第67話 ここが楽園だったんだ

「きたきつねラジオ、今週は素敵なクリスマスソングをお聞きいただいております」


 窓際に置かれたシャーベットグリーンのラジカセから、みどり食品中央センター2階フロアに、地元コミュニティFMの夕方のラジオ番組が聞こえていた。


「札幌はどうやら今週末ホワイトクリスマスになりそうですね。さあ、続きまして『Santa Claus Is Comin’ to Town』。サンタが街にやってくる、です」


 終業時刻間際の社内に、誰もが聞いたことのある懐かしいクリスマスソングが流れた。


「レクリエーションの日はちょうどイブですね。大雪にならなければいいのですが」


 氷川主任が窓の向こうの曇り空を見て心配そうに言う。


「悪天候の場合は、会議室での実施に変更だな。せっかく銀さんがいろいろ作ってくれているけれど……」


 黒沢課長が書類をめくりながら言った。


「今回のレクリエーションは、企画がいろいろあるな」


「ああ、その発表会面白そうですよね。『よりどりぐりーん各店舗店長によるお店自慢』。江夏店長はしゃべったらとまらなくなりそうだし、松雪店長なんて一言で終わりそうです」


「きっとすごく、いい時間になると思うぞ」


 黒沢課長はしみじみとそう言って窓の下をのぞき込んだ。


 駐車場横のスペースで銀さんが作業をしている。二日後のよりどりぐりーん四店舗合同レクリーションに向けて、ツリーを作ったり、屋外カフェのためのテントを貼ったりしていて忙しそうに立ち回っているのだ。


 小田桐このはも銀さんが作業しているのを窓から見つめながらつぶやいた。


「間に合えばいいけど……」


 清野マリアだけは会話に加わらず、スマホの画面を凝視している。


 スマホにはメールの画面が表示されている。


<招待状ありがとう。ちょうど札幌に帰ってきているから撮影役をやりにいくよ!>


「うそでしょ……。風見先輩が来る……」


 ラジオから流れていた、アメリカの女性歌手が歌い上げる華やかなアレンジの『サンタが街にやってくる』が、サビを連呼して終了した。


「きたきつねラジオ、クリスマスソングを特集しております。あなたにも、メリークリスマス! 皆様のクリスマスに、素敵な奇跡が起こりますように……」


 マリアはスマホを見つめたまま、「奇跡、もう起きてるよ……」とつぶやいた。



***



 同じ頃、東区のとある家にも、ラジオから『サンタが街にやってくる』が流れていた。


 一人で暮らすがらんとした広い家で、三橋マヤ子は招待状を読み直していた。


「まさか、ケンちゃんからこんなものが届くなんてねえ……」


 その時玄関にカイの声がした。


「おばさん、見てみて! よりどりぐりーんのお姉ちゃんから、しょうたいじょうをもらったよ。あさってだよ。ママがおばちゃんとなら行ってきていいって」


「まあ、カイももらったの? おばちゃんももらったのよ」


「ちょうどよかった。おばちゃんと行こうと思って誘いに来たんだ」


「……どうしておばちゃんとなの?」


「だっていっつも家にいるんだもん。外に行こうよ! カフェみたいなんだって。チキンのトマト煮込みもあるんだってさ。おばちゃん、好きでしょ。店員さんたちもおばさんに来てほしいって言ってたよ」


