住宅地から少し外れた公園の池。その傍で蹲る赤色の鯉が居た。


『はぁぁぁ……怖かった……』

「見つけたぞ」

『きゃあぁぁぁ!!』


 ほっとしたように息を吐く、後ろ姿に尾崎先生が声をかけた。すると彼女は大きな声を上げ、その場で飛び上がった。そして先生から逃れる為に、反対方向に逃げようとした。


「こんにちは!」

『わあぁぁぁぁ!!』


 逃げようとした反対側からは、鬼瓦さんが顔を出した。驚いた彼女は再び叫び声を上げた。左右を先生と鬼瓦さんに挟まれた彼女は、縮こまり可哀想なほど震えている。


「えっと……お二人とも。何故かわかりませんが、怖がっているようです。ですから……少し距離をおいた方が良いのではないでしょうか?」

「え!? 何で、私が怖がれているの!? 朴念仁で無愛想な、恭介が怖がれるのは分かるけど! 何で私まで!?」

「おい、指差すな」


 このままでは話しを聞くことが出来ない。僕は二人を止めるべく声をかけた。すると鬼瓦さんが大きな声を上げながら先生を指差した。その行為に、尾崎先生が注意をする。


『ひゃぁ!!』

「嗚呼……先生、勇美さん……。驚かせてしまって、ごめんなさい。僕たちは、その……貴女が何故、鯉のぼりにくっ付いていたのか理由が知りたいのです」


 鬼瓦さんと尾崎先生のやり取りに、赤い鯉は怯え。悲鳴を上げた。二人には悪いが、彼らが喋るとまともに話が出来ない。僕はしゃがみ、怯え小さくなる彼女の背中にそっと声をかけた。


『本当? 本当に話を聞くだけ?』

「はい、大丈夫ですよ。お話しを聞くだけです」


 胸鰭で頭を覆いながら、少しだけ顔を上げてくれた。その隙間から見えた彼女の瞳からは、大粒の涙がこぼれていた。彼女にとって、かなり先生と鬼瓦さんのことが怖いようだ。安心させるため、なるべく優しく声をかける。


『でも……私のこと、食べたりしない? 二人は、鬼に……妖狐でしょう?』

「分かるのですか? ですが、大丈夫ですよ。お二人は……」

「私が食すのは、稲荷寿司だけだ。怪異の鯉など、余程の物好きしか口にしないだろう」

「あら! 以前食べた普通の鯉のお刺身は美味しかったわよ!」


 二人は信頼出来る……そう伝えようとすると、先生と鬼瓦さんがそれぞれの意見を口にした。その内容がこの場において、最も場違いな発言である。恐る恐る彼女の反応を見た。


『嫌あああぁぁぁぁ!!! やっぱり、私を食べる気なのだわ!!』 

「あぁ……。やっぱり……」


 赤色の鯉は天を仰ぎ、大きな瞳から滝のように涙を流し叫んだ。予想通りの反応を見て、僕は溜め息を吐いた。先生と鬼瓦さんは優しく気遣いが出来る怪異である。

 何故、彼女をわざと怯えさせるような行動や発言をするのだろう。


『こ、このまま……妖狐と鬼なんかに負けてたまるものですか!!』

「妖狐なんか?」

「鬼なんか?」

『ひ、ひゃぁぁぁぁぁ!! ごめんなさい!!』


 鯉の彼女は気力を振り絞り、大声と共に跳ね上がった。しかし先生と鬼瓦さんから見下ろされ、泣き崩れてしまった。彼女を追い詰めることに関しては、息がぴったりと合っている。怯えた鯉がいなければ、きっと僕は手放しに仲の良い二人の光景を喜んだだろう。


「何故、鯉のぼりに掴まるなどの奇行に走った」

『言います! 言います! 言わせていただきます! ……あそこに建つマンションが見えますか?』

「……え? はい」


 赤色の鯉が胸鰭である方向を示した。その先を見ると、この公園に隣接して建つ低層のマンションがあった。


『……最上階のベランダ側の、窓に白い猫が居るのが見えますか?』

「えっと……三階ですよね?」

『……はい。私は……私は……彼に会いたいのです。だから、飛ぶ練習をしていたのです……』

「会いたい?」


 彼女に説明をされた通り、最上階である三階の部屋を見た。すると、窓際に白いペルシャ猫が尻尾を揺らしていた。気のせいだろうか、話しをする彼女は元々の赤色より更に赤くなっているように見える。会いたいというのは如何いう意味だろう。僕は首を傾げた。


