②
『書き損じた原稿用紙』の山と海をかき分け、向きを整え紐で縛り部屋の隅に置く。この作業を何十回か繰り返し終えると、隣に居る尾崎先生のことが心配になって来た。何故ならば、先生が部屋に入ってから物音が凄いのだ。
引き出しを開けたり、物をひっくり返したりする音が響いている。何度か怪我はないか安否確認をしたが、『大丈夫だ』という一点張りだった。先生のことだ。言葉の通り何事もないとは思うが、疲労が蓄積していることを考慮すると些か心配である。
「……わっ!? 地震!?」
一際、大きな音が響いた。それはまるで大太鼓を打ち鳴らしたかのように強く鼓膜を揺らし、地面をぐらりと大きく揺らした。僕は慌てて、卓上の下に潜り込んだ。地震かと思ったからだ。
そしてズボンに入れていたスマホを確かめる。しかしスマホには、何も通知を示していない。如何やらこの音と揺れは、隣で行われている探し物が発生源のようである。
「……だ、大丈夫かな?」
続いて隣の部屋からは何かが倒れたり、物がひっくり返ったりする音が響く。先生が行っていることだから大丈夫だと信じたい。
しかしこれらの音を聞いていると、段々と心配になってくる。先生の身を案じながらも、己の仕事を終わらせるべく手を動かす。本当ならば番号通りや、話の流れの順番に並べて纏めるのが普通だろう。
だが、僕には原稿の番号も文字も見えない。番号が記載されているかも分からないのだ。だから、黙々と手にした『書き損じた原稿用紙』を淡々と纏めた。
「待たせたな」
「先生! 大丈夫ですか!?」
全ての『書き損じた原稿用紙』を紐で縛り終えると同時に、ピタリと物音が止んだ。そして静かに襖が開くと、右手に何かを持つ尾崎先生が姿を現した。
「問題ない」
「……そうですか。お探しの物は見つかりましたか?」
駆け寄ると、先生の顔には若干疲労の色が見えた。しかし彼が問題ないというのならば、深く追求することは避けた方が良いのだろう。そう感じた僕は、当初の目的であることについて訊ねた。
「嗚呼。ほら」
「……え? はい……」
先生から、彼が右手に持っていた黒い小さな箱を差し出された。何故、僕に渡すのか彼の意図が分からない。しかし、先生の行動には意味がある。取り敢えず両手でそれを受け取った。
その黒い箱は横幅が二十cm程で、奥行きが八cmぐらいの長方形の箱だった。厚みは5センチ程ではあるが、重たくも軽くもなく手に良く馴染む重さである。
「掛けてみろ」
「……え? えっと……先生?」
箱を『掛ける』というのは如何いう意味だろうか。頭に乗せれば良いのだろうか、それとも何処かに置いたら良いのか。そもそも『掛ける』の意味ではなく『駆ける』の意味だろうか。
色々と考えてはみたが、結局のところ分からず助けを求めるように先生を見た。
「……ん? 開ければ良かろう?」
「え!? 開けて良いのですか!?」
彼は座布団に座りお茶を飲んでいた。僕の視線に気が付くと、黒い箱を指差し不思議そうな顔をした。先生の発言に思わず大きな声を出してしまった。察しが悪い僕も悪いとは思う。
しかし、渡されたからと言って人の物を勝手に開けることは普通しないだろう。本当に、僕が開けて良いのか再度確認をする。慎重とも臆病とも言えるが、確認は大事だからだ。落ち着く為に、僕は先生の向かい側に腰を下ろした。
「無論だ。その為に探して来たのだ。使え」
「……えっと……。ありがとうございます。……では、失礼致します」
軽く頷くと、僕の言葉を肯定した。そのことは嬉しいが、次にこの箱の中身が気になる。先生があれ程、音を立てながら探して見つけ出した一品だ。一体何が僕を待ち受けているのだろうか。僕は未知へと緊張から無意識に唾を飲み込んだ。そして覚悟を決めると、ゆっくりと蓋を開けた。