「まあ……」


三橋マヤ子の胸に、暖かい光が灯った。



***



 翌朝になると札幌は真っ白になった。一夜にして一面の白い世界だ。


「ひじきさん、足元大丈夫ですか?」


 演劇の稽古場に向かうひじきを、本田美果が朝から迎えに行って一緒に雪の上を歩く。


「氷のところを踏まないようにしなきゃ―。ねー、明日、あおいっぴーの会社のイベントだね。美果さんにも招待状来たの嬉しいな。一緒に行ける―」


「まさか美咲が私を何かに誘うなんて本当に珍しい……」


「美果さんのお母さんの会社だし、親子三人集合だね!」


「まさか母の会社で美咲が働いていたなんて……。美咲ったら、何にも言わないんだもの。聞いたら母にはまだ伝えてないんですって。当日どうなるか心配」


「一番いいようになるよ」


「それにあおいさんがみどり食品って言うのもびっくりしてます。なんだかいろいろつながっていてとても不思議な感じ」


「本当は、みんなつながっているから不思議じゃないよ」


「えっ」


「世界中の人が誰かの友達の友達の友達だとしたら、ていねいに縁を紡いでたら絶対つながるじゃん」


「そんなふうに……、考えたことないです」


「知らない人同士も本当はつながってる。宇宙から見たらさ、俺たちの住んでる街なんてすごく小さいんだから」


「確かに……」


「だから、目の前の縁をとことん大事にすればいいんだよって、病院で寝てるときに夢で聞いたな」


「夢で? 誰から聞いたんですか?」


「さあ、あらいぐまちゃんだったかな」



***



 7階のワンルーム。あおいの部屋の窓には、冬の夜空が広がっていた。この窓から空を見ているとどうしてもマグカップのことが思われて心が苦しくなる。


 マグカップのかけらはなぜか小田桐このはが持って行った。元に戻す魔法なんて、あるわけがない。こなごなになってしまったのだ。それでもこのはの瞳に真剣な光を感じて、マグカップのカケラが入ったエコバッグを手渡してしまった。


 あの楽園の夢で会えたように、心の奥の深いところにきっとマグカップはずっといるんだ。だからいつでも会えるし、自分の中に存在しているんだ。


 そう思うが、叫びたいほどの寂しさがあふれるようにこみあげてくる。


「ごめんな……、ごめんな……」


 小学生の頃からずっと一緒にいた宝物。なんでも話せる友人。大切なことを教えてくれる存在。それに、それに……、あいつは、「働きたい」のかたまりだった。


――ボク、働きたいんだよ!


 働くことで、自分と社会がつながって無限に広がっていく。


 働くことで、自分と星空が、つながるみたいだ。


 ひょっとしたらマグカップに、働く喜びを教えてもらっていたのかもしれないと、あおいは今になって気づくのだった。


 失ったものを思って出る涙は、どこにも行き場がない。


 ずっと抱えていくしかない。


 とにかく今は、明日のレクリエーションのことに集中しようとあおいは思った。



***



 真っ白なクリスマスイブがやってきた。

 信号にもポストにも、綿帽子のように雪が高く降り積もった。

 雪は昨日の昼間もしんしんと降っており、昨日だけで30cmほど積もったのだ。引き続き降ると天気予報で言われていたが、まさかこんなに追加で降るとはだれも予想していなかった。昨日の積雪に加え一晩でドカ雪が降り、さらに60cmほどが積もっていた。この二日間で1m近く積もったことになる。


 街のいろいろなことが機能しなくなってしまった。

 路面電車は立ち往生し、バスは80分遅れの運行となり、札幌近隣から乗り入れる電車も軒並み運休が発表された。地下鉄は幸いなことに動いている。


 みどり食品中央センターの駐車場の除雪作業は、近所に住んでいる社員たちが朝早くから総出でやっていた。なんとかバイク便だけでも機能できるように敷地内に通路を作っても、配達に向かう公道じたいに除雪が追い付いていないような状況だ。


 こんな状況でレクリエーションなどできるのだろうか。


 銀さんがつくったテントの上にも、せっかく飾りつけしたツリーの上にも、大量の雪がこんもりと積もってしまっているのを見て、いつもより1時間早い地下鉄で出社したあおいは、頭の中が真っ白になっていた。


 かじかむ両手でスコップを掴み、なんとか自分の目の前から雪かきを始めていく。しかし永遠に終わらないかのような積雪量だ。


――これじゃ、無理だ……。


――ロマンチックな冬カフェを開催して、クリスマスの音楽をかけて、暖かいものを食べたり飲んだりしながら、心温まる時間にしたかったのに……。この雪じゃ、カフェの設営なんて無理だ……。


――この敷地内の雪をぜんぶ除雪するのには午前中いっぱいかかるだろう……。そもそも今日の実施自体が無理かもしれない。


――地下鉄は動いているけれど、バスも電車もいつ通常運転になるかわからない。招待した人たちが大変な思いをして来るくらいなら、もう中止の連絡をした方が誠実なんじゃないだろうか……。


