二章 さざ波

 平野陽子は十一年前に夫の誠とともに利根川沿いのベッドタウンへ越してきた。

 その前は、東京都北区十条のマンション住まいだった。アーケードの商店街が有名なところだ。陽子も夫も、十条がテレビに出るとかかさず見る。夫は、かつてよくいった洋食屋のマスターが目に見えて老けて白髪が増えただの、あのカフェは雑誌やテレビで噂になるがそれほどでもなかっただのと言う。しかし、そうやって難癖をつけながら最後には必ず、また行ってマスターに顔を見せてやるかなどと口にしてテレビを切った。陽子もうなずいて、わたしはインテリア雑貨を見て歩きたいとこたえたものだ。そんな会話を繰り返すくせに二人はこの十一年、一度たりともそこへ行かなかった。

 たまに陽子は思い出す。あそこでの暮らしが、いわゆる蜜月だったのだと。

 じっさい、そこにいたのは結婚してしばらくのことだった。陽子が二十五歳、夫が三十六歳からの三年で、互い以外に気兼ねする相手がいないので、たいそう気楽で自由な時間でもあった。だから、それのないことがこの憂鬱の元凶かと陽子は考える。

自室で乱暴に帯を解き、着物を肩から落とす。重みのある縮緬がばさりと音を立てた。以前はこんなふうに何もかも脱ぎ散らかしたりはしなかった。なのに近頃はなんでも扱いがぞんざいになっている。

 伊達締めをほどき長襦袢を椅子の背にかけたまま、黒タイツに足を入れ同じ色のロングスカートをはく。頭は夜会巻にしたままなので前立てのブラウスに赤いカーディガンを羽織る。

 陽子は鏡台の前に腰かけた。ポスンと間の抜けた音がして、それにさえ癇がたつ。どうせ自分だって買い物に行く予定だったのに、何故こうも苛立つのだろうと彼女は考えた。眉間が狭く、口角がさがっている。こんなにイライラするのは生理前のせいにちがいないと自分を納得させて、かるくパウダーをはたきなおし、眉尻を描きたした。口紅だけはティッシュオフしてラインから丁寧に、埋めるように引いていく。コンタクトをやめて眼鏡をかけてからアイメイクには以前ほど手間をかけなくなった。ただマスカラだけはたっぷりと、若いときと同じに塗りたくることもある。

 不思議と、化粧をしていると肩の線がなだらかになった。絵筆を握っている気分になるからかもしれない。

 そもそもてきとうにと言われるのが面倒臭い。義姉はたしかに陽子の買ってきたものに文句をつけることもない。けれども、その化粧をしていない細く短い眉が不満げに寄せられるときもある。だったら何を買ってきてとはっきり指示してくれたらいい。

 いちど、そう言ってみた。陽子はきわめて穏当な調子で口にしたはずだ。ところが義姉は肩をすくめて、献立を考えるのがめんどうだから陽子さんに頼むのよ、お任せでイイの、旦那はとくに文句いわないし、と返してきた。

 陽子はそれ以来、日替わりで掲載される「今日の献立」をインターネットで検索しそれそのとおりの材料を買うことにした。もう煩わされるのはごめんだと思った。

ようやく脱いだものを拾いあげそれぞれハンガーにかけて始末して、念のため後ろ姿を鏡にうつしてチェックした。ひとに見られて恥ずかしいことはない。それでいて格別に気を張っているようにも見えないはずだ。

 もうすぐ四十を迎える年齢になって、若いころに着ていたものと肉体にズレが生じはじめた。服のサイズ自体はほぼ変わりないものの、からだのラインが違ってきた。フォーマルなものはいい。それなりの金額を出せばかっこうがつく。ところがカジュアルとなると昔の服ではどうもうまくない。二十代なら何を着ても似合うものだ。流行を押さえていればどうにかなる。

 三十過ぎてから何を着たらいいか悩むのよ、とむかしの勤め先で先輩たちが話していた体験がじぶんのものになった。ちかごろ陽子は車で十分のスーパーへ買い物に出るのに、銀座へ友人の個展を観にいくときより鏡の前で悩む時間が多くなった。

 気が重いのは義姉に会うからだとわかってもいる。ずいぶん前のことだが、スーパーの買い物袋を渡したとき、陽子さんはスーパーに行くのにも東京のOLさんみたいな服を着るのね、と笑われてその一言が尾を引いている。義母や稽古仲間には褒められる装いが、義姉からすると失笑すべき対象なのだ。