「恋ね!! 素敵だわ!! 私、貴女のことを応援しちゃう!!」

『ほ……本当ですか!?』

「ええ! 勿論! 驚かせちゃったようで、ごめんなさい? でも私が協力するわ!! 彼に会いに行きましょう!!」

『はい!! 宜しくお願いします!!』


 突然、鬼瓦さんが赤い鯉の前にしゃがむと応援すると宣言をした。それに対して驚きながらも、赤い鯉は鬼瓦さんを見上げた。更に協力すると鬼瓦さんが断言をすると、胸鰭と両手で手を取り合い。先程の怯えていたのが噓のように、彼女は笑った。


「……えっと……。これは、如何いうことなのでしょうか?」

「そこの鯉の怪異は、あの猫に恋心を抱いているのだ。見ての通り、跳ねたところで届く距離ではない。地面を行くにしても、部屋の中まで入ることは叶わん。だから、鯉のぼりに掴まり飛ぶ練習をしていたのだ。鬼瓦はその気持ちに感化され、協力を申し出たのだろう。物好きな奴だ」


 何がなんだが分からない僕は尾崎先生に訊ねた。すると、飛ぶことの練習に盛り上がっている鯉と鬼瓦さんを眺めながら説明をしてくれた。他者のために協力を申し出たり、質問に応えてくれたりと、やはり鬼瓦さんも先生も優しい怪異なのだ。


「なるほど……。ですが、その……こう言っては難ですが……鯉は空を飛べるものなのですか?」


 白い猫に会いたい事、飛んで会いに行く事は理解をした。だが、鯉は魚だ。空中を飛ぶことは可能なのだろうか?そんな疑問が浮かび上がった。会いに行くことを夢見る二人には聞こえないようになるべく声を潜め、先生に質問をした。


「無理だな」

「えっ!?」

「あやつは、鯉の怪異だ。水中を泳げるが、空中を飛ぶことは出来ん」

「……そんな……」


 無慈悲にも即答されてしまった。そして取り付く島もない程に、決定的な言葉を聞いてしまった。現実は時に酷なことがある。このままでは、恋する鯉は想いを伝えることすら叶わない。それは悲しすぎる。

 せめて、怪異が見える僕が彼女をあの部屋まで連れて行ってあげたいが、残念ながら部屋の住人とは知り合いではない。いきなり家に押しかければ、不審者だと思われて会う事は叶わないだろう。


「仕方がないことだ」

「そうですが……なんだか、頑張りが実らないのって……切ないなと……。はぁ……」


 如何にかすることが出来ないことがある。そのことは理解出来る。しかし、彼女の奮闘ぶりを思えば如何にかしてあげられないものかと思ってしまうのだ。僕は力なく、溜め息を吐いた。


「…………。稲荷寿司作りには、集中をするのだぞ」

「はい、大丈夫です! 仕事は仕事です! ちゃんと気持ちを切り替えて、ご用意させていただきます! ご安心ください!」


 菫色の瞳が僕を映し、僕ははっとした。気持ちが落ち込んでいると、仕事のミスや仕上がりに影響を及ぼす。それは料理にも言えることだ。体調は勿論、気分が良ければとても美味しいものが出来上がる。

 しかし、逆であれば普段通りに作ったとしても味の抜けた美味しくない物が出来てしまうのだ。僕は『稲荷寿司係』だ。美味しい稲荷寿司を尾崎先生に提供する義務がある。気分を切り替えられず、不出来な物を先生に差し出す訳にはいかない。


 先生を安心させるように、僕は弁えている事を笑顔で伝えた。


「……鯉よ、単刀直入に問う。この池は、お主の領域と元々の池が混じっているな?」

『……え!? そ、そうですが……。何か問題が……?』


 僕の返事を聞いた先生は、徐に赤い鯉へと歩き出した。そして彼女の前に立つと、僕には分からない内容の質問を放った。突然、先生が近付いたことに驚いた彼女は、隣にいた鬼瓦の背中に隠れ顔だけを覗かせて応えた。