――せっかく、今日いろいろな奇跡が起こる日にしたかったのに。


 雪かきをしながらあおいの頭の中でさまざまな考えがぐるぐると渦巻いていく。ぐずぐずしていられない。早く決断して、連絡しなければ。


 そう思ったとき、大きな声がした。


「さー、一気にやっちまうぞー!」


 サウス店の江夏店長だ。膝まであるような長靴にもこもこのダウンジャケットを着て、スコップを掲げている。


「赤塚、頼むぞ」


「はい!」


 アルバイトの赤塚翔も同じように雪かきスコップを持っている。


「そっちの倉庫にまだスコップいっぱいあるからな。萩野さーん、松雪さーん、地下鉄組は早く来れてよかったよな。どんどんやろう」


 江夏店長と赤塚翔は、二人並んで大量の雪をいっきに片付けていく。


 ウエスト店の萩野店長はかつての同僚と話しながら雪かきをしている。


「おっ、萩野久しぶりだな」


 そばに来た白河課長が声をかける。


「今日はよりどりぐりーんみんな来てるんだな。どうだ、琴似は?」


「白河課長、お久しぶりにお会いできてうれしいです。さっきも営業販売課のみんなにひさびさに会いましたよ。琴似も楽しいんですけど、やっぱりたまにはこうしてこっちに来るのいいっすねー」


 しゃべりながらすいすいと除雪している。


 ノース店の松雪店長がみんながやり残した雪を整理するようにきれいにしていく。


 黒沢課長が除雪機でどんどん通路を作り、氷川主任が雪がかかれたところに滑り止めを撒いていく。


 あっという間にみどり食品の敷地はいつものように使用できる状態に整備された。


 あおいは茫然とその様子を見ていた。


「いいね、いいね。この大量の雪で、いろいろできるじゃん」


 江夏店長が、積みあがった雪山を指さして言う。


「冬カフェにはやっぱり、かまくらと雪だるまじゃないっすかね」


 萩野店長が続ける。


「そう思って、真っ白な雪だけをこちらに集めてあるんです」


 松雪店長までもが話に乗っている。


「やるねえ、松雪さん。じゃー、統括に聞いてみようぜー」


 3人の店長があおいのところへやってきた。


「なあ、もう設営始めていい? ツリーと机と椅子、今の場所でいいんだよな」


「かまくらと雪だるまを作ってもいいっすかね」


「時間までには間に合うように致しますので」


 あおいは今目の前で繰り広げられていることが信じられなかった。


 自分がレクリエーションでやりたかったことを、緑色の手帳に箇条書きでメモしていた。


・店長同士のコミュニケーション強化のための共通体験の場づくり。

・能動的参加意欲の醸成。

・強みを生かしたリーダーシップ発揮のための話し合い。


 それらがすでにあっという間に達成されている。


 大雪が降ったというシチュエーションが、何よりの機会になっていた。



***



 時間になり、レクリエーションが開始された。


 碧社長、黒沢課長、氷川主任、清野マリア、小田桐このは、よりどりぐりーんのメンバー一同、それから招待客たちが着席している。


 時田あおいが立ち上がってペコリと頭を下げた。


「それではよりどりぐりーん四店舗合同レクリエーションを始めます。開催にあたりまして、統括の僕からご挨拶申し上げます。四店舗の皆さん、それから招待状を受け取ってくださった、よりどりぐりーんメンバーにとって大切な皆さん。いつも、よりどりぐりーんを支えてくださりありがとうございます。今朝は大変な雪でどうなることかと思いましたが、店長の皆さんのものすごいご活躍で、こんなすばらしい冬カフェができました。かまくらの中にはライトも点いていて、みどりちゃんにそっくりの雪像まで作ってくれて、ほんと、すごいです……。なんかもう今日の目的が達せられたような気がしていますが、軽食もございますので、どうぞよろしくお願いします。天気が悪くなってきたら、会議室に移動しますので、まずはこちらで最初のプログラムを行いたいと思います。最初のプログラムは『よりどりぐりーん各店舗店長によるお店自慢』です」


 江夏店長が立ち上がって、よく通る声で話し始めた。


「サウス店江夏です。うちの自慢は、元気です。元気だけは自信あります。今日は俺の彼女も来てくれていますが、俺はカッコいいことなんか何一つできないんですけど、元気だけは自信あります。そのことを今日は彼女にも伝えたくて、朝の除雪から張り切っちゃいました」


先ほどからおとなしく江夏店長の横で聞いていた彼女が、嬉しそうに笑った。


「えーと、サウス店はそんな感じで元気にやってます。特に一番の自慢は、今日連れてきているアルバイトの赤塚です。こいつの元気は本物です! 俺は、働くということは元気のパワーをお客さんにあげることだと思っています。その点こいつは最高です。うちの自慢です! 以上です! 赤塚から皆さんに報告があります。どうぞっ」


