③
数十分路面電車に優しく揺られると、目的の駅に着いた。そこから更に都内を走る電車に乗り換えるために、駅前へと歩道を行く。歩く度に腕に抱えた風呂敷包みから、紙が擦れる音が立つ。
その包みは原稿を封筒に入れて、更に風呂敷で包んでいるため音がするのは仕方がない。本来であれば、背負っているリュックサックに入れるのが安全だと思う。しかし、開閉口が後ろのため何かあったとしても気付かないのは怖いことだ。
これは先生から預かった大切な原稿だ。だから僕は両手で原稿が入った風呂敷包みを抱えている。
「よし、時間通りだ」
「にゃぁ」
交差点の信号待ちになり、腕時計で時刻を確認する。このまま行けば順調に電車に乗ることが出来る。そう思っていると、不意に足元から猫の鳴き声がした。
「……ん? あれ、猫さんだ。こんにちは」
「にゃ」
目線を下げると、僕の足元に黒い猫が居た。思わずその瑠璃色の瞳と視線が合い、挨拶をすると彼女も返してくれた。
何故、黒い猫を彼女と思ったかは分からない。強いて言えば勘のようなものだ。
「あ、信号が変わった。じゃあね、猫さん」
「んにゃぁ!」
信号が赤から青へと変わった。足元の彼女へ別れを告げると、一歩踏み出した。しかし二歩目を踏み出そうとすると、黒い猫が前へと飛び出した。
「えっ……ちょっ……」
「にゃあ! にゃ!」
僕は横断歩道を渡り駅へと向かいたいのだが、彼女はそれを許してくれない。小さな体を左右に振り、僕の行く手を阻む。如何やら僕に何か伝えたい事がるようだ。
その必死の訴えに、邪険にするわけにも行かず。腕時計を再度確認すると、乗る予定である電車の時刻まで少し余裕がある。彼女の用件を済ませてからでも間に合うだろう。そう決めると周囲を見渡す。先生との約束があるからだ。
そして周りに誰も居ないことを確認すると、しゃがんだ。
「猫さん? 僕に何かご用ですか?」
「んにゃ! にゃあ!」
僕が声を潜め黒い猫へ話しかけると、彼女は嬉しそうな鳴き声を上げた。そして僕の足元を離れ、歩道を歩き振り向くと再び鳴いた。まるで『着いて来なさい』と言っているようだ。彼女が怪異であれば話をすることが出来たのだろう。
しかし、話せないからこそ相手の意図を汲み取ろうと努めるのも悪くない。彼女の後に続く様に、僕も歩き出した。
「何処に行くのかな?」
「にゃ! にゃ!」
黒い猫に先導されながら五分程、道を真っ直ぐに進む。すると彼女は急に駆け出し、細い路地へと入って行った。
「あ、待って!」
一拍遅れ、僕も黒い猫の後を追い路地へと入った。
「はぁ……。今日はとことんツイテないな……全く……」
「にゃ!」
昼間だというのに、人が一人通れる程の路地は薄暗かった。光源として光る自動販売機の前に、黒いフードを被った男性が独り言を呟いていた。
彼に黒い猫が駆け寄った。
「あ? 牡丹、何処に行っていた? 俺は喉が渇いて苦労しているという時に……」
「んにぁ!」
男性が彼女の存在に気が付き、眠たげな深紅の瞳がこちらを向いた。そこで彼の身長が自動販売機より頭二つ程飛び出していることに気付いた。つまり彼はとても背が高いのだ。狭い路地という圧迫感のある空間であるがこともあるが、比較対象である自動販売機がある。そのことから、彼の身長が二m程あることが分かった。
彼の身長に驚いたが、僕が此処に来た理由を思い出す。
「あ、あの……何か困りごとですか?」
「……は……? え……えぇ? えっと……その……もしかして、俺に話している?」
黒い猫が僕を呼んだのは、きっと彼が関係している筈だ。彼へと話しかけた。すると、男性は深紅の瞳を大きく見開いた。それから左右と上下、後方を振り向いた。