「……え……。これって……眼鏡ですか?」
「嗚呼、眼鏡だ」
僕の手に逆らうこともなく、蓋は静かに開いた。そして、そこに収まっていたのは黒縁の眼鏡であった。見たままの情報を思わず呟くと、先生は肯定した。
やはり、目の前の物体は眼鏡で合っているようだ。
「……眼鏡……」
「うむ、眼鏡だ」
彼があれ程探して求めていたのが、眼鏡であるという事実に驚く。しかし先生のことである。きっとこの眼鏡には何かあるのだろう。そっと、黒縁の眼鏡を観察する。ボストン型の艶やかな黒いリムに、透明なレンズが収まっていることしか分からない。
これが眼鏡以外の可能性もあるが、先程確認をしたことを考えるとその可能性はないだろう。だが何故、僕は先生から普通の眼鏡を手渡されているのか分からない。
「えっと……先生? 何故、眼鏡なのですか?」
「? 見えないからだろう?」
そろそろ頭から煙が出るのではないか。僕にしては色々と考えた方だ。耐え切れなくなった僕は、何故、眼鏡を手渡されたのか質問をした。すると先生は、怪訝そうに逆に僕に質問をした。
「……へ? 見えていない? 視力は良い方ですが?」
彼の言葉に首を傾げた。先週の出来事である赤い鯉の時にも言ったが、僕は昔から視力は良い方である。未だに眼鏡のお世話にはなっていない。現に怪訝そうな先生の顔もはっきりと見えているのだ。見ていない筈がない。
「知っている。……これを見ろ、何が書いてある?」
「……え? ……何も書かれていませんが?」
先生は懐から一枚の紙を出し、卓上に置いた。差し出されたそれを広げると、A4サイズの紙を三つ折りした原稿用紙だった。僕はその紙をよく見たが、一文字も文字は書かれていない。
拾い集めた『書き損じた原稿用紙』と同じく、原稿用紙のマスだけが印刷された白紙だった。
「初めて紙を拾った際にも『原稿用紙が白紙』だと言ったな。つまり原稿用紙の部分は見えているのだろう?」
「……え? はい……」
彼が置かれた原稿用紙を指で軽く叩いた。確かに、僕は先生の許可を得て拾い集めた際に『原稿用紙が白紙』だと言った。肯定を表すように頷いた。
しかし彼の原稿用紙の部分はという言葉が気になる。原稿用紙以外の要素があるということになるからだ。
「この紙は特別製なのだ。普通の人間ならば、原稿用紙だとも気付かないだろう。ただの白い紙に見えるのだ。……だが、春一は目が良いため原稿用紙だと分かったようだな。しかし、文字までは見えていないようだ」
「……えっと? つまり……この原稿用紙にも文字が書かれているのですか?」
すらすらと原稿用紙について、先生が説明を始めた。その内容に衝撃を受ける。尾崎先生が怪異という存在であり、屋敷の中でも妖術を行使している。
ならば屋敷内に置かれた物も、不思議な存在や物である可能性があったのだ。それがまさか、紙にまで及ぶとは想像もしなかった。
もしかしたら、日頃使っている調理器具なども不思議な要素があるのかもしれない。
先生は僕に文字が見えていないことを確信すると、菫色の瞳の細め愉快そうに笑った。
「嗚呼、そうだ。春一、お主への頼み事が書かれておる」
「え!? そんな……。み……見えないのですが……。ご用件は何でしょうか?」
なんとこの紙には、僕への用事が書かれているという。何故、紙に書かれているのかは分からない。きっと、忘れない為に書き留めたものだろうか。それとも執筆に集中をする為に、置手紙をしようとしたのかもしれない。
何方にしても、きっと先生は内容をしっかりと覚えているのだろう。伝える相手が目の前に居るのだからが、直接内容を聞いてもいいだろう。
僕は先生に用事の内容を訊ねた。
「……はぁぁ。……それでは、つまらないであろう。春一?」
「……えぇ? ……」