「では、その領域を一度解き自身に纏え」

『……え……? えぇ!!? そんな、高度なこと出来ませんよ!!』

「出来るか如何かは問題ではない。やれ」

『ひゃぁ!!』


 更に先生が言葉を重ねた。すると鯉は悲鳴を上げ跳ねると、鬼瓦さんの背中に完全に隠れてしまった。


「ちょっと! 恭介! 今、飛べるように練習をして……」

「そのような練習は子ども騙しだ。鯉は飛べぬ。鬼瓦、それはお前も知っているだろう。気休めは止せ。誰も救えんぞ」

「恭介……貴方……」


 背中に隠れた鯉を庇う様に鬼瓦さんが両手を広げ、先生を睨み上げた。しかし尾崎先生の淡々と事実を告げる声に、彼は口を閉じた。優しい先生がこうも、必要以上に他者を追い詰めるのは何故だろう。事件の早期解決や食事の時間が近いわけでもない。昼食を摂りお腹もいっぱいな筈である。彼は常に人を思い気遣いが出来る。

 きっとこの冷たい態度にも、深い理由があるのだ。僕は尾崎先生を信じ、次の言葉を待った。


「さて、鯉よ。さっさとやらぬか。私は常に最高の稲荷寿司を食べたいのだ。我が家の『稲荷寿司係』の気を揉ませるな」

『ひゃあ!! でも、でも……』

「…………」


 僕は先生から発せられた言葉に、思わず言葉を失った。一体如何したらいいのだろう。先程から先生は鯉に対して、並々ならぬ威圧感を放っている原因は僕にあったようだ。

 だが、おかしい。先生にはちゃんと作ると宣言をした筈だ。彼女を責めるのは、違うように感じる。


「なんだ。お主の想いはそんなものか、ならば逢瀬が叶わなくとも当然だな。勇気のないものに、道は開かれん。自身の得意を思い出せ」

『うぅ……言いたいこと……。勝手に言って! 私だって! 私だって!!』


 自分が原因で揉めているのならば謝罪をし、説得をした方が良いのではないか。僕が考え込んでいると、先生と鯉の会話はヒートアップをしていく。大丈夫なのだろうか?そう思っていると、池から小さな水の玉が数個宙に浮いた。

 そしてそれらは赤い鯉の周囲に集まり、彼女の体を優しく包んだ。


「やれば出来るではないか」

『そうよ! 私だってやれば出来るのよ!! この恋心は誰にも止められない! 邪魔なんてさせないわ!!』


 先程までの威圧感を消した先生が満足気に笑った。その菫色の瞳には優しい色が浮かんでいる。彼は鯉が出来ると確信をしていたのだ。

 その反応を受けて、彼女も自信満々に胸を張った。散々、先生や鬼瓦さんに対して、怯え萎縮していた姿をもうない。


「では、行くと良い」

『えぇ!! 勿論、言われなくたって行くわよ!! ……でも、ありがとう!!』


 朗らかに笑う先生の言葉を受けると、彼女は体を折り曲げた。そして勢い良く地面を蹴ると飛び上がり、空を飛んで行った。


「……え……? 飛んで? あれ? 先生……鯉は『飛べない』と仰っていませんでしたか?」

「嗚呼、そうだ。鯉は『飛べない』」

「えぇ? ですが……飛んで……」


 目の前で起きた出来事について、僕は先生に質問をした。何故なら先生が再三言っていた、鯉は『飛べない』と矛盾することが起きたからだ。先生は僕の言葉を肯定した。益々、意味が分からなくなり僕は助けを求めるように鬼瓦さんを見た。


「こら、恭介。春くんが混乱しているでしょう! ごめんなさいね。ほら、お昼前に見た鯉のぼりを見て何を思ったかしら?」

「えっと……青空が海のようで……気持ちよさそうに泳いでいると……」


 僕の視線を受けた鬼瓦さんが助け舟を出してくれた。昼前に鬼瓦さんと一緒に見上げた鯉のぼりを思い出す。雲一つない空がまるで青い海のようであり、悠々と泳ぐ姿が気持ち良さそうだと感じた。そのことを思い出しながら、口にした。


「そう! それよ!」

「え?! それ? どれのことですか?」 


 正解だと鬼瓦さんが笑顔で手を叩いた。しかし、答えが明言されなかった為、首を傾げた。


「『泳ぐ』ということよ!」

「えっと、『飛ぶ』ではなく『泳ぐ』という認識の違いということですか?」

「正解! そういうこと!」


 彼から正解を告げられ、認識の違いであることに気が付いた。だが、認識の違いだけで怪異とはいえ、水生生物が空を移動することが出来るようになるのだろうか。少しだけ疑問を感じた。


