第4章 文字喰い
①
使い慣れたお盆の上に、山盛りの稲荷寿司と湯吞茶碗を乗せて廊下を歩く。
僕が向かう先は、尾崎先生が書斎として使用している部屋だ。この屋敷の一番奥にあり、僕が一度も足を踏み入れたことのない部屋だ。
数日前から先生は原稿の仕上げに追われている。食事は三食しっかりと摂るのだが、集中をするためか食事以外では書斎からは出ない。それでも食事を居間で摂るところを見ると、先生は休息と仕事をしっかりと分けているようだ。本来ならば、先生が休憩に居間を訪れた際に昼食を出す。
しかし今日は昼食の時間を、一時間ほど過ぎても彼は現れなかった。几帳面で時間に正確な先生には、珍しいことだ。きっと、良く筆が進んでいるのだろう。それは良いことだ。だが、以前の空腹により倒れたことなどを考えると、倒れていないか心配になる。先生は恩人であり、雇用主だ。健やかにいて欲しい。
だから、こうして食事を持ち先生の書斎を訪れることにしたのだ。
「お仕事中、すいません。先生、大丈夫ですか? お腹は空いてはいませんか? 」
普段立ち入らない屋敷の奥へと続く、廊下を通り抜けると閉じられた襖の部屋にたどり着いた。なるべく仕事の邪魔をしないように、声を潜め襖の向こう側に声を掛けた。
「……仕方がない……。稲荷寿司は冷蔵庫に入れておくしかないか……」
先生からの返事はない。それどころか、襖の向こう側からは物音ひとつ立たない。彼の安否が気になるが、集中をしているならこれ以上邪魔するわけにもいかない。持ってきた稲荷寿司は、後で食べることが出来るように保存をしておこう。
そう決めると踵を返そうとした。
「…………」
「わっ!? えっ! 先生……?」
スパーンと音を立て、勢い良く襖が開いた。そして開け放たれた部屋の入り口には、俯く先生が立っていた。彼は何時も所作にも無駄がなく、洗練された動作の中で襖や障子の開閉も丁寧だ。しかし、目の前で佇む先生は日頃の面影がない。
きっと何か重要なことが起きたのだろう。知ることは少しだけ怖いが、僕に手伝えることであれば協力をしたい。
恐る恐る、俯く先生へと声を掛けた。
「は……腹が減った……」
「……あ、えっと。此処にご用意してありますが、居間に向かいますか?」
尾崎先生が顔を上げると同時に、彼のお腹が鳴った。倒れてはいなかったようだが、空腹により彼の声に元気がない。朝もしっかりと食事を摂った筈なのだが、昼食を一時間も過ぎてはエネルギー切れのようだ。僕は両手で持つお盆を軽く上げた。
「いや、良い。此処で食す」
「え、はい。……先生? 何方に置けば宜しいのでしょうか?」
稲荷寿司を目にした彼の目が光った。本当に先生は稲荷寿司が大好きである。
緊急時に備えて稲荷寿司を持ってきたが、普段は食事と仕事を分けている。その為、先生に食事をする場を確認した。すると書斎で食べるという返事に、少し驚きつつも頷いた。少しも動きたくない程に空腹なのだろう。先生が体を避けると、部屋に足を踏み入れた。
しかし直ぐに足を止めた。何故ならば部屋の中は紙でいっぱいであり、文机・卓上・畳の上……何処も原稿用紙に占領をされていたからだ。正に足の踏み場がない状態である。
更に言えば、この原稿用紙たちは、先生の大切な作品である可能性が高い。万が一にも僕が作った稲荷寿司が、原稿用紙を汚すことや傷付けることになるのは回避しなければならない。彼もそういう心配があるからこそ、食事と執筆の場を分けているのだろう。このような場で食事を提供することは出来ない。居間までとは言わないが、せめて違う部屋で食事をしてもらいえないだろうか。
「……ん? 嗚呼、こうすれば良かろう」
「は!?……ぎゃあ!! 先生!? なんてことをするのですか!? 大切な作品ですよね!?」
僕の言葉を聞いた先生は目の前にある卓上の、上に置かれた紙の山を反対側へと無造作に押した。先生の手によって崩された原稿用紙たちが、悲しげに畳の上へと舞散らばった。僕は悲鳴を上げた。
「……? いや、それらは書き損じた紙だ。気にすることはない」
「えぇ……。ですが……」
自身の書いたものだというのに、先生は特に気にした様子もなく言い放った。本人が気にしていないのだから、僕が何か言うことはないだろう。
しかし、作品を作り上げる上で生み出されたものをぞんざいに扱う事に戸惑いを感じた。
「春一」
「……はい」
先生は卓上の前に、座布団を敷くと座り僕を促した。一先ずは己の仕事を全うすることにしょう。僕は座ると原稿用紙が退かされたスペースに、稲荷寿司が乗るお皿と箸と湯吞茶碗を置いた。
「いただきます」
「はい。御代わりも沢山ありますから、言って下さいね」
空腹だというのに、先生は両手を丁寧に合わせると挨拶を述べた。そして静かに箸を持つと、稲荷寿司を食べ始めた。その様子を見ていると、先程の荒い所作が噓のようだ。一体何だったのだろう。空腹だから所作が乱暴になったわけではないようだ。先生も生き物だ。慌てる時もあるだろう。
そう自分の中で納得をすると、まだまだ御代わりがあることを彼に告げた。
「…………」
「…………」
先生は僕の言葉に頷くと、ひたすらに稲荷寿司を食べる。正直なところ、僕は手持ち無沙汰だ。稲荷寿司を作るのに使った調理器具は全て片付けてある。僕自身の昼食は既に済ませてある。