 赤塚翔が恥ずかしそうに立ち、江夏店長に負けないような大きな声で言った。


「みなさん! 僕は今学生ですが、この春から、みどり食品に就職が決まりましたっ! 僕が元気にすることでお客さんに笑顔になってもらうの、すごい楽しいです。なんだか遠慮して悩んでたんですけど、江夏店長が僕を推してくれて、就職決まりました! 頑張ります! よろしくおねがいします!」


 パチパチパチパチ。

 暖かい拍手が起きた。

 端で聞いていた碧社長が「赤塚君には、そのうちイースト店の店長になってもらいましょう」と隣の黒沢課長に耳打ちした。


 黒沢課長が目を丸くして、「えっ、じゃあ時田は?」と聞く。


「時田くんは、次の冒険をしてもらいましょうかね」


 碧社長はそう言って遠い未来を見るかのような、不思議な瞳で空を見た。


 黒沢課長は深く頷いた。


「それもいいでしょう。何かあったら私が守ります。なんてったって、私の魔法は、みんなを守る、ですからね。社長」


 その黒沢課長にカイが言った。


「え! 魔法が使えるの! そんな人に僕ケガさせちゃった。あのときはごめんなさい」


 隣にいた三橋マヤ子がカイの頭を撫でて言った。


「大丈夫よ。その人は無敵なの。無敵のけんちゃんなのよ、昔から」


 けんちゃんと呼ばれて黒沢課長の顔が真っ赤になり、周りのみんなが笑った。


 それから萩野店長が店舗清掃の極意を語り、松雪店長が業務改善シートについて説明した。次は、イースト店の番だ。


 あおいは、ごくりと唾を飲み込んだ。


 まず、長谷川多津子を紹介し、数字管理についての劇的な改善を発表した。


 そして次に、本田美咲を紹介した。


「本田美咲さんは、POPによる飾りつけをしてくれました。ここからは、本田さんにお話しいただきます」


 美咲が立ち上がり、会釈をした。


 そしてまっすぐ、母親の天野碧の顔を見た。


 碧もまっすぐ、娘の顔を見て、ゆっくりと頷いた。


 その瞬間、美咲の瞳から一粒の涙が零れ落ちた。


 沈黙の時間が流れた。


「私は……」、美咲が話し始めた。


 遅れて到着したひじきと美果が、美咲がひとり立って話しているのを見て、そっと手前で立ち止まった。


「みどり食品三代目社長、天野碧の娘で、本田美咲といいます」


 参加者一同がざわめいた。


「私はとても素晴らしい経験をしています。もともとインテリアが好きで、商業空間のインテリアや飾りつけにすごく興味があって、最近お店のPOPや装飾をやらせてもらうようになって、他の店舗の分まで作らせてもらったりして、今日の冬カフェのウエルカムボードや飾りも作らせてもらって、すごく楽しいです。ありがとうございます」


 碧は娘がこんなにはっきりと人前で話をしていることを、信じられないような気持ちで見つめていた。誇らしく、愛しく、いますぐ抱きしめたかった。


 けれども今、美咲が仕事人として話していることも伝わっていたので黙って見つめた。


 二人の眼が合う。


「お母さん……」


 美咲の瞳からさらに涙が零れ落ちる。


「私……」


 碧も思わず立ち上がった。そして言った。


「愛する娘。美咲。今日は美果も来ているわね。皆さん、うちの娘たちです。よろしくお願いします。でも今は……、よりどりぐりーんイースト店勤務の本田美咲さん。社長の天野碧です。あなたに、新しい仕事をお願いします」


「え……」


 涙を流したままの美咲が碧を見つめる。


「いま時田さんがやっている統括のサポート業務として、四店舗の店舗デザインに特化した担当をお願いします。仕事でも、これから頼りにしていますのでよろしくお願いします」