やれやれと言った雰囲気で、先生は溜め息を吐いた。久しぶりに彼の『面白いか・面白くないのか』発言を聞いた。一般人で平凡な僕には、尾崎先生の感性を理解することは出来ないだろう。
一体如何したら良いのだろうか。僕は困惑した声を上げた。
「何のために、それを探し捕まえて来たと思っているのだ?」
「……え? えっと……」
腕を組んだ先生の瞳が鋭く、黒い箱を見た。今、彼は『捕まえる』と言っただろうか?『探す』というのは分かる。
しかし、何故そこで『捕まえる』という単語が出てくるのか不思議である。眼鏡は、誰かが動かさなければ意思を持ち動くことは有り得ない。何時から『捕まえる』ものになったのだろうか。ついつい細かいことが気になってしまい。先生への返答が、あやふやなものになってしまった。
「相変わらず、鈍いな。……眼鏡を掛けろ」
「は、はい!」
彼の指示は有無を言わせない力を持っていた。僕は、言われた通りに急いで眼鏡を掛けた。
「ほら、見てみろ」
「何もかわら……えっ!? 文字が書いてある!? ええ!? 先生! 文字が見えてきますよ!? あれ? でも滲んでいる?」
眼鏡を掛けた僕に対して、先生が先程の原稿用紙を広げて見せた。変わらないと言いかけると、その原稿用紙のマスの内側に文字がじんわりと現れた。
目の前で起きた現象に僕は、驚きの声を上げた。しかし、それらは滲みぼやけ直ぐには読めそうもない。
「そうだろう、そうだろう。何せその眼鏡は『無紙眼鏡』だからな。何。もう暫く、掛けておれば慣れて読めるようになるだろう」
「むし……めがね……ですか? 僕が知っているのとは大分違うのですが……」
感慨深げに先生が何度も頷く。
それからこの眼鏡の名前を知ることとなった。その名前は馴染み深い名前であった。子どもの頃はそれを通して見える世界が楽しく、いつも持ち歩いていた記憶がある。しかし僕が知っている物とは、形や用途が違う。
「嗚呼、あれは虫眼鏡だろう。これは『無紙眼鏡』と言い『何も書かれていない、無の紙を見る為の眼鏡』だ」
「無紙眼鏡ですか。書かれていない紙を見る眼鏡ですか……不思議ですね」
記憶にある虫眼鏡とは、同じ呼び名だが全く別物であると先生から説明を受ける。何も書かれていない紙を見る為の眼鏡とは摩訶不思議だ。眼鏡がなければ、そこに書かれた文字の存在に気が付くことが出来ないのだ。
お互いがその存在を知っているのであれば、秘密の文章を知らせることが出来る。便利だと言えば、便利だろう。しかし如何いう構造をしているのか分からないが、不思議な品物だ。
「人にとっては、そうかも知れないな」
「……? それは如何いうことですか?」
「うむ。我々、怪異には『無紙眼鏡』を通さずとも、隠された文字が見える。それは人間用ということだ」
「人間用……ですか?」
さり気なく怪異は眼鏡を使わなくても見えると言う。つまり、僕が纏めた書き損じた原稿用紙たちは、先生の目には全て文字が見えていたということになる。
続けて、この『無紙眼鏡』は人間用だと静かに告げた。
「うむ。人間に文字を見せるために作られた品だ。……勿論、怪異と言え全て隠された文字を見ることは出来ない。他の怪異には読まれる可能性があると考え、より気づかれ難い妖術をかけたり、独自の文字の開発を行ったりしているからな。おかげで、共通の文字以外に数多の文字が生まれた。私も未だに知らぬ文字に出会うこともある。中々に面白いものだぞ」
「そうなのですね。なんだが、開発競争のようですね……」
怪異には『無紙眼鏡』を通さず文字が読めるが、そのことにより文字の隠す事や新しい文字の開発が盛んのようだ。声が弾み、菫色の瞳に楽しい色を浮かべ語る先生。彼は文字が好きなことが伝わる。
彼とは出会って日が浅いが、少しだけ先生のことを知れたのは嬉しいことだ。