つまり、やる事がないのだ。御代わりを先に用意しようかと考え、稲荷寿司が盛られたお皿を見たが減り具合が少ない。何時もならば、直ぐにでも御代わりが必要になるのだ。
そこで先生の箸の動きが何時もより、緩慢であることに気が付いた。
「先生? 何処か具合が悪いのですか?」
「……いや。眠いだけだ」
仕事のし過ぎにより、何処か調子が悪いのだろうか。僕が訊ねると、彼はゆっくりと首を左右に振った。菫色の瞳も何処か覇気がないように感じられる。
「そうですか。連日お忙しいようでしたから、お疲れなのですね」
「…………」
彼の動きの理由が分かり、体調不良ではないことに息を吐いた。小説家ではない僕には、先生の大変さを真に理解することは出来ないだろう。
だが、『書き損じた原稿用紙』の量から察するに苦戦を強いられていることは想像出来た。
「先生、その……よろしければ。こちらの原稿を纏めても宜しいですか?」
「……? 構わぬが、それは春一の仕事ではないぞ?」
僕は先生に『書き損じた原稿用紙』を纏める許可を求めた。片付けをすることが出来ない程に、先生はお疲れのようだ。このままにしておくには忍びない。
僕の申し出を聞くと、彼は怪訝そうに眉をひそめた。
「それは理解しています。ただ、このままにしておくのは少し悲しいです。作品が出来る糧になったのですから……。勿論、先生が不要とおっしゃるのなら、そのままにしておきますが……」
尾崎先生が僕の仕事ではないと指摘をした。確かに彼の言う通りである。僕の仕事は『稲荷寿司係』である。『書き損じた原稿用紙』を纏めることは、本来の業務内容ではない。そのことは理解している。これはただの自己満足だ。
それに先生にとって何か拘りや流儀があるならば僕が余計なことをするのは憚れる。
「ふむ。良かろう。この部屋で散らばっているのは、全て書き損じだ。この紐で纏め、部屋の隅に置いておいてくれ。処分は後日行う」
「はい。分かりました。ありがとうございます」
予想に反して、彼は快諾してくれた。そのことにお礼を伝えると、僕は『書き損じた原稿用紙』たちを拾い始めた。
「…………あれ? これも? こっちも?」
原稿用紙たちを拾い集めていると、不思議なことに気が付いた。原稿用紙のどれもが白紙なのだ。原稿用紙のマスだけがあるだけで、肝心の一文字も文字が書かれていない。先生は確か『書き損じた原稿用紙』だと言っていた。
しかし書き損じたはずの文字が書かれていないのは、一体如何いうことだろう。
「如何した?」
「……あ、えっと。原稿用紙が白紙で……文字が書かれていないのですが……」
僕が戸惑っていると、先生が話しかけてくれた。振り向くと彼は丁度、稲荷寿司を食べ終えたようだ。良いタイミングな為、白紙の原稿用紙を見せながら疑問を口にした。
「白紙……? ……嗚呼、そういう事か。少し待て……」
「……? はい……」
少し首を傾げた後に、瞬きをすると納得したように頷いた。彼はこの不思議なことを当然のように受け入れているようだ。
もしかすると、妖術だろうか。そう考えていると先生は立ち上がり、箪笥の前へと立った。昼食を摂った為か、先程より動作が安定している。少しでも先生が元気になってくれて良かった。
そして彼は引き出しの一番上の段を開けると、何かを探し始めた。
「……? 見当たらないな」
「先生?」
箪笥を最後の段まで順番通り開け、全ての段を探し終えた。すると彼は腑に落ちないとばかりに、一言呟いた。如何やら目当ての物が見付からなかったようだ。先生は顎に手を当て考え込んでいる。一体何を探しているのか僕には検討もつかない。ただ唯一分かることは、この不思議な『書き損じた原稿用紙』に関係していることだろう。
「探し物が見当たらないのだ。すまんが、そのまま片付けていてくれ。隣を探してくれる」
「はい、分かりました」
彼は僕にそう告げると、隣の部屋に続く襖の前に立った。
すると自動的に襖が開き、彼がその部屋に入ると襖が静かに閉じた。妖術による自動襖である。先生が使う妖術にも少しだけ慣れてきたが、この自動襖は大変便利だ。特に大量の稲荷寿司を運ぶ時は、両手が塞がっている為とてもありがたい。
勿論、常に自動襖に頼っているわけではない。自室や料理を運ぶ以外の時は、自分の手で襖を開閉している。そのことは尾崎先生にも伝えてある。何でも便利なものに、便り過ぎるのは良くないことだからだ。
無論、術を行使する先生自身ならば良いと思うが、僕は恩恵に肖り過ぎて甘えになってしまう可能性がある。だからなるべく緊急時や両手が塞がっていない時以外は、自分で行うと先生にお願いをしたのだ。
そのことに対して先生は不思議そうな顔をしたが、了承してくれた。そのようなことを思い出しながら、手元の原稿用紙を纏め紐で縛り終わると部屋の隅に置いた。
「よし、次は……まだまだあるな……。よし! 先生が戻るまでには綺麗に片付けておこう!」
振り返ると、文机の上と畳の上を覆う原稿用紙の山と海。一体どれだけの枚数あるのか分からない。しかし自分から言い出したことだ。僕は気合いを入れ直し、『書き損じた原稿用紙』へと手を伸ばした。
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