一章 藪椿
義理の姉に夕飯の買い出しを頼まれて平野陽子はため息をついた。ちかごろスマートフォンが鳴る度に憂鬱な気分になる。
今日連絡が来たのは義母の家でお茶の稽古を終えて茶釜を洗っているときのことだった。稽古仲間は、あら陽子さんの携帯よね、などと口々に声をあげるがおしゃべりに夢中でお茶道具の後始末を代わってくれる様子はない。この稽古場の主の義理の母も座の中心から動く気配はなかった。陽子はどうせ義姉だろうとわかっていたので、後でかけ直しますからと言いおいて茶釜の底についた煤(すす)を刷毛でていねいに洗い清め、それを茶室へと戻してから廊下へ出た。
陽子が通話アプリで連絡をすると、待ち構えていたように義姉が出た。陽子さん、ああよかったあ。家の中しっちゃかめっちゃかで大変だから買い物をお願いしたいのよ、適当でいいから、と口にした。陽子は愛想よく、わかりました、あとでお届けしますねとこたえた。ホント陽子さんがいてくれて助かるわ、といういつもどおりの感謝の言葉を聞いて通話を切って、小さな吐息がもれた。
いつごろ気がついただろう。陽子が義母の家にいるときにかぎって、見計らったかのように義姉の美穂が用事を頼んでくることに。
勘違いかもしれないと考えた。被害妄想じゃないかと。
じっさい義姉は妊娠中で四歳の双子を含む幼い子ども三人も抱えているのだし、大変なことは間違いない。それに親の面倒をみると言いきってくれた長男の嫁のためにそのくらいの便宜をはかっても罰は当たらない。まして陽子は夫の両親に家を建てて住まわせてもらっている次男の嫁なのだ。だから義姉の頼みを断ったことは一度もない。それでもため息は零れ落ちていく。
お茶の稽古を終えた後、菓子をつまみながら四方山話にふけるのはみながとても楽しみにしている時間だった。義母の小百合はお茶の先生らしく話し上手で、みなの暮らしの中のささいな不満をひとつひとつすくいあげ、でもあなたのお宅はこんないいことがあるじゃないの、と微笑んで場を和ませた。それがただの世辞でなくたいそう親身な言葉に聞こえるのはきっと人徳というものだろう。陽子はそんなふうに義母を尊敬していた。
しかも義母の小百合は女優のように美しいひとだった。洋服のセンスもよかったが、着物をきたときの彼女は格別で、大勢が着物で集う大寄せの茶会でもひとが振り返るほどだ。
来週には市の文化祭で立礼の茶席を設けることになっている。だからみな今の時期はとくに稽古に気合いが入る。陽子はこうして田舎に引っこんだ今も、義母のおかげで楽しく過ごしていると感じていた。たとえその手伝いのために、熱心に働いていた仕事をやめなければならなかったことも、今となっては気にならない。
いっぽう義姉の美穂とは反りが合わなかった。尋ねる前から自分のことを話し出し、用件だけ言ってさっさと通話を切るひとだ。ともかくあけっぴろげで押しが強い。年はひとつ違い、陽子のほうが上だった。
「すみません。頼まれごとがありますので、お先に失礼いたします」
美穂から連絡がなければ最後まで残って、いま卓上にある茶碗まで拭いて帰るのが常だった。まだ炬燵(こたつ)に入っていた皆は、きちんと膝をついて挨拶をした陽子を見てあわてて座布団をおりようとした。すると義母が、みなさんはどうぞごゆっくりと口にしてすっと立ちあがり、稽古用生菓子の余った分を手早く紙袋につめなおした。そのまま陽子を玄関まで送りながら持っておいきなさいと手渡してくる。陽子はもちろん夫の誠も甘いものが好きだ。夫はことに和菓子には目がない。おしいただいて御礼を述べようとしたところで義母が声をひそめて言った。
「美穂さんはあなたに甘えすぎじゃないかしら。剛(つよし)さんから言ってもらうようにしましょうか」
剛は美穂の旦那だ。陽子の夫である誠の三つ年上の兄にあたる。夫はこの義母に似た細面でひょろりとした背の高いひとだが、剛は舅と似て長身なだけでなく横幅もあり、学生時代はラグビー部にいたそうだ。よくも悪くも雑駁で、陽子には馴染めない。
「いえ、わたしもお夕飯の買い物にはいきますからついでのことです」
あらそう、とあからさまにほっとした顔つきで義母がこたえた。やはり事を荒立てたくないのだと陽子は感じた。
「陽子さん、少し早いけど初釜のときに着るように私の若いころの訪問着をお直しに出したのよ。来月半ばには届くと思うから、ひとりのときに取りに来てね」
見つからないようにしてと続けられて、陽子はしかとうなずいて頭をさげた。義母の若いころの着物を陽子の寸法に仕立て直ししてくれるのはこれで三枚目だ。順番からいうと本来は義姉の美穂が先に譲り受けるものだが、美穂さんはろくに着てくれないからと義母は内緒で陽子に渡してくる。
「お菓子をごちそうさまです。誠さん、喜びます」
ここで失礼してごめんなさいねという義母の穏やかな笑みに見送られて玄関を出た。
門をしめて狭い道路にでたとたん冷たい風が吹き抜けて、陽子は慌てて肩に羽織っていたストールをきつく巻きなおした。ふくらんだ蕾をもつ藪椿の生垣を横目にし、もうすぐこの花が咲いて一年も終わりになるのかと、どうしてか空恐ろしい気持ちがした。
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