壊れた心を抱き寄せて

田山 凪

人は成長するために

 当時、私は十歳だった。家族旅行にき、水族館や植物園、当時行われていたゲームキャラクターのデザインを担当していた人の美術展に行ったりと、楽しい時間を過ごした。

 しかし、突如としてその平穏は壊された。

 モールで鳴り響くスマホのアラート音。何度か聞いたことのある音。最初はなんなのかわからなかったけど、機械的な冷たい音声が地震であること伝えた。あまりにもそれは無慈悲で、救済ではなく絶望を知らせるものだった。


 私はトイレから本屋にいる両親の下へ戻る途中で、少し距離はあったが直線だったために気にしていなかった。しかし、大きな揺れは脳みそをパンクさせる。その場にとどまることしかできず、慌てふためく人々の声が今でも鮮明に思い出せる。

 ガラスが割れて、棚が倒れ、私よりも幼い子どもや赤ちゃんの泣き声、天井に釣られていた照明が落下し、下の階で配られていた風船がふわふわとあざ笑うように自由に飛び立つ。


 私は悲鳴も泣き声もあげることができなかった。もちろん恐怖していたし、今でもトラウマとして心に傷が残っている。でも、周りの人たちが、大人たちが、普段はもっともらしいことを言っているのに、いざとなればまったく力を発揮せず無能で無様な踊りを見せている姿や、私以上に恐怖している人々を見て、泣くまでには至らなかった。心は泣いていただろう、だけど涙は出なかった。


 地震だけならまだよかった。だけど、それと同時に建物が一部壊れたのだ。火災が発生して別の物へ引火。近くに消火器だってあるのに多くの人はそれを取らずに出口を探し求める。お店のスタッフがなんとか避難誘導をするが、今思えばたかだか自給数百円から千数百円の人間にそんなことをさせるのは酷ではないか。

 様々な保証で手厚く守られている自衛隊や消防士、警察が同じことをするのとはわけが違う。

 なのに、逃げだすスタッフを見て怒号を飛ばす人がいるのに対し、私は第二の絶望を感じた。

 サービス業は命を守るサービスさえしなきゃいけないのかと。


 様々な不運と度重なる余震が状況を刻々と悪化させていく。もう、本屋に行く一本道は使えない。そんなタイミングでスマホはトイレに忘れてしまった。私はなんとかトイレに戻るが、水浸しの状況と、個室から流れる汚水をみてスマホを諦めた。

 

 建物の完全倒壊はさすがにないだろうと思いつつも、さっきまでの楽観的な思考がこの状況に対し一切の対抗策を講じれなかったことを反省し、何が起きても不思議ではないとなんとか自分に思い込ませた。

 当時の私の体は大人にぶつかれば簡単に飛ばされるほど弱く小さい。人ごみに揉まれれば流れに身を任せる以外で脱出はできないだろう。子どもらしくショートパンツから伸びる褐色の肌には、小さな切り傷があった。なるべく人を避けて歩いていると、一人の男性が私に声をかけた。


「大丈夫? お父さんとお母さんは?」


 その男性は、様々なものが散らばった汚い床に膝をついて、私の目線の高さまであわせ、優しい声色で話してくれた。今思えば、こういう時に犯罪を犯す人もいるのだからすぐに心を許さないほうがよかったのだろうけど、十歳の私にそんなことは考えられず、荒くなった呼吸をほんの少し整えて言った。


「はぐれてしまって」

「スマホとかないの?」

「もってない」

「そっか。……この流れじゃ外に出るのは難しいけど、今のが本震じゃない可能性もあるか」


 ぶつぶつと男性はつぶやき少しすると手を伸ばしてきた。


「とりあえずお父さんお母さんがいそうなとこまで行こう。何、俺には素敵な彼女がいるから変なことしないよ」

「彼女さんは?」

「俺もはぐれてね。連絡したけど電波障害が起きてるみたいで繋がらない。でも、きっと大丈夫だろうから」


 なぜそう言えるのだろうかとその時の私は思っていた。子どもとは案外察しが良く理解する生き物だ。だからこそ、混沌化した大人に絶望した。だけど、この人にはそういった混沌はなく、緊張さえも私には見せていない。それはある意味で異常だったが、混沌が普通になったこの状況ではこの異常こそが希望だった。

 異常は普通とは異なるだけで、異常そのもの自体が悪いことではないことを知った。


 その男性は不思議な人で、地図を見ては人とは違う方向へと歩いていく。おそらく落とし物であろうパスカードを使用しバックヤードへと入り、人の少ない道をどんどん進んでいく。スマホで取った地図を頼りに今いる場所を把握しながら、私たちはスタッフが使用する一階の駐車場へ出ることができた。

