「電話、誰だった。手を離せなくてな」
「お義姉さんだった」
陽子はそうこたえながら自分のスマートフォンがリビングの定位置に、つまり充電器の上にあるのを確かめた。そのまま近寄って、電源がオフになっているのも認めた。安堵の吐息が漏れそうになるのを押し殺し、背中を向けたままの夫へと声をかけた。
「どうしたの、珍しくキッチンにいるなんて」
「ん、ひさりぶりにカレーでも作るかなと」
玉葱を熱心に炒めている夫は、陽子がスマートフォンを手に取ったことも気づく様子はなかった。彼女はソファに腰かけた。
「ねえ、訪問着の写真見てくれた?」
「ああ、見たよ。あれはおふくろが誰かの結婚式のとき着たやつじゃないか」
「そうなの。とても素敵よね」
陽子はスマートフォンの電源を入れてマナーモードにした。それから着信履歴を確認した。義姉からの電話が二度ほどあった。山本からの通知は、あの後はない。けれどSNSのDMがあった。ひらく。田中からだった。あの居酒屋でのアドレス交換後は初めてだ。教室の連絡事項かもしれないとあけてみた。
陽子は息を殺してそれを読んだ。
田中は、山本が既婚者であると教えてくれた。離婚調停中ではあるけれど、その原因は山本の浮気が原因だと。
不思議なことに、なんの衝撃も訪れなかった。ひどく冷めた気持ちでいた。遊ばれていたのだと思えば気も楽だ。
田中は最後にこう書き添えていた。
おせっかいかと思ったんですが、そんなことで絵をやめるのもったいないんで来てくださいね。絵の指導には間違いない人ですし。宮入さんもそう言ってました、と。
宮入というのが誰かわからなくて首をかしげたが、すぐに思い当たった。きっとあの、ボブカットの女性だ。彼女がよそよそしく見えた理由も納得がいった。
陽子はそのDMも削除した。返信は落ち着いたらすればいい。再びため息をつき、山本がくれた最初の連絡をひらいた。それでも消せなかった。
「おふくろから話しがあって」
ぎくりと肩が震えた。
「おまえが疲れてるみたいだから、たまには奥さんサービスしてやれって説教されたよ」
陽子の唇は震えていたが、夫は手を止めずそのまま続けた。
「お茶に絵の教室に、なんでもかんでもやりすぎじゃないか? のんびり屋の陽子にはあちこち手を出すのは向かないんじゃないかな」
「……そうかもね」
陽子の声はこわばったままだが、夫は気にとめた風もなく聞いてきた。
「中辛でいいか? おまえは辛口のほうがいいって言うけど」
「うん、それでいい」
陽子はソファから立ちあがった。
「わたし、お義姉さんからお買い物を頼まれたから出かけてくる」
「またか?」
夫が火を止めて振り返った。陽子はおどろいて足をとめた。
「いいかげんにしろって言ってやろうか」
「……ううん、大丈夫」
「そうか。美穂さんはなんでもかんでも陽子に頼みすぎな気がするよ」
陽子は首をふった。どうして今になってこんなことを言いだすのかわからなかった。義母の差し金だろうと見当をつけた。
陽子は気を取り直し、帰ったら美味しいカレーができてるかと思うと嬉しいと夫へ声をかけた。夫は、任せとけと笑顔で送り出した。
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