第39話 リリーの小説9

 翌朝目覚めると、時刻は9時を過ぎていた。母がいつも通りに、食事の介助や歯磨きをしてくれた。僕は、昨日の夜のことが頭をよぎり、力なく母に礼を言った。母は「あら、どうしたの?」と言って笑っていた。

 僕がリビングでゆっくりしていると、家のインターホンが鳴った。しばらくして、部屋にリツが来た。僕は笑顔を作ろうとしたが、ぎこちなくなった。

「よお、リオ。どうかしたか?」

「……どうもしないよ」

 リツはコートを脱ぐと、母に渡した。

「今日は起きるのがちょっと遅かったのよね」

「へえ。眠れなかった?」

「うん……いや」

「どっちだよ」

 リツはこたつに入りながら、笑っている。そのとき、母がリツに声をかけた。

「リツくん、私ちょっと買い物に行ってきていいかしら? 朝の売り出しがあるのよ」

「わかった。行ってらっしゃい」

「じゃあ、リオのこと、よろしくね」

「うん」


 母が買い物に行って、少し経った。まだ昨夜の男が来る気配はない。僕は、やっぱり夢だったのだという思いが強くなった。

「リツ、実は昨日さ変な夢を――」

『おい』

 僕は発言をやめた。昨夜の男の声が聞こえた気がした。するとリツが、僕を振り返って言った。

「昨日なんだって?」

「いや……何でもない」

「ふぅん」

 そう言うと、リツはみかんの皮をむきながら、テレビを観始めた。僕がリツの後ろ姿を見ていると、あの男が僕に話しかけてきた。

『さあ、今からリツの体にお前の魂を移す。いいな。3……2……』

『ちょっと待ってくれ!』

 僕は心の中で、男を静止するように念じた。僕は男と、心の中で会話を始めた。

『驚いたな! こんな風にお前と会話ができるとは』

『今はだめだ……今コーヒーを作ったら、リツが他人の家で勝手にコーヒーを作ったことになる』

『ほう。そうだな』

『その上僕が死んでしまったら、僕の異変に気づきもせずに、勝手にコーヒーを作ったことに……』

『お前は優しいな。……お前の優しさに敬意を表して、もう少し待ってやろう……』

 すると男の声は止んだ。

 リツはいつも通りに、テレビを観ながら僕に話しかける。そして時々、僕を振り返る。そのいつもの光景が愛おしくて、僕は何度も涙が出そうになった。リツの後ろ姿、リツの声、リツの笑顔。こんなに大切でかけがえのないものを、僕はもうすぐ失ってしまう。リツは僕に、生きているだけでいいって言ってくれた。そうだ。僕は生きているだけでよかった。それだけで幸せだった。こんなことになるなら、もっと自分の心のままに、リツに、みんなに支えられながら生きていればよかった。もっともっと、リツと生きていたい……。


 すると、母が忘れ物をしたと言って帰ってきた。僕は母にすぐ言わなければならないことがあった。

「母さん、リツにコーヒーを作る材料をあげてよ」

 僕の言葉を聞いて、リツが不思議そうな顔をしている。

「何言ってんだよリオ。俺が自分でコーヒー作れないこと、知ってんだろ?」

「リツ、僕のために練習してよ。リツが作ったコーヒー、飲んでみたいんだ」

 リツは驚いた顔をしながら、笑っている。

「上等だ。作れるようになってやるよ」


 リツは今すぐに作ると言ったが、僕は今日は飲みたくないと言った。そしてリツが帰るまで、特別なことは何も言えなかった。リツは帰り際に、僕にコーヒー作りのことを話していた。僕はリツに笑顔を見せることができて、安堵あんどした。


 リツが家に着く頃、またあの男の声が聞こえてきた。

『リツが自宅に着いた。……今からお前の魂を、リツの体に移す。もう時間が残り少ない。これが最後だ。わかったな。3……2……1』


 男がカウントを終えた瞬間に、僕は知らない家の台所にいた。目の前のテーブルにはビニール袋があり、中には僕の家から持ち帰ったであろうコーヒーの材料が入っていた。

 僕は、洗面所を探して入り、鏡を見た。鏡に映るのは、リツ1人だった。僕は、本当にリツに乗り移ってしまった。僕は手が震えた。それから体も震えてきた。

 僕はリツの体で台所へ戻り、やかんに水を入れて火にかけた。その間にインスタントコーヒーの粉と砂糖とクリームを袋から取り出した。

 僕は最期にリツに何か言えないかと、リツの体で声を出してみた。

「リツ……」

 それは、やはりリツの声だった。僕が声を出したとき、リツの体がびくっと動いた。リツは、意識があるようだった。多分、金縛りの状態なのだろう。僕はインスタントコーヒーの粉と砂糖をカップに入れながら、リツに言った。