 太陽の光と穏やかな風を期待したが、目の前に広がる光景は中とさほど変わらない。


「黒煙が上がってるな」

「サイレンが聞こえる」

「電波障害はまだ直ってないか。駅に行ってみよう」

「なんで?」

「ああいうとこなら避難所として機能しているだろうし、捜索願なんかも出される。でも、なるべく高い建物が少ない場所から向かわないとな」


 私は自然と男性の手を強く握りしめていた。この時、男性の指には指輪があるのがわかった。おそらくペアでつけるものだろう。この人も本当は早く彼女の下へ向かいたいはず。でも、今頼れるのはこの人しかいない。白いシャツが薄汚れている男性の姿は、私にとっての希望の光だった。


 私と男性の手のひらの間は、夏の日照りの影響もあり酸味を帯びたうるおいで満たされていた。男性は腕まくりをして常に周囲を見渡しながら、私の歩く速さにあわせつつ、常に道の中央を歩かせてくれた。なぜなら、平常時と違って、道の端のブロックなどが倒れてくる危険性があるからだ。

 時折私の表情を伺う男性と目が合い、咄嗟に私は言った。


「付き合って長いんですか?」

「えっ、あ~まだ三年程度かな。まだまだこれからだろう」


 他人の私にここまでしてくれるのだから、きっと彼女さんも嬉しいことだろう。だけど、そんな私の想像とは裏腹に男性は言った。


「俺さ、読書とか映画を見たりとか、それに仕事とか。そういうのに集中すると周りが見えなくてね。普通は男性が旅行の提案したりするんだろうけど全部彼女任せだったんだ。だから、再会して落ち着いたら俺が計画立てようって思ってるんだ。大学生の彼女には俺の行動は老人のように見えてるみたいでね。もっと感情を表現を豊かにしてほしいってのはわかってるけど、自分は簡単に変えられない」

「意外です」

「そうか?」


 そういいながら、周りに建物が少ない広い駐車場で休憩した。

 奇跡的に生きていた自販機で男性はいくつかの飲み物を買い私に見せた。どれが好きかわからないからいろいろ買ってみたらしい。私は、スポーツドリンクを選んで勢いよく飲んだ。体全身をめぐる液体の動きがわかる。カラカラの喉に水分が触れると、ざわっと不思議な感覚がしたが、そんなことはどうでもいいくいらいに私はドリンクを飲んでいく。

 勢いよく飲んだせいでむせてしまうと、男性は私の背中をさすりながらハンカチで私の口を少し雑に拭いた。


「暑いな」


 まるでいつもの日常を過ごしているような言葉が今は心地いい。

 依然、サイレンの音や黒煙がこの街を支配している。大通りからは車のクラクションも聞こえてきた。


「いまいくつなんだ?」

「十歳です」

「俺よりも十一歳もしたなのに冷静なんてすごいな。いや、唖然としていたってほうが正解か」

「お兄さんは怖くないんですか」

「怖いよ」

「でも、どんどん目的地に進んでいきます」

「怖いからだよ」

「えっ?」

「恐怖は体を支配しようとする。それはいずれ悩みになり絶望へ変わる。そうなれば精神は俺の物じゃなくなるだろう。外界の刺激に対してのみ、安らぎと痛みを感じる。内界は手も足も出ない。でも、悩む前に体を動かして、恐怖の先にある答えにたどり着ければ俺の精神は俺のものとして留まる。まぁ、霧の濃い森で立ち止まって泣いているか、前に進んで脱出するかって感じ」


 どこか詩的な表現からのわかりやすいたとえ話。おそらく、本当のこの人は前半部分の言い回しをよくするのだろう。でも、相手とその認識を共有できないことからたとえ話で茶を濁す。そんな気がした。

 

「そろそろ行こうか」


 私は立ち上がろうとしたが脚に力が入らなくて立つことができなかった。

 なぜ立てなかったのかわからない。すると、男性は私に背を向けて乗るように言った。私は縋りつくように背中を抱きしめた。

 心臓の音が男性に伝わるのが少し恥ずかしいと思ったが、男性は明るい声色で答えた。


「軽いねぇ。最初からおんぶしてもよかったな。しばらく休むといいさ。あ、それとこれポケットに入れてて」


 なぜか男性はスマホを私にあずけた。

 私の汗とお兄さんの汗が交じり合う。夏の日照りは人にくっつくことを拒むように辛辣に照らすが、私はいまこの背中から離れたくなかった。自然とお兄さんにつかまる腕に力が入った。