「不服そうだな。目の前で起きた出来事だというのに、信じられぬか?」

「うっ! えっと……現象が信じられないというよりは、認識の違いでそこまで変わるものですか?」


 僕が納得をしていないことが先生に伝わったようだ。彼に指摘をされて驚きつつも、正直に話した。


「変わるな。あの鯉は、水中と陸上と空中を分け認識をしていた。池に同化させている領域を体全体に展開をすることにより、その認識を変えたのだ。『飛べない』空中を得意な水中の『泳ぐ』に変換した」

「はぁ……妖術というものですか?」


 先生が使う所は何度か見たことがあるが、他の怪異が使う所は今回が初めてだった。なんとも非現実的だが、綺麗だと思った。


「そうだな。しかし通常であれば、あれ程早く認識を変換することは容易ではない。あやつの並々ならぬ執念がそうさせたのだろうな」

「あら! それはそうよ! 恋する乙女パワーを甘く見ないでよね! 無限のパワーが味方をするのだから!」


 赤い鯉が妖術に長けていると、先生はマンションの方を見ながら語った。それに対して鬼瓦さんが、恋の力だと断言をしてウインクをした。その言葉には不思議と説得力があった。後は鯉が彼に想いを伝えるだけだ。


「……あ!」

「如何した」

「如何したの?」


 赤い鯉と白い猫のことを考えていると、一つ問題点に気が付いてしまった。2人が僕を見た。


「……そ、そう言えば、相手の白い猫は赤い鯉のことを見えるのですか?」


 そうなのである。気が付いた問題点は、相手の白い猫が赤い鯉を認識出来るかである。折角、空中を泳ぐことが出来るようになったが、会いに行けたとしても認識をされなければ想いを伝えることが出来ないのだ。僕は二人の反応を見るのが怖くて、視線を地面へと向けた。


「見えているだろうな。動物は人間よりも五感が優れている上に、本能的に怪異の存在を捉えることに長けている」

「そうそう! ほら、猫ちゃんが部屋の隅をじっと見ているとか聞くでしょう? あれは殆ど怪異だったりするのよ! 私も実際に知人の家で、怪異を見ている猫ちゃんと遭遇したことあるもの! 大丈夫よ!」

「そうですか……それは良かったです。ありがとうございます」


 尾崎先生と鬼瓦さんの返答を聞き、僕は今度こそ胸を撫で下ろした。まさか動物たちが怪異の存在を認識出来るとは思わなかった。驚きの発見だ。


「それにして恭介、馬に蹴られなくて良かったわね?」

「蹴られるわけがなかろう。会えるように助言をしたのだぞ」


 日が傾いてきた公園を後にしながら、鬼瓦さんがしみじみと話しかけた。すると先生はさして気にした様子もなく淡々と返事を返す。並んで歩く2人の会話を後ろから見守る。


「えぇ? そう? 貴方、美味しい稲荷寿司が食べたいからって言っていたじゃない?」

「……噓は言っていないだろう。早く帰るぞ」


 鬼瓦さんは少し悪戯気に、件の稲荷寿司を食べたいから発言について言及した。それに対して、少し間を置いて先生は返答した。そして、少しだけ歩行速度が上がった。


「あ! そういえば、何故、僕が気を揉んでいると分かったのですか?」

「春一、お主は顔に出やすいからな。一目瞭然だ」

「そうね、噓をつけないタイプよね! 素直で私は好きよ!」


 一緒に来たのだから、目的地は同じではあるが一緒に帰った方が良いだろう。一人先を行こうとする先生の背中に声を掛けた。すると、二人共に足を止めて振り向くと即答した。それぞれの表情は、絶対的な自信が現れていた。


「はは、お二人には敵いませんね……。あ! 見てください! 影が……」


 そんなに僕は顔に出やすいタイプだろうか。そう考えていると、視界の端で夕陽が輝いた。眩しい赤色に目を細めながら、そちらを見た。するとそこには、マンションの一室に仲良く寄り添う二つのシルエットが見えた。如何やら心配は杞憂に終わったようだ。


「ほら、憂いが晴れただろう。夕食の稲荷寿司を楽しみにしているぞ」

「恋する乙女の勝利ね! こら、恭介ばっかりずるい! 私も、春くんが作る夕食を食べるわよ!」

「勿論、大歓迎ですよ! 心を込めてお作りさせていただきます!」


 僕の反応を見て、先生と鬼瓦さんは微笑んだ。優しい夕陽に照らされながら、僕たちは帰路に就いた。 


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