 田舎暮らしはめんどうくさい。ともかく浮かないように、かといってみっともなく劣ることもないように振る舞わないとならない。それに尽きると陽子は思っている。


 グレーのスエットの上下にピンクのラバーサンダルをひっかけた義姉に買い物袋を渡してやっと気が楽になると、陽子はお湯を沸かしチョコレート菓子の箱をあけた。すると、その様子を見ていたかのようにリビングに夫がやってきた。

「紅茶でいい?」

 ああ、と生返事が聞こえた。陽子は背を向けたまま夫のぶんのカップを用意する。テーブルにそれを置くと、目の前の夫はソファに沈み込み目をとじて眉間をおさえていた。

 一級建築士の誠は五年ほど前に大手建築会社を辞めて実家の不動産屋と建設業を手伝いはじめた。それ以来、どうも急速に老けはじめた気がする。むろん年が離れているのだからそこは差し引かないとならない。けれどサラリーマンだったころはこんなふうではなかったと陽子は思う。義母に似てお洒落なせいもあっただろう。ところが今日のように外出しない日に、なんの変哲もない紺色のセーターなどを着ると一気に中年らしさが増した。夫自身もうすうす自覚しているらしい。

 不況の波はこの街にも怒涛のごとく押し寄せた。土地価格の低下を受けて事業は芳しくなかった。田畑や雑木林を潰して建てられた、似た顔をした住宅地や団地が立ち並ぶ風景を車から眺めながら、あの一戸ずつの家、その部屋のどこかに自分と似た女がため息をついていると想像し、陽子はたまにぞっとすることがある。

 それでもベッドタウンを象徴する独特の街並みにはひとの気配のある分、ましだった。もっと恐ろしいのは脇道にはいったときにある、住むもののいなくなった廃墟のおぞましさだ。高齢化がすすんだ街のいたるところに打ち捨てられたままの家があった。台風の後など、庭木が道路にはみ出して通行の邪魔になるので陽子はそれを市に連絡する。まわりの誰も、面倒になる仕事はしない。けれど平野家は地元で商売もしている都合上、知らぬふりをできなかった。そんなことで一日が潰えると陽子は頭痛で翌日は半日寝込むことがあった。

 引っ越してくる前、田舎暮らしはのんびりした陽子に合っていると思うよと夫は言った。自然が豊かだから絵を描くのにもいいじゃないかとも勧められた。お盆や年末年始、春と秋の彼岸のころに訪れていた当時は、夫の言葉をもっともだと思っていた。まさかこんな暮らしが待っているとは想像もしなかった。 

 それにくわえて、毎月当たり前に同じ給料が支払われるわけではない日々の不満を抱えているのは陽子ではなく、夫のほうだった。兄の剛と父親へのそれを、夫は陽子の前では口にしない。この土地へ越してくることも、また前職を辞めることに対しても陽子が強く反対したからだ。それを押し切ってした結果について後悔する言葉を吐き出したくないのだとわかっていた。だからその件で言い争いになったことはない。

いや、夫は陽子に対して声を荒げたことは一度たりともなかった。友人たちの夫のように、こころない物言いもしない。だからといって陽子のすることすべてに快く肯くわけでもなかった。

 また吐息がもれそうになってあわてた。おまえ最近ため息ばかりついているなと夫に言われたばかりだった。不満を口にしないよう自分は気をつけているのにと匂わせるふうでもあった。

 ふと陽子は義母から和菓子をもらったことを思い出した。このごろはおなかまわりを気にして夜には甘いものを食べないよう気をつけている夫だが、夕飯のあとに義母からだと差しだせば食べないと意地をはることもないだろう。それを伝えようとしたとき、夫がチョコレートを口にほうりこみながら言った。

「そういえば兄さんから文化祭の講演会に二人で行ってきてくれって頼まれたよ」

 陽子はカップをおろして口にした。

「でもわたし、お義母さんのお茶席の手伝いがあるから終わるまではそうそう出歩けないけど……」

 そのこたえに誠は眉を寄せただけで日程を確かめもせず、ならば自分だけ行くとも返さなかった。兄夫婦のかわりに用を足せと言われることは珍しくない。あちらは子どもが小さいことを理由に用事を言いつけてくる。じっさい幼い子連れでの移動が大変なのは理解しているが、あまりに頻繁でそれに対して礼の一言もないとやりきれない。夫婦して、あちらの小間使いみたいなものかと陽子はまた深く息をつく。

 手にもったイタリア製のティーカップにさざ波が立った。

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