「リツ。リツのコーヒー飲みたいって言ったけど、本当は僕の作ったコーヒーを飲んで欲しかったんだ。……まあ、リツの作ったコーヒーも美味しかったかもね……僕、余計なこと言っちゃったな……」

 そのとき、やかんのお湯が沸いた。僕はカップにお湯を注ぎ、スプーンで混ぜた。それから、一旦スプーンを取り出し、クリームを入れた。そしてまた、混ぜるためにスプーンを手に取り、動きを止めた。

「リツ。今までありがとう。楽しかったよ」

 すると、リツの目から涙があふれ、頬を伝った。これはリツの涙だろうか。それとも、僕の涙だろうか……。僕はリツの手でスプーンを持ち、コーヒーをかき混ぜた。クリームが均一に混ざり、僕がスプーンから手を離したとき、リツの声が聞こえた。


「おーい、リオ! コーヒー作ったぞぉ」

 目覚めた僕の目の前には、マグカップを持って僕の顔をのぞき込むリツの姿があった。そのマグカップには、ストローが入れてある。

「お前、なんて顔してんだよ。俺がコーヒー作れたのが、そんなに驚きか!」

「リツ君、頑張って作ったのよ。お母さん、見ててドキドキしちゃった」

「おばさん……」

 困った顔をするリツも、笑っている母も、確かにそこにいた。僕の人生はまだ続いているようだ。僕が何も言い出せないでいると、リツが遠慮がちに言った。

「……今は飲みたくないか? それなら俺が自分で飲むけど……」

 それを聞いて、僕は慌ててこう言った。

「のっ、飲みたい!」

 するとリツは笑みを隠すような、少しにやけた顔になった。

「おぉ、そんなに俺の作ったコーヒーが飲みたいか、ふっ」

 そういうとリツは、マグカップのストローを僕の口に運んだ。かなり甘いこのコーヒーは、すぐに飲めるくらいの温かさだった。マグカップのふちには、ところどころに砂糖が付いている。砂糖をマグカップに入れるときに、こぼしてしまったのだろう。リツ、ありがとう……。

「リツ、ありがとう」

「え⁉︎ おう!」

 お礼を言った僕に、リツはとびきりの笑顔をくれた。




 私はリリーの小説を読み終えて、顔を上げた。そのとき、リリーの声が頭の中に聞こえた。

『みんな、今までありがとう。楽しかったわ。ゲンキ、元気でね……なんかシャレみたいになっちゃったわ……』

 私はとっさに、リリーの本を探した。リツさんはリリーのイラストに向かって叫んでいた。

「リリー! こんなに急なのか……⁉︎ リリー! 何とか言え! リリー……お願いだ……」

 そう言ってリツさんは泣き崩れた。気づけば、リツさんの服装が変わっており、結んでいた髪は下ろした状態になっていた。リエさんを見ると、リエさんの服装も違っていた。リリーの本から、2人とも人生が戻ったのだ。

 辺りを見回すと、ラウとタユの姿がなくなっていた。本の中のリリーのイラストは、静止したまま動かない。私は、棚の上の写真を見に走った。ロイさんと三佳さんの結婚記念にみんなで撮ったその写真からは、ロイさんに抱かれていたはずのラウの姿が消えていた。

 そのとき、どこかからロイさんが食堂に戻ってきた。そして、アッシュフラワーがなくなっていると告げた。花を摘み取られて茎と葉だけで根付いていた鉢植えのものも、花びらが2枚だけになって箱に入れられていた灰色の花も。

 リツさんは、床に座り込んで泣いているようだった。ロイさんがリツさんの元へ行ってかがんだ。

 私はまだリリーがいなくなったことを実感できなかった。しかし、リリーがあの世へは行かないと言っていたことを思い出した途端に、涙があふれてきたのだった。

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