「それ、めっちゃいい!」


 立ったまま話を聞いていた美果が思わず大きな声を出した。


 誰もがそちらを見て美咲と同じ顔に驚いて、場は一気に湧いた。


 美咲は恥ずかしそうにしかししっかりとあおいに親しみを込めた微笑みを送って言った。


「時田さんといっしょなら安心……かな」


 あおいは、これからとても長く続く何かをその笑顔に見たような気がした。


「は、はい!」


 直立不動で小学生のように返事をするあおいに、皆が笑った。


 パシャパシャとカメラのシャッターを連続で切る音がした。


 マリアの招待客、風見透がそのあおいの表情を撮っていた。


「いい瞬間が撮れましたね」


 横にいた清野マリアがいつになく恥じらった表情で風見透に話しかけると、風見は神妙な顔をして言った。


「呼んでくれて、本当にありがとう。今日撮っているものは、ただの風景じゃなくて、心かもしれない」


「心?」


「そうだ……、心が撮りたかったんだ……。マリアちゃん、今度ゆっくり話を聞いてくれ」


「えっ、はい」


 風見の真剣な瞳の中に、マリアは何かとても信じられる光を見た。


「お飲み物用意できましたー。こちらのテントでお配りしまーす」


 テントには氷川主任がさっきから淹れていたさまざまな紅茶が用意されていた。


「シナモンミルクティと、レモンティ、ストレートティ、お好きなのどうぞ! 紙コップですみませんが、こちらからお取りくださーい」


 頃合いを見て、小田桐このはがスピーカーの音量を上げた。

 クリスマスソングのボリュームが大きくなる。


 あなたにも、メリークリスマス。

 歌詞がキラキラと空気に溶けていく。

 一人一人が嬉しそうに紙コップに入った熱々の飲み物をもらっていく。

 誰の顔も湯気で上気して薔薇色になっている。


 あおいはこの情景を描きたいと思った。

 ほんの簡単なスケッチだけでも、描きたいと思った。

 こんなこともあるかとバッグに忍ばせていたスケッチブックをそっと開いた。


 するとそこに突風が吹いてきた。


「わあ、大変」


「紙コップが倒れちゃう」


 あおいのスケッチブックも風にあおられて、中に挟んでいた紙がひらりと宙に舞った。


「あ……」


 その紙に描かれているものを見て誰もが言葉を失った。


 そこには、丁寧に描かれた女性の顔のデッサンがあった。


「えー!これって私!?」、と美果が大きな声を出す。 


「これは違う。俺にはわかる。美果さんの顔じゃないよ」、ひじきが首を振った。


「そうね、美果じゃない。私にもわかる。これは、美咲だわ」、碧社長がその絵をまじまじと見つめていった。


 あおいは、あまりのことに穴があったら入りたかった。あわてて絵を取り戻そうとする。


 しかしすんでのところで美咲がその絵を手にした。


 美咲は絵の中に自分が生きているのを見た。

 その顔が底抜けに明るく笑っているのを見た。


「時田さん、ありがとう」


 美咲はそう言ってまっすぐあおいを見つめた。瞳の奥まで見通すほどにまっすぐ。


 あおいはいま自分の眼が見ているものを静かに確信した。


 あのリンゴの絵をひと夏かけて描いたときの、世界征服にも似た静かな高揚。

 周りの影響をすっかり排除できたあのかんぺきな没入。

 得たものを絵筆で表現していくときの、無我のあの眼。


――僕の眼が見ているものが、真実でいいんだ。


 この眼が人生をつくるのだ。


 あおいは自分の楽園が、夢の中のことではなくなっているように思った。


 今この目の前にある、それぞれの笑顔。


 このそれぞれの笑顔が、自分の中の空虚な穴を満たしていく。


 心の扉が開いていく。


 抜けていく力。


 満ち足りた心。


 何もかもを愛おしいと思う。


 幸せな、我が楽園。

 

「あーなーたーさーまー、神の恩寵、奇跡の瞬間。さあ、黄金の林檎のしずくをお飲みなされませ」


 気がつくと銀さんが横にいて、あおいにそう声をかけた。


「えっ、銀さん?」


 銀さんはあおいをツリーのところへ連れて行った。


 ツリーの枝に、クリスマスのオーナメントみたいに、ぴかぴかな真っ赤な艶を発して枝に乗っていたのは……。


 赤いマグカップだった。


 そうだよ。


 失うはずなどないんだ。


 ここが楽園だったんだ。


 最初から、そうだったんだ。


 楽園を、一陣の風が通り抜けた。


 あおいは今、黄金のしずくを飲むことを決め、深い確信をもって手を伸ばした。


 祝福のように、クリスマスソングが鳴っていた。


 粉雪が舞っていた。


 万感の思いで、両手でマグカップを抱いた。


 マグカップが振動した。


 それはあの馴染みのある懐かしい振動だった。


「ぶるるるる……、あおいくん?」

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【完結】クレーム対応で残業してたら赤いマグカップが話しかけてきたんですけど 吉田麻子 @haruno-kaze-

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