そして最後に自身を指差しながら、僕が話しかけた対象が己で合っているかの確認をした。何故か、その指が微かに震えている。
「あ、はい。そうです」
「にゃあ!」
彼の質問に、僕と黒い猫が返事をした。
「う……うわぁぁぁ……。マジかぁぁぁ……。え? なにこれ? 俺が悪いのか? いや、本のことは不可抗力だし……。姿を見られているのは……マントを着ているのになんで……」
男性は僕たちの返事を聞くと、その場に座り込んでしまった。項垂れながら、小さく独り言を呟く。先程、指が震えていた事と座り込んだ事。その二つの事を考えると、黒い猫が僕を呼んだのは彼の体調不良を知らせる為だったのだろう。彼女は、優しく優秀な猫だ。
「大丈夫ですか!? 具合が悪いのですよね? 救急車を呼びましょうか?」
「……い、いや。大丈夫だ……」
彼の前にしゃがみ、男性の様子を伺う。だが僕は医師や看護師ではない。顔色が悪いということぐらいしか分からなかった。それに身長の高い彼を運ぶことも残念ながら出来そうにない。自分に何か出来ることと言えば、専門家へ助けを求めることぐらいだろう。ポケットからスマホを取り出した。
しかし、それは彼が拒否したので手を止める。
「ですが……顔色が悪いですよ?」
「うぅ……それは……」
薄暗い路地だが、自動販売機の光に照らされた彼の顔色は青白い。とても放置出来る状態ではないのだ。そのことは本人も自覚しているようだ。彼は場都合が悪そうに顔を逸らした。
「にゃ! にゃあ!」
「ん? ……あぁ! そうだ。先ずは水分補給をした方がいいですね!」
不意にパーカーの裾が下へと引かれた。視線を下げると、黒い猫が自動販売機を両手で叩いる。彼女は自動販売機を叩きながら、僕に向かって鳴き声を上げた。
そこで漸く、彼女が何を伝えたいのか理解した。そうだ。脱水症状の可能性もある。それに先程、喉が渇いていると言っていた事を思い出した。僕は立ち上がると、お財布を取り出した。
「いや……あの……」
「遠慮なさらず、何がいいですか? お茶、お水と紅茶、フルーツジュースに珈琲があるますよ?」
僕が自動販売機の前に立つと、男性が遠慮がちに声を掛けて来た。飲み物の要望があるならば、教えて欲しい。選びやすいように、表示されている商品を読み上げる。それから僕は何時でもボタンを押せるように、小銭を投入した。
「えっと……大丈夫だから……」
「んにゃ!」
男性が再び口を開くと同時に、僕の肩に黒い猫が乗った。そして彼女は一つのボタンを迷う事なく押した。がこん、と音を立て一つの缶が取り出し口に出てきた。
「……あぁ……何をしている。牡丹……」
「わぁ! 凄いですね、ボタンを押せるなんて! 賢い猫さんですね!」
「にゃん!」
何故か彼は落胆したように、疲れた声を出した。逆に、僕は彼女の行動に驚きと感心の声を上げる。動物が賢く、時に人が驚く行動と結果を齎すとは聞いたことがあった。
しかし、話を聞くのと実際に目の当たりにするのでは感動が違う。主人とペットの絆を垣間見ることが出来たのだ。黒い猫は僕の言葉を聞くと、地面に華麗な着地を決めた。そして胸を張ると、鳴き声を上げた。
「フルーツジュースです」
「いや……申し訳ないが……」
「先程、喉が渇いていると猫さんに言っていましたよね? 人間の体は6割以上が水分なのですよ? 脱水状態から熱中症になる場合だってあるのです。水分補給してください!」
取り出し口から缶を取り、屈み男性に差し出した。すると彼は缶を受け取ることを拒んだ。体調が悪いというのに、何故遠慮をするのか分からない。初夏とはいえ、今日はよく晴れている。出歩いていれば、喉も乾くのも自然だろう。
