第40話 それから
リリーたちがいなくなったクリスマスの昼過ぎ。リツさんが私にコーヒーの作り方を教えて欲しいと言ってきた。そのとき、リツさんの本当の名前が
玄記さんはクリスマスから5日目に、インスタントコーヒーの粉でコーヒーを作れるようになった。ブラックだけでなく、砂糖もクリームも上手く入れられるようになった。
そのあと、玄記さんは本名で戸籍を取得することができた。長かった髪の毛は短く切り、玄記さんはロイさんが社長を務める「ながすずストア」の子会社の「NAGASUZU」に2月から就職した。そこで経理事務をしながら、税理士試験受験のための資格取得を目指している。3月末の引っ越しまでは館から職場に行くので、館と駅との間の移動は私が車で送り迎えをしていた。
リエさんは本名を
透羽さんは4月から美容専門学校に通うことを決めた。それを聞いて、裕也も興味を示し、同じ学校に行くことになった。2人とも美容師見習いとして働きながら、通信課程を受けるという。そして、2人とも3月の初めに館から引っ越していき、館の中は少し寂しくなっていた。
透羽さんは引っ越してからも、妊婦の三佳さんの世話をするために館に来ていた。そのときに、再会した家族について話してくれた。透羽さんは自分の子どもたちに会ったそうだ。元旦那さんも子どもたちも涙を流していたという。しかし、元旦那さんと復縁はしないと言っていた。
ロイさんと三佳さんも、近々引っ越すことになっている。この館からはみんないなくなってしまうのだ。時山さんと梅子さんは、これを機に現役引退を宣言した。孝汰郎さんはこれからも、ロイさんの運転手を務めるということだった。
私はというと、まだ何も決まっていなかった。自分がやりたいと思うことを一度じっくり考えようと思い、今はその最中だ。ロイさんからは永鈴グループでの就職も提案されたが、断ってしまった。
進路を決められないまま、私は館のお別れ会を迎えた。お別れ会には裕也と透羽さんも来てくれた。食事のあと、玄記さんが三佳さん以外のみんなにコーヒーを作った。三佳さんは妊婦なので、麦茶にした。玄記さんが運ぶと危ないということで、運ぶのは裕也と私が担当した。
「玄記、コーヒーはどのくらいで作れるようになったんだ?」
「5日だ。5日目でコツをつかんだ」
ロイさんの問いに、得意げな顔で玄記さんが答える。
「玄記は、コツをつかむと人より上手くなるんだけどね」
「じゃあ、不器用なのか器用なのか、わからないわね」
ロイさんの言葉に、三佳さんが反応した。すると、裕也も会話に加わる。
「玄記って、経理の仕事はどうなの? 上手くやれてるの?」
「なんとかな」
「なんとかどころじゃないよ! 仕事が早く済むようになったって、評判だよ!」
玄記さんの謙遜を、ロイさんが慌てて補った。透羽さんは椅子に座ってコーヒーを飲みながら、にこやかな笑顔を見せていた。
透羽さんと裕也を駅まで送り、館に帰って来ると、玄関の辺りにロイさんと三佳さんと玄記さんがいた。ロイさんと三佳さんがもう寝ると言うので、寝る前の挨拶をした。玄記さんにも挨拶をしようとすると、玄記さんが「ちょっといいかな?」と言う。それで私と玄記さんは、2人で食堂の中へ入った。玄記さんは振り返ると、私を見てこう言った。
「朋世……朋世は、仕事の予定はあるのか?」
「いえ。まだ、何も決めていません」
私がそう答えると、玄記さんは下の方を見つめながら「そうか」と言った。そしてまた、私の方を見て、こう言った。
「もしよかったら、俺の家の家事を手伝って欲しいんだが……」
「えっ、ああ……家政婦ですか? そうですねぇ……」
「いや、金は出さない」
私は玄記さんの話をすぐには飲み込めなかった。玄記さんの言葉を繰り返して考えながら玄記さんを見つめていた。すると、玄記さんはまた視線を下の方に移した。
「あの……家事をしてくれと言いたいんじゃないんだ。コーヒーの作り方のときのように、家事の仕方も教えてくれ」
「……家事の仕方を教えればいいんですか?」
「いや、あの……俺と結婚してくれ」
私は吹き出した。こんなに美しくて王子様みたいな玄記さんが、ロマンチックの欠片もないプロポーズをしたことがおかしかった。
「朋世……」
「ふふ、いきなりですね、玄記さん。あはは」
「……うまく伝わらなくて、焦ったんだ」
私は、また笑いが込み上げてきた。玄記さんも少し笑っている。
「でも、言えてよかった。……リリーにも報告できるよ」
私は玄記さんから、久しぶりにリリーの名前を聞いた。笑いはすっかり治まり、私は玄記さんの次の言葉を待った。
「リリーは俺に、ちゃんと気持ちを伝えるようにって言ってたよ。ダメでもいいからってな。俺のことは、あいつにはお見通しだったみたいだな」
「リリーが……?」
私は、リリーの威勢のいい声と、リリーの本のイラストの笑顔を思い出した。すると、たちまちに涙があふれて頬を伝った。手で涙をぬぐっていると、玄記さんがティッシュペーパーを取ってきて私の頬にあてた。私は玄記さんから、その紙を受け取って涙をふいた。
「朋世に初めて会ったとき、まだ朋世がリノだったとき……俺を見て朋世が「わっ」って言ったのを覚えてるか?」
私は少し笑いながら「覚えてます」と答えた。玄記さんがそのことを覚えていたことが嬉しかった。
「俺は、おもしろいこだなと思ったよ」
「かわいいこじゃないんですか?」
私はふざけてみた。玄記さんにプロポーズされて、浮かれていた。
「かわいいと思ったよ」
その玄記さんの言葉を聞いたとき、私は顔が熱くなった気がした。玄記さんから視線を外した私に、玄記さんは優しくこう言った。
「俺は、朋世を見ていると、いつも自由になれたような晴れた気がするんだ。それに、朋世が笑うと、とても嬉しくなる」
私はまた、玄記さんを見た。玄記さんは私を見て、少し微笑んだ。
「知っての通り、俺はジジイだ。体は37で中身は73の老人だ。年甲斐もないのはわかってる……。でも、言わせてくれ。俺はいつも朋世の笑顔を見ていたい。いや……離れたくないと思ったんだ。だから、よかったら俺と、結婚してくれないか?」
私は首の辺りから、何か温かいものが広がっていくようだった。泣きそうになりながら、それでも玄記さんを見つめていた。一瞬声が出にくくなったので、早く返事をしなければいけないと焦った。ちょっと困ったような笑顔をする玄記さんに、私は力を込めて「はい! 喜んで!」と言った。そのあと、2人で笑った。
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