・・・紅の月 フロレンス (2)・・・
スラム街をさらに抜けたフロレンス校外にバラナ・シトランの家はある。
かつて彼女はシレンの家庭教師の一人であった。シレンは幼少期から魔法の英才教育を受けるべく、親の雇った魔法使いから指導を受けていた。結局、そのどれもが失敗に終わったわけなのだが、唯一バラナはシレンに魔法ではなく、算術や言語学などの一般的な学問を教える教師として雇われた。
魔法使いたちのスパルタ教育を受ける毎日の中で、バラナの授業はシレンの息抜きの一つであった。
魔法以外の授業の方が、シレンには頭に入ったし、常に明確な答えがあるわけでもなく、根性論や精神論、そして才能に左右される魔法よりも、明確に答えを導く道筋のある一般学問の方が、単純明快に感じたのである。
それに他の魔法使いたちと違って、バラナはシレンが問題を解けた際にはしっかりと誉めてくれた。
とある事情でバラナが家庭教師をクビになった後も、シレンはこうしてある目的があって彼女の家を訪れている。
バラナの家は色とりどりの花が咲き誇る花壇がいくつもあり、外観はまるで花屋のように色彩豊かだ。庭では家庭菜園もしているようで、人参やかぼちゃが植えられていた。
バラナは朝早くから庭の花に魔法で水をやろうとしていた。
「先生」
黒い髪を緩く肩に結んだ後ろ姿に、シレンは声をかける。
バラナは振り返り、凛々しい笑顔をシレンに向けた。
「ああ、おはよう、シレン。ちょっと待ってて。今水をやり終えるから」
バラナはそう言うと目を閉じ、胸の前で手の輪っかを作る。すると青白い光が浮かび上がり、その光は段々と強くなった。
すると庭の井戸がゴボゴボと鳴り始め、中から大きな水の玉が出てくる。やがて水の玉はミストのように四散し、庭の花壇や畑に大量の水が降り注いだ。
魔力でコントロールしているため、シレンやバラナには一切水は掛かっていない。
「終わった」
バラナは一言そう言って、胸の前の光をゆっくりと消していった。
「今日も食事は済ませてないのだろう?」
「ええ。なので、今日もやることやったら、頂いてもいいですか?」
「ああ、私の手料理で良ければ」
「先生の料理は最高ですよ」
「調子が良いことを」
バラナはふっと笑った。
そして二人は庭の片隅の広く空いたスペースで日課の特訓を始める。
バラナはかつては王国軍の特殊作戦部隊に所属していた軍人だった。戦闘魔法の腕も然ることながら、格闘術も極めている。
この世界では魔法が戦争での主な兵器として運用されているために、近接格闘術は次第に廃れていった。あっても形式的なもので、魔法による運動能力の強化ができるが故に、自分の筋力のみで誰も戦うことはしなくなった。
そんな骨董品の扱いを受けている格闘術を、シレンはバラナから伝授してもらっている。
基本的にバラナが魔法で生み出した人形を相手に実践的な動きを見てもらうことが多かった。恐らく、今のシレンでは魔法を使わないバラナ相手でも勝つことはできない。
早速、シレンは人形相手に模擬格闘を始めた。
拳を出し、左足を前に出して戦闘体勢を取る。
シレンはすぐに右のジョブを繰り出すが、人形はそれを避け、右足の鋭い蹴りを繰り出す。シレンはそれを左腕でガードし、人形と距離を置こうとした。
「ダメだ。今のタイミングで距離をおくな。攻め続けろ」
バラナは都度、シレンの動きに目を光らせて指示を送った。人形はいわばバラナの生き写しであり、彼女だったらどう動くかをインプットさせている。もちろん、シレンにも勝算があるように手を抜いた状態にしてはいる。
それでも人形は容赦ない動きでシレンを翻弄し、次第にシレンを防戦一方にまで追い詰めていった。
「何事にも隙がある。チャンスを待って、動きの癖を叩け」
バラナの言葉に、シレンは守りに入りながらも相手の動きの癖を見極める。人形はフットワークが軽い故に、攻撃も軽いものが多い。シレンが怯んだ際に大技を繰り出すことがあるが、そこで動きが大振りになる。
シレンはそこを見抜き、敢えて人形の攻撃を少し食らってみることにした。
人形のジョブを腹に軽く食らった後、シレンは姿勢を崩す仕草を見せた。予想通り、人形は上から大振りのパンチを繰り出そうとする。
シレンはそこで、人形の水月に一撃を当てようとした。
だが不意にそこで人形はさっと僅かに距離を取り、パンチを止めてシレンに足払いを食らわせた。
「うわっ!」
見事に足払いは決まり、シレンは体勢を崩して倒れ、人形に固め技を決められた。
「ぐっ!」
振りほどこうにも固く締め上げられており、シレンは動けなかった。
バラナはため息をついて、手をパンパンと2回叩いた。すると人形の魔力が消えて魂が抜けたように力が無くなり、シレンは解放された。
「足の意識を怠りすぎだ。重心に気を配るようにいつも言っているだろう」
「でも、あと少しでした」
「少しなものか。まだまだ伸び代はたくさんある」
バラナは倒れたシレンに手を差し出した。
「にしてもあそこで不意に攻撃を変えるなんて」
シレンはバラナの手を掴んで起き上がり、愚痴を溢した。バラナは呆れたように言う。
「当たり前だ。簡単に君が勝ってしまっては、訓練の意味がないだろう」
「まあ、そうですけど」
シレンは手元にあったタオルで汗を拭き、先程の悔しさを噛み締めた。
その様子に、バラナは労いの言葉をかける。
「だがまあ、最初の頃に比べれば動きに磨きは掛かっている。日々少しずつでも成長しているのは確かだ」
「ええ、ありがとうございます」
だがシレンはあまり嬉しそうな顔はしなかった。
「どうした?何かあったのか?」
「いえ、何も」
バラナの問いかけに、シレンは濁して答える。そんなシレンの様子に、バラナはある意味納得したような顔をする。
「今日はもうやめるか?」
そう諭されたものの、シレンは首を横に振った。
「いえ、もう少しやらせてください」
シレンが頭を下げたので、バラナは頷き、再び人形に魔力を入れ直した。
「では、先程の反省を元に、もう一度手合わせしてみろ」
「はい」
シレンは再び立ち上がった人形【デコイ】に向き直り、臨戦態勢に入った。
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