虹色の星が降る夜に
沖田ノボル
・・・紅の月 フロレンス (1)・・・
ゲルトリア王国のシュトーレン地方の都市、フロレンスに住むシレン・クルスは、幼少期から魔法をうまく使うことができなかった。
元々の能力的な問題なのか、それとも魔法を習得するための学習方法が彼にあっていないのかはわからない。
シレンの住む世界では魔法が全て。魔法は人々の生活には欠かせないものである。
あらゆる仕事に限らず、家事などの日常生活やインフラにも魔法は利用されているのだ。
さらにゲルトリア王国は周辺諸国との戦争も控えているために、自国の魔法技術の開発、さらに高い魔力を持つ人間の育成にも力を入れている。
この世界で、シレンのような低能力の魔力しかない人間には、居場所はなかったのである。
そんなシレンの一日は、いつも自宅の屋根裏部屋から始まる。
まだ鶏が鳴くよりも前にシレンは起床していた。周囲の人間が、魔法を使って起床時間をコントロールできるのに対し、シレンは昔から自分の力で眠たい目を擦って朝を起きなければならなかった。
初めの頃は寝坊なんて日常茶飯事であったが、今では早い時間に起きることに慣れてきたし、それにシレンなりに朝早くに起きる工夫もあった。
シレンの飼っているミミズクのトトが、起きる時間に近づくと計りに乗ったクルミを1つ取って食べる。するとクルミ1つ分の重さを失った計りが傾き、その反動で部屋中の仕掛けが作動する。小さなボールがレールの上を転がり、振り子に当たって、今度は振り子が別のボールを動かす、そのボールがさらにレールを走って篭に落下し、その重さで篭が下に落ちると、繋がれたロープが滑車を通じて回り始め、ロープに繋がれた水差しが引っ張られて、シレンの顔にちょうど冷たい水を掛ける仕組みになっている。この仕掛けを作るのに、彼は1ヶ月の時間を要した。
「ん!」
シレンは短い声を上げて目覚めた。
枕はびしょびしょだが、おかげでいつもすっきり起きれる。この「冷や水作戦」は、シレンが幼少期に住み込みの家政婦から、何かある度にバケツごと水を掛けられてきたことに着想を得たものだ。
むくっと起き上がったシレンは、支度を終えてすぐに家を出るようにしている。
この時間は、まだシレンの家族―両親と弟―はまだ起きていない。唯一、家政婦のミランが朝の支度をしているくらいだろう。
屋根裏部屋から梯子を伝って3階に降り、音を立てないように慎重に2階、1階を降りていく。シレンはできるだけ、家族に会わないように心がけている。会えばお互いに良い思いはしないからだ。
1階に降りると、キッチンからパンのほどよく焦げる匂いとスープの香りがした。キッチンの部屋の横を過ぎた時に、偶然朝の支度をしていたミランと目があった。
ミランはシレンを一瞥した後に、ふんと鼻を鳴らして、まるで汚物を見るように睨み付けて、再び食事の支度に戻った。
支度といっても、魔法を使っているので、調味料が宙を舞ったり、包丁やフライパンも自動的に動いて具材を切ったり炒めたりしているし、お玉も勝手に鍋の中身をかき混ぜている。ミランがすることと言えば、レシピ本を見ながらその通りに魔法を操るだけだ。
人間の手でやるよりも、魔法の方が精度が良い。それこそ、魔法の習熟度によっては一流料理すら素人でも作れるのだ。
ミランの態度を余所に、シレンは玄関の扉を開けて外に出る。
うっすらと日が出始めようとしている淡い橙色の空を背に、シレンは朝の乾いた空気に支配された街を歩いた。
この時間はあまり人が歩いてはいない。その方がシレンには好都合だ。
シレンはある意味、この近所では悪い意味で有名だった。
「家族の期待に応えない親不孝などら息子」というのが周囲のシレンに対する評価であった。シレンが魔法をうまく使えないことは近所ではすでに知られている。魔法が全てというこの国においては、将来の出世は絶望的だ。
さらにシレンの家はそこそこ名の知れた資本家一族である。そんな家の長男が、簡単な魔法もろくに使えない人間だとわかれば、要らぬ噂も立つというものである。
実際、シレンの立場は肩身が狭い。魔法がこの世界の絶対的な指標である限り、自身の能力をもって国家や家の繁栄に尽力しない存在は、ゴミでしかないのだ。
魔法の蛍光を放つ街灯はその明かりを静かに消しつつあり、遠く南の方には、この国の資源である魔晶石の生産工場の煙突が見える。昼頃になれば、煙突から魔晶石の精製で生じた青くくすんだ煙がもくもくと立ち込める。おかげで毎日、太陽は雲の中に隠れてしまうので、朝ぐらいしか日の光は拝めないことが多い。
様々な背丈の住居がひしめき合うように道の両端に乱立する街並みを抜け、シレンはスラム街へとやってくる。
シレンの住む高級住宅地の清潔さと打って変わって、家々の壁は汚れた灰色をしていて、浮浪者や孤児が普通に道端で物乞いをしている。
だが、すでに彼らはシレンの存在は慣れたものである。中にはシレンに挨拶する者までいるくらいだ。
シレンがスラムの一角にある屋台に行くと、店主のアルフが営業を始めたところだった。
アルフはシレンに気づき、手を振った。
「よう、シレン」
「おはよう、アルフさん。いつものお願い」
シレンは屋台に近づき、小銭を取り出して屋台のカウンターに置いた。
「はいよ。ちょうど出来立てだ。運が良かったな」
アルフは鶏の腿の塩串焼きを三本とパン一切れを紙袋に入れ始める。
「調子はどう?」
「まあいつも通り、その日暮らしさ。お前くらいだよ、うちを贔屓にしてくれる物好きなんざ」
アルフは魔法を一切使わずに料理を行う。それでも長年の経験と優れた腕前が織り成す料理の腕は一流であった。
シレンは毎朝、ここで昼飯を買い、晩飯もここで済ます。家では全く食事をしないシレンにとって、アルフの店はありがたい存在だった。
「今日もバラナさん家に行くのか?」
「まあね。日課だし」
「そうか。じゃあ今日も頑張れよ」
アルフはニカッと笑って昼食を入れた紙袋をシレンに手渡した。
「ありがとう。じゃあまた夕方に」
シレンは紙袋を受け取り、屋台を後にしてバラナの家に向かった。
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