それに彼の黒い服装は太陽の熱を吸収し、暑さを倍増させる。喉の渇きを甘く見るのは大変危険だ。喉が渇いていると自覚した時には、かなり体から水分を失っていることが多いとも聞いた。大事になる前に、防げることは防ぐべきだ。僕はテレビで得た知識を彼にぶつけた。
「……うっ……分かったから……」
「冷えていて美味しいと思いますよ」
僕の言葉を聞いた彼は観念した様子で、缶を手に取り口を付けた。缶はかなり冷えている。きっと彼の喉を潤してくれる筈だ。
「……はぁぁぁ……生き返った……」
「にゃあ!」
喉を鳴らしながら、彼は勢い良く缶の中身を飲み切った。その様子を見て黒い猫が嬉しそうに鳴き声を上げた。予想通り、かなり喉が渇いていたようだ。やはり水分補給は大切である。そう思いながら、彼らの様子に安堵し頬が緩んだ。
「……悪いな、助かった」
「いえいえ、困っている時はお互い様ですから。お気になさらずに」
「……あんた、変わっているな……」
顔色が良くなった男性が姿勢を正すと、軽く頭を下げた。如何やら彼は礼儀正しいが、人から補助を受けることに罪悪感を持っているようだ。僕の田舎では困っている人が居れば、手助けをするのは自然なことだった。東京に来てからは、早々にトラブルに見舞われたが、良き知り合いに出会い助けてもらったのだ。
その経緯があってから、誰か困っている人がいれば手助けをするのは当然のことである。しかし、彼には僕が変わって見えているらしい。
「……え? そうですか? 自分ではわかりませんが……」
「……マジか? 相当だぞ……」
僕が首を傾げると、彼は怪訝そうに僕を見た。己のことは自分が一番知っていそうで、知らないのかもしれない。帰宅したら、尾崎先生に訊ねてみるのもいいかもしれない。彼ならば客観的な意見を与えてくれる筈だ。
「にゃん、にゃ!」
「……ん? 如何したの……わっ!? 時間が!」
黒い猫が僕の左手を気にしている。何かあるのだろうか、彼女に導かれるようにして左手を見た。すると時計が指し示す時刻が目に入り、僕は思わず立ち上がった。予定している電車の時刻が、あと数分と迫っていたからだ。
「なんか……すまん。予定があったのだろう? 俺ならもう大丈夫だから、行ってくれ」
「あ、いえ! 僕が勝手にしたことですし……でも……」
奇声を上げた僕を、男性が気遣うように見た。体調不良の人に気遣われて如何するのだ。そう思いつつも現在、自分がアルバイト中であることを思い出した。
そして両手に抱えているのは、尾崎先生の大切な原稿だ。彼が信じて預けてくれた、この原稿を無事に届ける責任が僕にはある。だが体調が悪い人を放置し、場を去るのはとても心苦しい。
しかし、信用を裏切ることも僕には出来ない。二つの思いに板挟み状態になり、如何したら良いのか悩む。
「大丈夫だ。俺もやらなければならないことがある。少し休んだら行くから、あんたも気にするな」
「うぅ……そうですか? 体調が優れなかったら、病院に行ってくださいね? あと、具合が悪くなったら、周りの人たちにも助けを求めて下さいよ? 必ず助けてくれる人は居るのですから! 黒猫さん。ご主人様が再び体調不良になった際には、誰か呼んでくださいね? では……大変申し訳ないのですが、失礼しますね。お大事になさってください!」
「にゃ! にゃあ!」
深紅の瞳が力強く僕を映した。彼には彼のペースがあるだろう。これ以上僕が此処に居ても出来ることは何もない。僕が男性と黒い猫に挨拶を告げると、頷きと鳴き声で返事を返してくれた。そして僕は路地から飛び出すと、駅へと駆けた。
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