「……情報は、文字は力だからな」
「先生?」
先生がとても小さく何かを呟いた。先程までの声量で慣れていた耳には、小さな声を拾うことはなく。残念ながら何を言ったのか、僕には分からなかった。
「さて、紙と眼鏡の説明は終わったな。次に文字が見えない最大の理由は、書いているインクが特別製な上に妖術を掛けているからだ」
「えっと……紙は様式や存在を隠し、インクと妖術により文字を更に見えないようにしているということですか……?」
次に彼は文字についての説明を始めた。今日は、色々と知ることが多い日だ。僕は必死に頭を回転させ纏め、先生に合っているか確認をした。
「正解だ。論より証拠だな」
「……?」
先生は笑うと、懐から万年筆を取り出した。それは銀色のフォルムをした、シンプルだが品のある万年筆だ。そしてキャップを外すと、卓上にある原稿用紙に何かを書き始めた。
「ほら、読んでみろ」
「えっと……その……『そろそろ、慣れてきた頃だろう。用件を読め』……ですか?」
滑らかな動きで文字が綴られた。そして書き終わった文字を彼が指で叩いた。僕は紙を覗き込み、見えた文字を読み上げた。
「そうだ。今書いた文字は、人間が使う日本語で書いた。春一にとって馴染み深いものだ。だから直ぐに読めた。通常、紙とインクの効果で秘匿性が高い。『無紙眼鏡』を使用しても使用者の認識度によっては見え方に時間差が生まれる。先程、直ぐに読むことが出来なかったのは、用件を怪異の文字で書いていたからだ」
「怪異文字ですか……そういうことでしたか……。あ! この眼鏡があるのでしたら、『書き損じた原稿用紙』をちゃんと纏め直せますよね!」
先生は二つの文章の違いを説明してくれた。文章を読めなかった理由が、使用者の文字の認識度によって変わるとは本当に不思議だ。しかし使用者によって見える度合いが変わるという点は、普通の眼鏡と同じなのかもしれない。
そう思っていると、ある事に気が付いた。そうだ。この『無紙眼鏡』があるならば、『書き損じた原稿用紙』を種類や順番通りに纏め直すことが出来るのではないだろうか。
「それなら無用だ」
「えっ!? ……う……分かりました」
僕の言葉は即却下された。僕が『無紙眼鏡』を使用して原稿用紙を見るのが嫌なのだろうか。確かに『書き損じた原稿用紙』だから、先生は読まれたくないのだろう。
きっとプロ意識の現れなのだ。『書き損じた原稿用紙』を纏めることは、僕が勝手に申し出たことである。その後始末を先生に任せてしまうことを申し訳なく思う。
しかし、原稿用紙の持ち主は先生である為、彼の決定には従うべきである。僕は了承した。
「……それよりも、私の用事を読んでみろ」
「あ、はい! えっと……『春一へ、副業のことは忘れておるまい? 本日中に鬼瓦の元へ赴き、原稿を届けて来てくれ。夕食は稲荷寿司だぞ』……え?」
先生に促され再度、原稿用紙に目を向けた。すると、初めは滲んで読めなかった文字がはっきりと読み取る事が出来た。その内容を読み終わると、顔を上げ先生を見た。
「つまり、そういうことだ」
「えっ、というと……これは……」
彼は満足気に頷いた。そして何時何処から取り出したのか、菫色の風呂敷包みを僕に渡した。僕はそれを両手で受け取る。話の内容から察するに、この風呂敷包みは先生の大事な原稿だ。
「難しく考えるな。では、私は寝る。頼んだぞ」
「は、はい! 勇美さんにちゃんとお届け致します。いって参ります」
そう話す先生は、押入れから布団を出すと敷いた。そして、横になると布団を被った。相当お疲れのようだ。僕は先生に一礼し、挨拶を口にすると襖をそっと閉じた。
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