 お兄さんも汗はかいていたが首元からはいい匂いがした。これがお兄さんの香りなんだと思うと別の意味で心臓がバクバクする。

 きっとお兄さんはなるべく揺れないように歩いてくれたんだろう。柔らかな揺れがまるでゆりかごのようで、気づけば私は私のすべてを男性にあずけて、眠りについた。


 起きた時にはすでに駅についており、日は落ち切っていた。そこら中に人が溢れている。私は床に敷かれたクッションの上で目を覚ましたのだ。


「大丈夫? 体痛くない?」

「ごめんな。一人で寂しかっただろう」


 お父さんとお母さんがいた。

 安心すると同時に、私を助けてくれた男性のことが気になった。

 両親に聞いてみると、男性は名前の書かれたホワイトボードの前にいると知りすぐにむかった。

 乱雑に黒色と赤色で五十音順に書かれた名前のや行を見ている男性の背中は、どこか哀愁に似た物を帯びていたと今なら思える。


「あの」


 男性は少しだけ遅れて私の方を振り返り、あの時のように目線を合わせて返事をした。


「ありがとうございます。お兄さんがいなかったらどうなってたか」

「君は強い子だ。俺は手助けをしただけ。きっと、一人でもあの状況を切り抜けられたさ」


 もっと話したい。もっと男性のことを、お兄さんのことを知りたい。そう思って言葉を出そうとすると、お兄さんは立ち上がって言った。


「彼女のところに行ってくるよ」

「……はい。本当にありがとうございます」

「気にしなさんな。元気でな」


 男性は私の頭に手を置いて雑に撫でると外へと出ていった。

 なぜあんな雑に撫でたのか。

 後からわかることだが、それは手の震えを私に伝えないためだったのだろう。


 ホワイトボードの上に張り付けられた字を見ると。


「重傷者および死亡者名簿……」


 信じたくなかった。あれだけ私を助けてくれたのに、その最愛の相手がどこかで大きなケガをしたというのだ。そして、私はあることを思い出した。どこかで聞いたことがある。多くのケガ人が発生した際に、そこには治療の優劣が発生すると。

 トリアージと言われるもので、ケガ人がどれほどの状態かを治療する人間が一目で判断し、ある程度の重傷者や助かる可能性があるものから優先的に治療をするというもの。

 よく見ると、名前は色で分けられてある。

 そして、お兄さんが見ていた場所にあった名前は、全て黒色で書かれていた。

 最初はただ名前が書かれてあるだけだと思ったが、隣のボードに記入されている名前の多くは緑で、それは軽傷を表すもの。そう、ここに書かれてあるのは、赤色は即座に治療が必要な人で、黒色はすでに亡くなっているか、もしくは最悪の状態であることを表している。


 この時、私は神などいないのだと理解した。

 

 私は咄嗟にお兄さんが向かった方を見ると、人混みの中にかすかに見えた背中は、私が身をあずけたあの時の強さ、輝きはもうなかった。


「ねぇ、このスマホ誰のなの?」


 お母さんが私にスマホを見せた。お兄さんが私にあずけたものだ。

 画面をつけるとロック画面を介さず画面が映り、メモの通知が入っていた。自然と指がそれをタップする。そこにはこう書かれていた。


「もし、俺が君を助けられない時は、このスマホに入っている地図で目的に向かってほしい。それと、電波障害が回復したならすぐに親御さんに連絡を取るように。俺が無事ならいつかスマホは回収するからそれまで持っていてほしい」


 それから五年の年月が経った。

 私は高校生になりそれなりにいい学校へと通っている。

 本を読み、歴史を学んで、様々なこと空想し日々考えていた。別に偉業をなしたいわけではない。だけど、あの時恋心に近い憧れを抱いたあの人みたいになりたかったからだ。あの日からは私はずっとお兄さんのスマホを持ち続けている。

 

 丘の上のにある町を見下ろせる場所で、田舎町を眺めていると、誰かがやって来た。


「大きくなったな」


 あの時のように白いシャツを腕まくりし、柔らかな笑顔のあの人が立っていた。

 指輪はもうない。


「もう、大丈夫なんですか?」


 咄嗟に出た言葉だ。お兄さんもその意味を察して答える。


「少し時間はかかったけど、もう大丈夫。曇天の空は風と共に舞い――」


 私はそのあとに続く言葉を知っている。


「天から降り注ぐ光芒が目的地を照らした」

「知ってるのか」

「あなたの本を読んだから」


 この人は若いながらもノンフィクションライターをしていた。あの地震の本をたまたま見つけ、十代の少女と共に被災地の中でただ歩いていたという始まりから、お兄さんのことだと気づいた。その本の終わりは、亡くなった大切な人との繋がりを断つことにより、前へ進むことを決めたというもの。


「成長した私に何か教えてくれないの」

「そうだな。……寛容であれ、されど自分を見失うな」

「また難しいことを」

「問い続け、わからないことを恐れないのが、人間の役目さ」


 あの地震は私にとって他とは違う成長のきっかけとなり、最愛の人を失ったお兄さんはまた一段と高みを目指すために歩み続ける。


 人が成長するには、大きな経験が必要だ。きっと、それはとてもつらいこともある。心が壊れるようなつらいこと。でも、そんな時にあきらめず、バラバラになりそうな心を必死に抱き寄せ、前を見た時、きっとそこには光芒が見えるのだろう。

 神はいないが人はいる。人は人として人の力により成長し、人のために一生を終えるだろう。これが私の今の人への考えだ。

 



 

 

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